35話 ハチバンに託された。

「白峰さんも、こんばんは」


「え、あ、はい。こんばんは……え? 野宮さんが、どうしてここに?」


「秘密の散歩をしたくなりまして――すみませんが、すこし歩道の脇によけていてもらえますか? いまからハチバンと『チャンバラごっこ』をしますので」


「ち、チャンバラ?」

 

 俺の声音が真剣であることを察したのだろう。困惑しながらも、白峰はおずおずと歩道脇の草むらに移動してくれた。

 こちらに強い敵愾心てきがいしんを向けながら、ハチバンは暗器のボールペンを逆手でしかと握りしめている。

 が。その瞳は固い決意に燃えながらも、動揺と恐怖に揺れ動いていた。

 

 だからこそ。

 俺はあえて、警戒心を緩めるために、ニカッ、と歯をむき出しにして笑ってやる。


「さあて、ハチバン。嘘だらけの日々も今夜で終わりだ。今日ですべてを明らかにしてやる。秋樹の好きな推理小説でいうところの『解決編』ってやつだ。これまで吐いてきたハチバンの嘘を、この満月の下でつまびらかにしてやるよ」


「……ボクの嘘?」


「とぼけなくてもいい。キャサリンもとっくに気づいて、俺にある任務を依頼してきたくらいさ――片桐ハチバンの排除っていう極秘任務をな」


「ッ……、キャサリンが、ボクを排除……」


「そうだ」

 

 愕然とするハチバンに、俺は坦々と告げる。


「フルピースとアンチフェイス――ふたつの諜報機関をあざむいた、『二重スパイ』のお前をな」

 


     □

 


「俺は探偵でもなんでもないから、説明が下手かもしれない。だから、ハチバンの嘘をひとつひとつ指摘するんじゃなく、今回の騒動の流れを時系列順に説明していくぜ?


「その中で、お前の嘘も暴いていってやる。


「水平思考でたどり着いた、この推測でな。



 

「――始まりは、恨みだった。


「フルピースの敵対組織であるアンチフェイスは、どうにかしてフルピースをおとしいれたかった。裏の世界では、スパイと言えばフルピースと相場は決まっている。スパイ市場を支配されて、思うように稼げなくて、アンチフェイスも相当恨んでいたんだろう。


「活動の場を民間や殺人にまで広げていたのは、そうしたフルピースへの嫉妬、ないし反抗心からだった。



 

「そして――一ヶ月前の、十一月下旬。


「日本の資産家、白峰厳三が死去。遺言で、白峰カナにすべての遺産を相続すると書き残した。


「これにより、白峰家の親戚一同は大パニック。なんとかして白峰カナへの遺産相続を食い止めようと考え……そして、ある方法を思いつく。


「白峰カナの殺害だ。


「白峰カナさえ死ねば、あの莫大な遺産はすべて自分たちの手に戻ってくると、守銭奴の親戚共はそう考えた。



 

「だが、自分たちでは殺せない。殺したとしても、素人の殺しでは必ず足がつく。それじゃあ本末転倒――そこで親戚一同は、ある組織に白峰カナの殺害を依頼することにした。


「アンチフェイスだ。


「本来、裏の世界にだけ知られているはずのスパイ組織だが、民間に手を伸ばしたことにより、白峰家の親戚一同の目に留まったんだ。


「アンチフェイスは当然、その依頼を引き受けた。


「このときアンチフェイスは、白峰厳三がフルピースに白峰カナ護衛の任務を依頼していたと知る。と同時に、親戚共が護衛の件を『知らない』ことにも気づいた。


「けれど、アンチフェイスは親戚一同に、白峰カナ護衛の件は伝えずにいた。伝えてしまえば、殺人を依頼するような連中だ、白峰カナに先手を打たれることを恐れて親戚一同が余計なことをしかねない、と危惧したんだろう。


「プロの仕事に素人が混じることほど、邪魔なことはないからな。


「まあ、そもそもアンチフェイスは、プロの風上にも置けないが。



 

「そして同時期――アンチフェイスは偶然、フルピースのとあるスパイと遭遇する。


「別任務で出張っていた『No,038』……通称、ミヤだ。


「アンチフェイスはこれを好機チャンスと踏み、ミヤを拘束した。


「ミヤが捕まった経緯はわからない。そこは、いくら考えても推測ですらない憶測にしかならない。多勢に無勢で抑え込まれたのか……なんであれ、とにかく彼女は捕まった。


「ただ殺すのはつまらない。フルピースを陥れるためにも、ミヤという存在を利用しなければ。


「そう考えたアンチフェイスは、ミヤの身辺調査に入った。


「ミヤの『弱み』を探して、握り、そこに付け入ろうと画策したんだ。



 

