38話 三姉妹と海外旅行に行くことになった。
吐く息が白い尾を引く、十二月三十一日。
いやまあ、年始はこたつでぬくぬくしたい、という俺の怠惰な夢を叶えるべくして訪れた忙しさなので、自業自得と言われればそれまでなのだけれど……それにしたって、この作業量は尋常ではなかった。
少なくとも、ひとりでこなすにはキャパを超えている。
原因は言わずもがな、この葉咲家の敷地の広さゆえだ。
家からなにまで、すべてが大きすぎるのである。
本当、いまさらな愚痴ではあるが。
「ち、ちょっとクロウ。大丈夫? なんか頬がこけてるように見えるけど……」
「問題ない。すこし疲弊しているだけだ。ありがとうな、
しかし……だが、しかし!
この地獄を乗り越えた先にこそ、こたつでお雑煮という天国が待っているのだ!
そのヘブンを迎えるためにも、俺はこんなところで倒れるわけにはいかないッ!!
そうした気概を胸に、最後の大掃除を終えてリビングの時計を見やると、時刻はすでに午後六時を過ぎていた。
なッ……バカな! 先ほどまで午前中だったはずなのに!
(こ、これが『時間が溶ける』という現象か……ッ!)
戦慄しながらも、慌てて三姉妹の夕飯と年越しそばの準備に入る。
材料はとうに整っている。あとは調理するだけだ。
年末ということで、いつもの食事よりもすこしばかり豪勢な夕飯を出したあと、俺は急ぎ、元旦に行う予定の餅つきの
このとき、玄関先に飾るしめ縄と
(十二時を迎えた瞬間、俺の今年の家政夫業務は終了する……)
そうすれば、待ち受けるのは、こたつ天国。
三が日もまあやることはあるけれど、今日までの周到な事前準備があるので、作業はほぼないも同然だ。日課の風呂掃除をして、作り置きの雑煮を温める程度である。ここ一週間の地獄に比べれば児戯に等しい。
あとちょっとがんばれば、ようやく、ようやく休める。
(あと二十一分……あと二十分……)
リビングのこたつで年越しそばをすすりながら年末の特別番組を見ている三姉妹を横目に、俺はタイムリミットを刻々と数えつつ、おせちの仕上げに入る。
朝五時から行ってきた過酷な家政夫業にやられ、一種のランナーズハイ状態になりながら調理に集中していると、不意に。
「クロウ、そろそろ明けんぞ!」
と、
「……明ける?」
「年が明けんぞって! ほら、はやくこっち来いよ!」
「あ、ああ……」
手元のおせちを見ると、知らないうちに仕上げは完了していた。
どうやら俺は、無意識に完成させていたらしい。
「恐るべし、俺の家政夫魂……」
「なにぶつくさ言ってんだよ! はやく! はやく来いって! へへ!」
弁当好きなことからも窺えるように、こういったイベントものが大好きなのだろう。
弾む声音と共に、台所まで迎えに来た夏海は俺の腕をぐいっと掴み、無理やりこたつにまで引きずり込む。
「ふふ、もうすぐ明けちゃいますね! クロウさん」
「ああ、そうだな……
およそ数時間ぶりとなる着座に感動する暇もなく、ウキウキといった様子の三姉妹と一緒にテレビ画面を見やる。
すると。タイミングよく年越しのカウントダウンが始まった。
スパイ現役時代は、年明けの瞬間にあげられる花火音にまぎれて発砲されやしないかと冷や冷やしていたものだが、この空間ではその心配は不要なようだ。
テレビをにらむ三姉妹が、期待に息を呑む。
10、9、8、7、6、5、4、3、2、1……。
0。
「「「ハッピーニューイヤーッ!!」」」
十二時を回った瞬間。三姉妹はそう、深夜とは思えない喜びの声をあげた。
テレビ画面のMCが「明けましておめでとうございます!」と頭を下げる。ふと、深夜の住宅街にドンドン、となにかを叩くような音が響き始めた。近くの神社が初詣を開始した合図だ。
おめでとう! と言い合う三姉妹を視界に、俺の全身からフッ、と力が抜ける。
――終わった。
ようやく、地獄が終わったんだ……。
背後のソファに深く、深くもたれかかって、膝元のこたつ布団を腹の辺りまでかける。
夢にまで見たこたつの温かさが、俺の身体に染み渡る。このまま眠れてしまいそうだ。
と。
「おつかれさま、クロウ」
隣に座る桜が、目の前のテーブルに年越しそばのえびを差し出してきた。
なぜにえび?
「マジでおつかれー、クロウ」
「お、おつかれさまです。クロウさん」
桜に続いて、夏海はビールを一缶、秋樹はお菓子のチョコクッキーを渡してくれた。
三姉妹なりの労いのつもりらしい。
俺は雇われている側なんだから、そんな気遣いは不要だというのに。
「みんな、ありがとう……では、ありがたくいただくとしよう」
昼食からここまで、なにも胃に入れていなかったからな。
すべてをやり切った達成感と同時に、三姉妹のやさしさに触れながら、あまりの割り箸を手に取る。
その直後だ。
「……ん?」
俺の栄養摂取を邪魔するかのごとく、ピンポーン、と家のインターホンが鳴らされた。
現時刻、午前0時十三分。
年明け早々、近所の奥様方が挨拶にでも来たのだろうか?
