休話 桜に連呼された。
これは、桜がさらわれた事件後――葉咲三姉妹の様子が変わってから、片桐ハチバンが俺の下を訪ねてくるまでの期間に起きた、何気ない日常のお話である。
「なーにしてんの? クロウ!」
「ふぎゅっ」
リビングのソファで作業していると、桜が背中……というか、首筋の裏辺りに抱きつくようにして覆いかぶさってきた。苦しい。
よく晴れた日曜日。
暖かな陽気が眠気を誘う、午後一時半の一場面である。
休日だからだろう。後頭部に当たるふたつの双丘にあるべき布の感触がなく、あまりにもやわらかすぎる感触が後頭部を刺激していたが、俺はあえて意識しないようにしつつ、膝上のノートパソコンから視線を外した。
「こら、桜。首筋に抱きつくんじゃない。首の骨が折れたらどうするんだ」
「そこまで怪力じゃないもん! ――というか、暇なのよー。かまって?」
「了解した。おー、よしよしよし!」
「きゃー! クロウゴロウさんだー! 語呂悪い!」
「――ふぅ。ほら、充分に頭をなでまわしたぞ。さあ、
「怪力扱いと言い、アンタ完全に私をゴリラだと想定してるわよね……?」
「ゴリラはみんなB型らしいが、桜は何型だ?」
「話のそらし方が下手すぎるッ!? A型だけども!」
「俺はO型だ。相性バツグンだな」
ともあれ、と区切り、俺はノートパソコンに向き直った。
「俺はいま大事な『日記』を作成中なんだ」
「日記?」
「フユコに宛てた三姉妹の成長日記だ。いずれ家に帰ってきたとき、こんなことがあったと振り返ることができたほうが、フユコも喜ぶだろ?」
まあ。あのチートじみた正義のヒーローであれば、そんなささいな成長ですら、どこかから監視していそうなものだけれど。
ソファの隣に腰を下ろし、桜は感慨深そうに続ける。
「お母さんへの日記……まあ、そうだね。それは喜ぶかも。お母さん、私たちの子供のころの写真とかもすごい残してくれてるし」
「ふむ。であれば、こうした記録も無駄にはならなそうだな――そういうことだから、俺は忙しいんだ。あとで相手をしてやるから、すこし待っていてくれ」
「ちぇー。そういうことなら仕方ないわね……私はてっきり、夏姉と秋樹が出かけてるのをいいことに、こっそりエッチなサイトでも見てるんじゃないかと思ってウキウキしてたのに」
「ウキウキしてたのか……というか、アダルトサイトをこんな真昼間から視聴するわけないだろう。見るのなら夜中だ」
「……見るには見るんだ」
「あ」
しまった。ついうっかり。
〝――私たちをそんなイヤらしい目で見るひとに、家政夫を任せることはできません――〟
日本に来る前。飛行機の中で視聴したあの家政夫面接の動画を見るに、三姉妹は自分たちを性的に見る人間を嫌っている。
少なくとも、その発言をしていた桜は嫌っているはずだ。
過去になにがあったのかは定かではないが、ともかく、彼女の前での性に関わる発言は、家政夫の道の断絶に繋がる……!
「あ、あの、ちがうんだ桜。毎夜そういったサイトを見ている、というわけではなくて、色んな検索をしているときにふと目に入ったものを視聴しているというか……」
「――そっか。そうなんだ」
「? さ、桜?」
「クロウもちゃんと、男のひとなんだ……えへへ」
軽蔑されるかと思いきや。なぜか頬を赤らめて、両足をパタパタと揺らす桜。
どこからどう見てもうれしそうである。
「なんか、ちょっと安心した。女のひとに興味ないとかじゃなかったんだね」
「それは……まあ、俺も男だからな」
「えへへ。そっか、そうだよね。よかったよかった――あれ?」
と。これでもかと頬を緩めていた桜が、俺のノートパソコンを見て首をかしげた。
「それ、日本語なくない?」
「え? ……ああ。キーボードの印字のことか」
いいタイミングで話題がそれた。
俺はいまがチャンスとばかりに、眼下のキーボードに手を添える。
「このパソコン自体は日本製なんだが、あえて日本語が印字されてないものを選んだんだ。俺自身、海外暮らしが長かったからな。日本語のひらがなを見ると、タイピングのときに混乱するんだ」
「へえ、そうなんだ……あ、そうだ」
「どうした?」
「ち、ちょっと待ってね。いま調べるから」
調べる? と首をかしげると、桜は慌ててスマホを取り出し、俺に見られないよう隠しながらなにかを調べはじめた。
一分後。調べ物を終えた桜がスマホをしまうと、どこか緊張した面持ちで咳払いをひとつ。俺の顔をじっと見据えながら、こう口にした。
「あ、『
「……はい?」
「RG! RG! RG!」
「そんなに連呼しなくても……なにかの暗号か?」
「えへへ、これならいっぱい言えるもんね! RGRGRGRG!」
「? よくわからないが、それはいい言葉なのか?」
「うん、RG!」
「そうか。まあ、それならいいが」
「えへへ……ほんと、RGだよー」
日記作成に戻る俺の肩に、桜がそっと頭を寄せてくる。
RGの意味はわからないが……まあ、桜の機嫌がいいのなら、それだけでいいか。
胸中でそうつぶやき、俺はキーボードに両手を添えたのだった。
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