「それと同時進行で、アンチフェイスはある引退したスパイに目をつける。


「俺こと、『No,009』だ。


「どこで俺の引退情報を聞きつけたのかは知らないが……まあ、キャサリンが引退理由に『女スパイ全員が惚れたから』なんて記載するはずもないから、おそらくは、俺が理不尽にスパイを引退させられてフルピースに恨みを持ってるんじゃないか、と考え、アンチフェイスの味方に引き込もうとしたんだろう。


「俺が働く葉咲家の近く、とあるアパートの一室に、監視専門の『密偵』スパイ……ハッカーを配置し、俺を逐一ちくいち見張った。俺が『使える』スパイかどうかを判断し、交渉するためだ。


「だが。俺がコイツの視線に気づいたことで、密偵スパイは潔く監視を中断し、俺への交渉もやめることにした。


「いや、正確には、俺と交渉する必要がなくなった。


「交渉相手の『別口』――ミヤの親友である『No,008』、ナンバーエイト、片桐ハチバンの存在にたどりついたからだ。


「ミヤの弱み、だ。



 

「アンチフェイスはミヤの携帯を使って、ハチバンとの接触を図った。


「おそらくは、『ミヤを拘束している。従わないとミヤを殺すぞ』とでも脅したんだろう。


「ミヤを人質にすることで、スパイ十指であるハチバンを利用し、フルピースを内部から崩壊させようとくわだてたんだ。


「キャサリンはこのときの目撃情報をもとにして、ハチバンの排除任務を下したのさ。


「……まあ、その任務の真意は、またあとで話すよ。


「ともあれ。ミヤの親友ということは、ハチバンにとっても親友ということ――ミヤを人質に取られたハチバンは、ミヤを殺されないようにするためにも、アンチフェイスの要求に素直に従うしかなかった。


「だが。相手はスパイ十指のひとり。いざとなったら反逆してくるかもしれない……アンチフェイスはそう考え、スパイを数名、日本に送り込むことにした。いざというとき、ハチバンを力ずくで始末するための抑止力だ。この数名のスパイの来日も、キャサリンの情報網がしっかりキャッチしている。


「交渉役には多すぎると思ったんだ。奴らにそんな『別の目的』があったとはな。



 

「その後。アンチフェイスはハチバンに、『白峰カナ護衛の任務を受けろ』と命令した。


「ハチバンは、別の任務終わりにもかかわらず、キャサリンに日本での任務がないか申し出た。白峰カナ護衛の任務をなるべく自然に受けるために。


「キャサリンから依頼された、と嘘をついていたのは、このためだったんだ。


「無事、白峰カナの護衛を引き受けたのち、アンチフェイスはさらに任務を課した。


「そう――アンチフェイスが引き受けていた、白峰カナ殺害の任務だ。


「スパイ組織は信用が大事だ。金よりも、命よりも重いと言われている。


「アンチフェイスは、スパイ十指という優れたスパイを二重スパイに仕立て上げ、あまつさえ任務を反故ほごにして失敗させることで、フルピースの信用をガタ落ちにさせてやろうと目論んだのさ。



 

「こうして。ふたつの任務を持ち二重スパイとなったハチバンは、日本に向かうこととなった。


「日本に来る際、ハチバンはアンチフェイスから携帯を渡されたはずだ。ハチバンの位置を、GPSでいつでも特定できるように。


「おそらく、白峰カナ殺害のタイミングは、ハチバンにゆだねられていた。命令してばかりでは反発の意思を強めるだけ。従順に、自ら手を汚す覚悟を持たせる必要があると考えたんだ。


「まあそれでも、最高でも期限は一ヶ月程度だったろうけれど。



 

「白峰カナを殺さないと、ミヤが死ぬ。


「けれど。ここで白峰カナを殺したら、スパイとしてのプライドをなくしたことになり、自分自身の存在意義が死ぬ。


「だから――ハチバンはギリギリまであらがった。


「スパイの意地を見せて、アンチフェイスにバレぬよう、必死に抗い続けた。


「それが、嘘をついてまで俺を風の子院に呼び続けた理由。


「ハチバンは、もうひとりのスパイ十指……野宮クロウを近くに置くことで、『クロウが近くにいたせいで殺せませんでした』という口実こうじつを作っていたんだ。


「推理小説風に、『アリバイ作り』って言ったほうがいいか?


