36話 ハチバンが笑って、泣いた。(二章完)

「……?」

 

 廃工場。ボロボロになったトタンの屋根から、満月のやわらかな月光が差し込む仄暗い一室。

 その一室にて待機する『彼女』が異変に気付いたのは、通信機を起動させた直後だった。

 背後の廊下から、「う」と仲間たちの小さな呻き声が聴こえてきたのだ。

 計四回。呻き声は、日本に一緒に潜り込んだ仲間の分だけ連続して聴こえ、そしてドサッ、となにかが倒れるような音を最後に、途絶えた。


「――ッ、」

 

 この音の意味に気づかない『彼女』ではない。

『彼女』はすぐさま通信機を操作し、慌ててアンチフェイス本部に通信を図った。

 

 先ほど、ナンバーエイトに渡していた携帯電話の盗聴器から、ナンバーナインとの会話を耳にした。話の流れからするに、廃工場に乗り込んできたのはナンバーナイン――野宮クロウのほうだろう。

『彼女』が監視し続けてきたクロウは、フルピースの中でも最強の戦闘力を誇るとされていた。

 だからこそ、アンチフェイスに引き抜きたかったのだが……先ほどの呻き声からするに、四人の仲間たちは一瞬でやられてしまったことだろう。

 

 自分も確実にやられる――だが、本部にこの情報を伝えることができれば、人質となっている『No,038』を殺し、フルピースの株を失墜させることができる!

 自分は負けても、アンチフェイスを勝利に導くことができる!

 さすがのナンバーナインとて、通信機の電波より速くは動けないはずだッ!

 

 コツン、コツン、と死神の足音が近づいてくる中。『彼女』は勝利の確信と共にアンチフェイス固有の暗号を打ち込み、タンッ、と送信のキーを打鍵。

 通信機のディスプレイに、『Complete』の文字が浮かび上がった。


(勝った……!)

 

 胸中でガッツポーズを取った直後。

 ピピピ、と通信機の通話回線が鳴り響いた。

 

 いつもなら絶対に出ない『彼女』だが、このときばかりは通信機の受話器を手に取った。

 自分がナンバーナインにやられる際の物音という情報も、本部に伝えてやろうと思ったのだ。

 プッ、と通話が繋がる。


『――報告ご苦労さま、密偵さん?』

 

 瞬間。『彼女』の鳴らないはずの声帯が、ヒュッ、とおかしな音を立てた。

 毛虫に触れたかのごとくバッ、と受話器から手を離し、壁まで後退して、唖然とした表情で通信機を見つめる。

 受話器から聴こえてきたその女性の声は、アンチフェイスに在籍していない、まったく聞き覚えのない人物の声だった。

 公衆電話じゃあるまいし、一般人が通信に出るはずもない。ましてや、こんな声の女性がアンチフェイスに入ったという話も聞いていない。

 

 ということは、この女性は――


「――お前が密偵か」

 

 愕然とする『彼女』――密偵の耳に、そんな男性の声が届く。

 一室の入り口付近を見やると、そこにはスーツ姿の男性がひとり、突っ立っていた。


(……野宮、クロウ……!)

 

 目の前にいるはずなのに、クロウの気配は恐ろしいほどに皆無だった。

 これは、修練でどうにかなるレベルではない。生まれ持った天性の隠密スキルだ。仲間たちも、おそらくなにが起きたかすらわからずに倒れていったことだろう。

 

 と。ダラン、とぶら下がった受話器から、『クロウ、そこにいるの?』と女性の声が響いた。

 クロウがこちらを見つめながら室内に入り、その受話器を手に取る。

 密偵は動くことができない。クロウの身体から滲む殺気が、それを許してくれなかった。


「ああ、俺はここにいるぞ。残党は残り密偵のみだ。どうしてこの通信を?」


『ミヤを抱えて脱出しようとしたら、いきなり通信機が鳴り出したからかけてみただけよ。襲撃されているのに通信してくるのなんて、密偵だけだろうと思ってカマかけてみたんだけど……さっきの反応からするに正解だったみたいね』


「死神にでも遭ったような顔で俺を見ているよ――それで、そちらの状況は?」


『こっちはいま終わったところよ。二百人ぐらいいたけど、なんとか三分で片づけられたわ。やっぱダメね。事務仕事ばっかやってると、身体が鈍ってしょうがないわ』


「……バケモノ」


『なにか言いまして?』


「なんでもない……それより、ミヤは無事だったのか?」


『なんとかね。拷問室にいたんだけど……左目が潰されてたわ。エイトの任務達成如何によらず、二十五日以内に各部位を潰して殺していく予定だったみたいね。いまは気絶してる』


「そうか。それはラッキーだったな」


『そうね。スパイの拷問に遭って片目の損失程度で済むのなら、安いほうだものね。四肢をちぎられるのがベターな世界だし』


「俺はこれから密偵を『狩る』が……殺しはしなくていいんだよな? ほかの四名も気絶させただけなんだが」


『ええ、それで充分。幸か不幸か、そこは日本だからね。日本の法に裁かれてもらいましょう。それに、ワタシにすこし案があってね』


「ほう。その案とは?」


『任務が終わってからのお楽しみ――それじゃあ、そろそろ脱出しとくわね。この本部、二分後に爆撃される予定なのよ。フルピースの軍部に頼んでおいたんだ。アンチフェイスに関する〝情報〟は、データであれ死体であれ、文字通り欠片も残らないわよ。用意周到でしょう?』