「俺が出よう」
鈴木のような暴漢である可能性もある。俺は割り箸を置くと、足早に玄関に向かった。
向かって、後悔した。
「あけおめ。来ちゃった♪」
「…………」
玄関を開けた先にいたのは――金髪碧眼の美女。
キャサリン・ノーナンバー、そのひとだった。
バタン、と無言で扉を閉め、がっちり施錠。俺はそそくさとリビングに戻る。
これは、そう。夢だ。仕事のしすぎて頭が狂ってきたんだ。
そうだ。そうにちがいない。
こたつですこし仮眠を取ろう……。
「――って、ちょっとひどくないッ!? 一週間ぶりの再会だって言うのに!」
「おま……なに勝手に入って来てるんだ!」
夢じゃなかったッ!! 夢だったらよかったのに!
というかキャサリンめ、ノータイムで鍵を
ただの不法侵入者だぁ!
さすがは諜報部局長、こんな泥棒じみたテクニックまで超一流ということか……いや、そんなのはどうでもよくて!
玄関先まであがりかけていたキャサリンを押し戻しつつ、俺は小声で続ける。
「いいか? キャサリン。お前がなにしに来たかは聞かない、嫌な予感しかしないからな。ただ、いまだけは頼むから帰ってくれ。ここ数日の激務がようやく一段落ついたところだったんだ」
「あ、そうだったの? なら、ちょうどよかったわ」
「? ちょうどよかった?」
「骨休めにはピッタリの話を持ってきてあげたのよ。クロウと……そして、
そう言ってウィンクすると、キャサリンは再度、強引に家の中にあがりはじめた。
俺はまたも押し戻そうと力を込めるが、どれだけ押してもキャサリンの進行を止めることはできなかった。
クソ、この怪力女! 任務時にしか使わない怪力を使いやがって!
ジェット戦闘機を三回のパンチで墜落させる女を止めることなどできるはずもなく……結局俺は、不法侵入者キャサリンを家にあげてしまったのだった。
「ハロー! はじめまして、みんな。あけおめ!」
リビングに現れたキャサリンを目にした三姉妹の反応は、皆一様に唖然としたものだった。そりゃそうだ。家に突然ブロンドヘアーの外国人があがりこんできたら、誰でも普通はこうなる。
「年越し早々ゴメンなさいね。ワタシは冬子の親友のキャサリン。そして、ここにいるクロウの元仕事仲間でもあるわ。どうぞよろしくね。夏海、桜、秋樹」
「え、えっと……クロウ?」
この状況の説明を求めるようにして、桜が俺に視線を向けてきた。
俺にわかるはずがない。お手上げとばかりに肩をすくめたのち、隣り合うキャサリンの脇腹を肘でつついた。
「え、なに? 元旦からいきなりセクハラ?」
「事情を説明しろって意味だッ!」
「ああ、そういうこと。わかりづらいサイン出さないでよ、困るから」
「困ってるのは俺のほうなんだが……」
「みんな、H島って知ってるかしら?」
ボヤく俺を無視して、キャサリンがそんな問いかけをしはじめた。
H島といえば、某大国の観光地としても有名な島だ。日本でも知らない者はそういないだろう。俺は行ったことはないが、日本からも近いので日本観光客が多く訪れると聞く。
さすがに三姉妹も知っていたのか。キャサリンの質問に、静かにうなずきで返した。
「そうよね、やっぱり知ってるわよね。それじゃあ、そこに行ったことのあるひとは?」
三人が全員、首を横に振った。
そうだったのか。冬子が海外に行く人間だから、三姉妹もてっきり一度ぐらいは行ったことがあるものだとばかり。
「そっかー。三人はH島、行ったことないのかー。あんなに綺麗な海と豪華なホテルを、堪能したことないのかー。そっかそっかー」
「…………いや、待て、嘘だろキャサ――」
「――いまから行ってみない? H島」
俺の咄嗟の制止も馬耳東風。
キャサリンはコートのポケットから航空チケットを五枚取り出し、三姉妹にそう告げていた。
嫌な予感的中だ。
「マジでッ!?」「嘘でしょ!?」「え、え……ッ!?」三者三様の驚きを示す三姉妹を前に、キャサリンはどこか自慢げに言う。
俺はもはや、うなだれるしかなかった。
「とあるクジで『たまたま』当たっちゃってね。三人さえよければ、今年のお正月はH島で二泊三日、思う存分パーッと遊んじゃわない?」
「「「遊ぶー!!」」」
「よーし決定! それじゃあ、さっそく旅行の準備をはじめましょう!」
おー! と楽しそうにはしゃぐ三姉妹を見つめながら、俺は呆然と近くの柱にもたれかかる。
「あ、あはは……おしまいだ……なにもかも」
こうなったキャサリンは誰にも止められない。ほかでもない、俺が一番よく知っている。
H島に行こうと誘ってきた理由には、必ず裏がある。きっとスパイ絡みの面倒くさいことにちがい。
だが、いまの俺に重要なのは、そんな元上司の策略などではなく……。
「おせちとお雑煮、せっかく用意したのに……ッ!!」
二泊三日。冷蔵庫に入れていたとしても、おせちとお雑煮が保つかどうかはわからない。仮に保ったとしても、俺が三姉妹に食べてほしかった新鮮な味は、そのときには失われてしまっていることだろう。
「うぅ……俺はただ、こたつでぬくぬくしながら、三人におせちを食べてほしかっただけなのに……!」
そんな俺の嘆きは、三姉妹のうれしそうな声にかき消される。
かくして。
年明け初日。俺たちは日本を離れ、海外旅行に行くこととなったのだった。
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