「だから、あんなに必死に俺を呼んでいたんだ。来てくれないと、白峰カナを殺すことになるし、自分も死ぬことになるから。



 

「……だが、その抵抗も限界が近づいていた。


「白峰家の親戚一同からの催促があったのか、アンチフェイスが痺れを切らしたのか。昨夜、ハチバンの携帯に電話が入った。


「明日までに、白峰カナを殺せ――と。


「手詰まり状態になったハチバンは絶望しつつ……やむなく、深夜の屋外に白峰カナを連れ出すことにした。


「この先の廃工場――アンチフェイスのスパイ共が隠れている仮のアジトで、白峰カナを殺害するために。


「院内で殺さなかったのは、アンチフェイスの目の前でキチンと殺人を実行するという意味合いもあるが、屋内では証拠隠滅がしにくいからだ。あるいは、子供たちにそんな凄惨な場面を見せたくないという、ハチバンの最後のやさしさだったのかもしれない。



 

「――とまあ、こんな感じだ。


「その表情を見る限り、そこまで間違った推測でもないみたいだな。


「ともあれ。昨夜の電話の様子を覗き見していた俺は、今夜中にでも動くだろうと予測して、風の子院前で待機してたってわけさ。


「おかげで手足がかじかんで仕方ないよ。


「これが終わったら、あとで熱い缶コーヒーでも奢っ――、って、うおッ!?」


 

     □


 

 推論を話し終えると同時、銀髪の矮躯が俺目がけて駆けだしてきた。

 小さな身体を活かした瞬速術。一呼吸の間に距離を詰めたハチバンは、手にしたボールペンを真下からブンッ! と振り上げた。

 正確に俺の頸動脈を狙ってきている――アッパーカットのようなその攻撃を、俺はわずかに半歩後退することで避けた。


「び、ビックリした……あぶないあぶない」

 

 相変わらずスピードだけはすごいな。諜報部の中でも一番早いんじゃないだろうか。

 しかもコイツ、暗器らしく俺の首筋に触れる寸前に『だけ』刃を出してきてやがる。

 あくまで、観衆の白峰にはただのボールペンであると示したいわけだ。

 どこまでもスパイらしい。

 まあ、スパイであることを明かしてしまった以上、いまさらな配慮ではあるけれど。


「おい、ハチバ――」


「絶対に失敗できないんダッ!!」

 

 俺の言葉を遮るように叫び、ハチバンは猛攻を再開する。


「なにがなんでも、ボクはこの『用事』を済ませなくちゃいけないんダ! キャサリンに見捨てられてもいイ! 殺されたっていイ! ボクは、ボクの家族を守れればそれでいイッ!!」


「いや、キャサリンもそれは同じ気持ちで――」


「同じなもんカ! なら、なんでボクを排除しようとするのサ! それはつまり、キャサリンもクロウも、ボクの『メッセージ』に気づけなかったってことじゃんカ!!」

 

 ヒュン、とまたも鼻先をかすめる暗器。

 三日月の軌道を描くその刃をスウェイとバックステップで避けつつ、ハチバンの吐露に耳を傾ける。

 その円らな瞳には、見間違いじゃない、たしかに涙が滲んでいた。


「いやだよ、殺したくなイ。カナはいい奴で、ガキんちょ共だってかわいい奴らばっかデ! ボクを本当の家族みたいに迎えてくれタ! ボクにとっての、第二の家族になってくれタ!」


「ハチバン……」


「殺したくない、殺したくない殺したくない殺したくない殺したくない殺したくない殺したくない殺したくない殺したくない殺したくない殺したくない殺したくなイ――でも、ここでカナを殺さなきゃ、ミヤが死んじゃウッ!! ミヤを助ければ、今度はカナが死んじゃウ! どっちも選ぶことはできなイ! でも、どっちかを選ぶだなんて、ボクにハ――」


「――いいよ、ハッちゃん」

 

 と。

 不意に、間延びしたやさしい声が聴こえたかと思うと、俺とハチバンの狭間に、白峰カナが駆け込むようにして割り込んできた。

 瞠目し、ピタッ、と攻撃の手を止めるハチバン。

 そんな銀髪少女に歩み寄り、白峰はにへら、といつものように頬を緩ませる。

 その距離、わずか一メートル。

 ナイフの圏内である。


「私、ハッちゃんになら殺されてもいいよ~」


「ッ……、か、カナ!?」


「ゴメンね~、気づいてあげられなくて。たくさん苦しんだんだね、たくさんがんばったんだね――さっきも言ったけど、私はもういっぱい幸せをもらっちゃったから、あとの幸せは全部ハッちゃんにあげるね~」