「……お前を敵に回すと怖いことだけはわかった」


『母は強し、ってね。ワタシの家族を……子供を傷つけた報いよ』


「ああ、それは妥当な報復だな。では、俺も報いを受けさせてやるとしよう」


『グッドラック』

 

 クロウに向けたものか、密偵に向けたものか。通信先の女性はそうつぶやき、通話を切った。


「ん?」

 

 と。受話器を置いたあと、野宮クロウは通信機の横に置いてある、小さなメモ帳を手に取った。

 それは、密偵にとっての『声』だった。


「『声を発することは許されない。そもそも、声を発することは物理的にできない。だからこそ、適任だ』――日付は、俺の監視を開始したであろう十一月二十七日。夏海が雷に怯えた日だ。なるほど。、こんな記録を残してたのか」


「……、……」

 

 そう言って、クロウは密偵の首元――何重にも巻かれた『包帯』を見やった。

 

 叶画高校の学園祭。秋樹の猫メイド喫茶を訪れた際、クロウは何者かの視線を感じて、背後を振り返った。

 そのとき、彼の視界には女子生徒と、包帯を巻いた仮装生徒が映った。

 そう――ちょうど目の前で怯えている密偵のように、首に包帯を巻いた人物が。

 あの学園祭には、仮装した生徒があふれかえっていた。その中でなら、首元に包帯を巻いた人間の存在感は薄れることになる。

 その場の状況を利用した、一種の『変装カムフラージュ』だ。


「呼吸音しか聞こえないということは、喉を潰し、声帯を壊したのか。他機関のスパイに拷問に遭っても、情報を漏らさないように。たしかに、監視役には適任だ」


「――――」


「自ら潰したのか、組織の人間に潰されたのか。そこは俺のあずかり知らぬところではあるが……まあ、同情だけはしてやるよ。同情ついでに、決めさせてやろう」


「……、?」


「お前の『狩られ方』だよ」

 

 メモ帳をたたみ、机の上に置いて、野宮クロウは密偵に歩み寄っていく。

 コツン、コツン。

 一歩一歩近づいてくるたびに、密偵の瞳に涙がじんわりと溜まっていく。

 逃げ場なはい。あったところで、ナンバーナインから逃げ切れるはずがない。

 パニック寸前の中。クロウが手の届く近距離にまで近づいてきた。


「安心しろ。さっきも言った通り殺しはしない。だが、俺もハチバンを苦しめられた恨みがあるからな。すこしだけ意地悪をさせてもらうぞ――だから、ほら、


「……、……ッ!」


「ん? 聴こえないな。?」


「――ッ、……ッ!!」

 

 パクパク、と口を何度も動かすが、出てくるのは空気音だけ。

 クロウの右手がガシッ、と密偵の頭を鷲掴む。

 捕食寸前の小動物のように震える密偵を見下ろしながら、クロウは『すこしだけ』性悪そうに告げる。

 穴の開いた屋根から、満月がこちらを覗いていた。


「ほら、しっかり喋れ――あの月に聴こえるぐらいにな」

 


     □

 


 翌日。

 片桐ハチバン排除の任務を終え、いつもの家政夫業をこなしていた俺のもとに、一本の電話が入った。

 相手は、キャサリン・ノーナンバー。

 

 聞けば、白峰カナ殺害を依頼していた白峰家の親戚一同が、殺人を生業なりわいとしている海外の『五人グループ』に殺人を依頼したとして、殺人教唆の罪で逮捕されたのだそうだ。

 海外の五人グループ……なるほど、廃工場にいたあの残党たちを殺人グループとして仕立てあげることで、白峰の親戚共に罰を与えたわけだ。

 

 これにより、白峰の親戚たちに白峰厳三の遺産を継ぐ権利は消滅し、遺言通り、すべての遺産は孫娘の白峰カナに渡ることとなった。

 これが、キャサリンの言っていた『案』だったのか。

 

 アンチフェイスの残党たちも殺人罪でお縄についた。出所は何十年後になることか……なんであれ、アンチフェイスの再起は不可能になったと言っていいだろう。


(まったく、怖い女だ)

 