「……ナッ、……」


「おじいちゃんが亡くなったあと、私が死んだときのための子供たちの新しい預け先も、実はこっそり決めてあったんだ~。私がいなくなっても、あの子たちならきっとうまく生きていける……だから、ね?」

 

 温和な笑みと共につぶやき、白峰はくいっと顎をあげて首筋をさらすと、静かにまぶたを閉じた。

 いつでも頸動脈を切ってくれ、と言わんばかりだ。


 俺の語った推論を、白峰は疑ってはいないようだった。おそらく、白峰家親戚一同の守銭奴っぷりをじかに体感しているから、自分を殺そうとすることもありえない話ではない、と悟っているのだろう。


 カタカタ、と小刻みな音が夜の森林に響いた。

 ハチバンの歯が、動揺と恐怖に震える音だ。

 大切なひとを自らの手で殺す――そのことに怯える、ひどく人間くさい音色だ。


 瞳をキョロキョロとさまよわせ、唇を震わせながら、ハチバンは必死に声をしぼりだす。

 目元に涙が滲み、いまにもこぼれそうだったが、ソレが頬を伝うことはなかった。

 スパイは涙を知らない。

 ハチバンもまた、ボスから教わったその言葉を守っているのかもしれなかった。


「いや、いやだヨ……こ、殺したくない、殺したくない殺したくない殺したくなイッ!!」


 その、心からの叫びを耳にして、俺はホッと安堵の息をつく。

 ようやく、『ナンバーエイト』の本音を聞けた。

 俺は、目の前のカナを脇に移動させ、ハチバンに向き直る。


「――なら、殺さなければいい」


「……エ?」


 俺の言葉に、ハチバンは呆気に取られたような表情をした。

 その隙を突き、俺はバッ、とハチバンの暗器を奪い取って。


「簡単な話だろ。殺したくなければ、殺さなければいい。俺たちは殺し屋ではない。誇り高きスパイなんだからな……いやまあ、俺はもうスパイではないんだけど」


「お、お前……あれだけ偉そうに推論並べておいて、現状が理解できてないのカッ!? それが許されない状況だから、ボクはこんだけ苦しんでるんだヨ! 気軽に理想論ヲ――」


「――『砂』と『タバコ』」


 過熱するハチバンを遮るように、俺は冷静に言う。

 一ヶ月前。ハチバンが俺に伝えていた『メッセージ』を、紐解いていく。


「葉咲家で再会したとき、ハチバンの手首の表面に乾いた砂が付着していた。海外からの長いフライトを終えたあとにもかかわらず、まるで直前まで砂場で転げ回っていたかのような砂が、な――そして、お前のジャージに、わずかにタバコの匂いが染みついていた。最初は、タバコの煙が多い場所にでもいたのかと思ったが、世界中で分煙が為されている昨今、わずかでも服に染みつくほどのタバコの煙を浴びることはまずない。仮に浴びたとしても、タバコを吸わないハチバンが、その服を着替えない理由はない。日本に来るまでに、着替える時間はいくらでもあったはずだからな」


「ッ……く、クロウ、そのことに気づいテ……!」


「俺もタバコは吸わないからわからなかったが、癖のある甘い香りとミントに似た独特な匂いだけは嗅ぎ分けることができた。それをキャサリンに伝えると、海外のある砂漠地帯に売っている、言わば地方限定のタバコであることがわかった――そう、お前の手首に不自然に付着していたような乾いた砂が、目一杯ある地域だ」


 ついに、ハチバンの両眼からボタボタと涙がこぼれ始めた。

 泣きながらも、驚きと喜びが入り混じった、筆舌に尽くしがたい表情だった。

 口元を両手で押さえ、嗚咽を堪えるハチバンに向けて、俺は続ける。


「これがなにを意味するか? 答えはひとつしかない――砂とタバコ、その不自然なふたつを『メッセージ』にして、ハチバンは俺に。敵のアジトは、ミヤが捕まっている場所は、このタバコが売っている砂の多い地域だぞ、ってな。だから、局長室から俺の個人情報を盗みもしたんだ。俺に直接会って『SOSメッセージ』を伝えるために。そうだろ?」


 俺の問いかけに、ハチバンはコクコク、と落涙しながら首肯する。


〝――日本のS県にある葉咲はざき邸に行き――〟


 二ヶ月前。スパイを辞めさせられたとき、キャサリンは俺にそう告げた。

 あのときの会話を、ハチバンはトレーニングルームのどこかで耳にし、覚えていたのだ。

 だから。アンチフェイスに脅迫され任務を言い渡されたあと、依頼先となる風の子院が日本のS県にあると聞き、ハチバンは局長室に忍び込んだのだ。

 同じS県であれば、俺が助けてくれるかもしれない、と信じて。


〝――さすがは『ナイン』だナ――〟


 思えば、再会時のあの台詞も、ハチバンに疑いを持たせるための布石だったのだろう。ハチバンは腐ってもスパイ。一般人の家屋内でコードネームを口にするだなんてヘマは絶対にしないのだから。


 いままでしてきた、取り繕うような嘘。

 それらもすべて、疑惑の目をハチバン自分に向けさせるためのものだった。


 そうすることで、俺はハチバンに疑いを持つことになる。そして、キャサリンは俺に個人的に何度も連絡をしてきているから、俺が抱いた嫌疑はそのままキャサリンに伝わることになる……そんな情報の流れも、ハチバンは把握していたのだ。


 なんて遠回しな。直接メッセージを伝えればいいじゃないか、と思わなくもないが、それは渡された携帯に盗聴器が仕込まれている可能性を考慮してのことだろう。俺に不可解なメッセージを伝えているとバレた瞬間、ミヤは躊躇なく殺されることになるのだから。


「スパイ十指であるハチバンが、アンチフェイスの要求に素直に従うわけがない。それでも従順に従ったのは、実際にアンチフェイスの本部でミヤと対面したからだ。おそらくは拷問され、痛めつけられているミヤを目にしたからこそ、ハチバンは今日までジッと従い続けてきたんだ……本当、今日までよくひとりでがんばったな」


「う、うるせエ……ガキあつかいすんナ……」


 涙声で言いながら、ぐしゃぐしゃになった目元を拭うハチバン。白峰がそっと隣り合い、やさしく背中をさすりはじめる。

 もしかしたら、服に染みついていたタバコの匂いも、アンチフェイスの本部に出向いたときに付着したものだったのかもしれないな。

 その特徴的な匂いを嗅ぎ、本部を特定できると踏んだハチバンは、匂いの染みついた服そのままに日本へ渡り、俺の家に来る前に公園の砂場かどこかで乾いた砂を手首につけたのだ。


「で、でモ……」


 と、ハチバンが静かに口を開く。


「ボクのメッセージが伝わったところで、ミヤを助けることハ……現状、カナを殺さずにミヤを助けるには、この先の廃工場にいる残党と、ミヤのいる本部を同時に叩かない、ト……――、ま、まさカッ!?」


「そのまさかだ。だから俺は、殺さなければいい、って言ってるのさ。そもそも、殺す相手にこんな長ったらしい推論を聴かせるわけないだろ」


 暗器のボールペンをくるくる回しながら、ここで、俺はスマホを取り出して電話をかけた。

 着信相手は、キャサリン・ノーナンバー。

 通話が繋がると、乾いた風が吹きすさぶような環境音をBGMに、キャサリンが挨拶もなしに問いかけてきた。

 スピーカーフォンにして、ハチバンたちにもキャサリンの声を聞かせる。


『状況は?』


「順調だ。あとは任務を実行して、残党を叩くのみ。そっちは?」


『アンチフェイスの本部前で待機中。さびれた村の郊外にある砂漠地帯に、地下に繋がる階段があって、その前に見張り役のスパイがふたり突っ立ってる。いまワタシは、近くの岩陰に隠れてるところよ』