 だが。白峰家の親戚がついえたわけではない。残った守銭奴の親戚が、なにかしらの手を使って白峰カナの遺産を横取りしようとしてくるかもしれない。

 そう危惧する俺に、キャサリンは不思議そうにこう言った。


『それが、その心配はなさそうなのよ……というのも、ほかの白峰家の親戚たち全員が突然、遺産相続の権利を放棄しはじめたらしくてね?』


「権利を放棄? それも、全員が?」


『不思議よね。かなりの守銭奴だって評判だったらしいんだけど……ほかの親戚が捕まったことで改心でもしたのかしら?』


 改心するような人間なら、はじめから殺人を依頼したりなどしない。

 こんな不可思議な現象の原因となりうる人物は、ただひとり。


「……冬子か」


『え? ゴメン、お酒そそいでて聴こえなかった。なんですって?』


「いや、なんでもない……というか、午前中から酒を飲むな」


『こっちは夜だもーん』


 悪びれた様子もなく、グビグビプハー、と通話越しに酒を呷りはじめるキャサリン。

 正義のヒーローとして、叶画市にはびこる悪が許せなかったのか。

 はたまた、大事な娘である三姉妹がお世話になった白峰カナの、あまりに理不尽な不幸が見逃せなかったのか。


(……怖いな、女って)


 ハチバンの二重スパイではないけれど、そんな二重の意味を込めたつぶやきを胸中でしつつ、俺はキャサリンとの通話を一方的に切ったのだった。


 

     □


 

 クリスマスが過ぎ、年末前の慌ただしさが襲ってきた。

 この時期、外で働く会社員と同じく、家で戦う家政夫も忙しくなる。

 大掃除に始まり、年越しの準備、年越しそばの仕込み、年明けの飾り物の準備、もち米や臼の用意、おせちやお雑煮の調理……などなど、やることが満載なのだ。

 

 十二月二十六日。

 この日も俺は、朝から商店街に買い出しの自転車を走らせていた。


 二十六日って、慌ただしくなるの早くね? と思うかもしれないが、それは甘い考えだ。

 何事も先を読んで行動する。それが家政夫の流儀なのだ。

 特に、年末年始は家政夫もこたつでぬくぬくしたい。

 ゆえに、年末前のいま、がんばるのだ!


「ぬおおおおおおおッッ!!」


 年越しと年明けに必要なものを買いそろえたのち、自転車にライドオン。ケイデンスをマックスまであげ、一目散に帰宅の途に着く。

 いま家では、冬休みに入った三姉妹がせっせと大掃除を手伝ってくれているはずだ。


「いまが午前十一時二十分……帰ったら大掃除を中断し、みんなの昼食を用意せねば! 先ほど売れ残りのケーキを買ったから、それをデザートに振舞って――、」


 と。その中途。

 俺は、大通りをそのまま南下する道と、風の子院に向かう道との分岐点に差し掛かった。

 ハチバンとは、あの夜以降、顔を合わせていない。


 あのクリスマスをさかいにナンバーエイトというスパイは死亡し、偽りの人間であった片桐ハチバンが本物となった。

 それに伴い、ハチバンは年齢も十三歳に修正したそうだ。

 七歳もサバを読んでいたことに、きっと白峰カナは腰を抜かすほど驚いたことだろう。

 まあ。あの穏やかな白峰のことだ。それでハチバンへの態度が変わるようなことは、決してないだろうけれど。


「……遠くから様子を見るだけだ。うん、遠くから見るだけ」


 自分に言い聞かせつつ、自転車をスーッ、と風の子院のほうに向けて漕いでいく。

 程なくして。風の子院に到着。

 静かにブレーキをして、停車。自転車に乗ったまま門の影に潜みつつ、院内を覗いてみる。


「……あはは」


 そこには、広場で子供たちと戯れる、元気なハチバンの姿があった。

 ツインテールからショートカットになったせいか。表情がよく見える。子供たちと走り回るその顔は、こちらまでうれしくなってしまいそうな満面の笑顔だった。

 ウソ偽りない、本当の片桐ハチバンの素顔だ。


 すると。教室の窓を拭いていた白峰カナが、なにやらハチバンたちに向けて言葉を発し、頬をふくらませて腰に手を当てた。

 それを聞いた子供たちが、わー、と白峰のもとに走っていく。

 風の子院でもいま、年末の大掃除を行っている最中なのかもしれなかった。

 

 その直後だ。


 ――あ。


 ふと。何気なくこちらを振り返ったハチバンが、俺の存在に気づいた。

 驚きに目を見開いたのち、ハチバンはそっと胸に手を当てて。


 ――ニシシ。


 と、目を細めてほほ笑んだ。

 そのやわらかな頬を、二筋のしずくが伝う。


 ハチバンは、笑いながら、泣いていた。


 うれしそうに、けれど、さみしそうに。

 いまの幸せを喜ぶような、もう戻れないことをうれうような、そんな表情で。


(……ああ、そうか)


 考えるまでもなく、その雫の理由にたどりつく。


 ハチバンは、白峰たちと新しい家族の幸せを得た。

 けれど。もう昔の家族には……ミヤには、二度と会えないのだ。

 どれだけ願っても、二度と。


「――またな」


 ハチバンに聴こえないであろう小声で告げて、片手をあげると、俺は早々に風の子院を後にした。


 ペダルを漕ぎ、坂道をくだる。

 少女の頬を流れた雫の名前を、俺は知らない。

 なぜなら、『スパイは涙を知らない』のだから。


 まあ、何度でも言うように。

 俺はもう、スパイではないのだけれど。





     第二章 完

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