「砂漠の地下に本部か。そりゃあ砂まみれになるわけだ」


『こっちはいつでも奇襲をかけられるけど……そっちの任務実行は? 遅れそうなの?』


「いや、いますぐ実行する」


 そう言って俺は一度スマホを離すと、右手に持っていた暗器から刃を押し出し、


「……エ?」


 突如、眼前のハチバン目がけて振り上げた。

 突然の急襲に、目をつむるハチバン。白峰が、かばうようにしてハチバンを抱きしめる。


 しかし――ザシュッ、と。

 ボールペンから飛び出た刃は、ハチバンの一部を傷つけ、切り落とした。

 ボタッ、と足元のタイルに、ハチバンの分身が落下する。


「――任務完了だ」


 俺が切り落としたのは――銀色に輝く、ハチバンの『髪の毛』だった。

 長く艶やかな銀色のツインテール、そのふたつの尾を、暗器でバッサリと切り落としたのだ。


 軽やかなショートカットになったハチバン、それに白峰が、唖然とした表情で俺を見やる。この行動の意味がわかっていないと言わんばかりだ。

 報告を受けたキャサリンが『ご苦労様』と、平然とした声音で答える。


『それで、ハチバンをどう殺したの?』


「髪を切り落とした」


『髪を?』


「ああ。だって」


 区切って、ハチバンを見やると、俺はおどけたようにウィンクをしてみせた。


「髪は女の『命』、なんだろ?」


 俺の応えを聞き、キャサリンは声を押し殺しながらくつくつと笑い始めた。


 ――これが、キャサリンの伝えたかった本当の『真意』。

 キャサリンは最初から、ハチバンを……家族を、排除する気などなかった。


 俺に排除を依頼してきたのも、すべてはハチバンを見逃すためだったのだ。

 ふたりだけの極秘任務にしたのも、こうしたハチバンの死の『捏造ねつぞう』をフルピースの人間に知られないようにするため。


『ええ、そうね。鈍感クロウも女のことがわかってきたじゃない』


「お褒めに預かり光栄だ。これで、いつでも残党狩りを始められるが?」


『では、いまから五分後に奇襲を開始するわ。すべてが終わり次第、もう一度連絡を』


「了解した――ああ、その前に報酬の件なんだが」


『……こんなときにまで報酬の話って、アンタ意外とがめついのね。いいわ、ワタシから言ったことだもの。なんでも要求してちょうだい。た、ただし、エッチなのはダメだからね! わ、ワタシとアンタは別にそういう仲じゃないんだし……』


「なにを勘違いしてるかは知らんが……まあいい」


 ゴホン、と咳払いを挟み、俺は続けた。


「先ほど、ハチバンに事情を説明する際、一般人に俺たちがスパイであることがバレてしまったんだ」


『? 一般人って、おそらく白峰カナのことよね……それが?』


「彼女がフルピースの情報を漏洩する可能性がある――よって、『元』スパイの片桐ハチバンを、白峰カナのお目付け役として任命したい」


 ハチバンと白峰の息を呑む音がした。

 スマホからも、キャサリンの驚きが伝わってくる。


『なるほど……まさかそう着地させてくるとはね』


「片桐ハチバンという偽名も、フルピースではそこまで広まっていないはず。なら、この名前の少女がこれまで通り生活をし続けても、なにも問題はないはずだ――キャサリンには、片桐ハチバンという人間のちゃんとした基本情報パーソナルデータを用意してやってほしい。頼めるか?」


『そう、ね……ハチバンは、いいえ、エイトはそれだけがんばってくれたんだものね。いいわ。その報酬、しかと支払わせてもらいましょう』


「ああ、助かるよ!」


『ただし。一般人として生まれ変わる以上、ワタシたちスパイとは今後一切関わることができなくなるからね? もちろん、ミヤとも』


「――大丈夫だヨ」


 と。ここで、ハチバンが物悲しい笑みをたたえながら、キャサリンに返答した。


「ミヤが……家族が生きていてくれるなら、それだけでいイ。ありがとう、キャサリン」


『……元気でね。エイト』


「うん、キャサリンもネ。いままで迷惑ばっかかけてゴメン……ニシシ、楽しかったヨ」


『……そ、それじゃあ、三分四十秒後に奇襲開始だから。遅れるんじゃないわよ、クロウ』


 坦々と言い放って、一方的に電話を切るキャサリン。

 ……アイツ、泣きそうになってさっさと切りやがったな?

 本当、スパイらしからぬ甘さである。


「とまあ、そういうわけだ。急に髪切って悪かったな。示しをつけるためにも、ああするしかなかったんだ」


「う、ううん全然……ボクのほうこそ、ずっと騙しててゴメン……」


「気にするな。家族なんだから――ハチバンはこのまま、白峰を連れて風の子院に戻れ。あとは、俺とキャサリンが片づける」


「あ、あの、クロウ!」


 スマホを仕舞い、廃工場に向けて歩き出した俺に、ハチバンは想いを託す。

 夜空に空いた満月が、少女の銀色の願いを照らす。


「……ボクの代わりに、ミヤを助けてあげテ」


「ああ、了解した」

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