34話 ハチバンの前に立ちはだかった。

 日付は変わって、十二月二十五日。深夜二時四十分。

 時が止まったかのような静寂の中。銀髪の少女――片桐ハチバンは、寝床である客室を出て、真っ暗闇の院内を忍び足で進んでいた。

 泥棒のような三流の忍び足ではない。忍者もかくやといった、気配と存在を殺した本物のスパイの足取りだ。

 

 夜目に慣れた視界で、辺りを厳重に警戒する。念のためにポケットの黒ボールペンを握りしめながら、神経を研ぎ澄ます。ピチャン、と水滴の落ちる音。遠くの台所からだ。神経を尖らせているせいで、こんな余計な音まで聴こえるようになってしまっていた。

 

 廊下を抜け、子供たちの寝ているフロア前を通る。

 小さな寝息が十四個、室内から聴こえてきた。クリスマスパーティーを目一杯楽しんだ疲れからか、全員よく眠っているようだ。

 いつもなら足を止め、思わず頬をほころばせているところだが、いまのハチバンには大事な、逃れられない『用事』がある。

 歯噛みしつつ、ハチバンは歩みを再開させ。


「――カナ?」

 

 この風の子院の主、白峰カナの寝室の扉を叩いた。

 返事はない。ハチバンはもう一度ノックし、返事がないことを確認すると、ドアノブを慎重に回し、入室した。

 廊下から差し込む月光が、幸せそうなカナの寝顔を照らす。

 ハチバンは罪悪感に駆られながらも再度、細い喉を鳴らした。


「カナ、起きてくレ。カナ」


「ん……んぅ、んあ……ハッちゃん? なぁに……おトイレ?」


「だから、ガキあつかいすんなっテ――ちょっと、外に出かけないカ?」


「外に? いまから……? なに、どうして?」

 

 訝しみながら上体を起こすカナに、ハチバンはつとめて明るく言った。

 ぎこちない笑顔で。


「ふたりっきりで、お月見つきみしよウ」


 

     ◇


 

 凍てつくような寒さだった。

 吐き出す息は白い尾を引き、吸い込む空気は肺を凍らせる。

 風の子院を出るまでは寝ぼけ眼だったカナも、いまではパッチリと目を見開き、先導するハチバンの背中を追ってきていた。

 冷気に首を縮め、もこもこのマフラーに口元を埋めながら、カナは口を開く。


「こんな真夜中に、しかもお月見だなんて、ハッちゃんも粋なこと考えるね~。まあ、できればもうすこし早めに言ってほしかったけど~」


「ゴメン。ボクも日付が変わる前には声をかけようと思ってたんだけど、ガキんちょ共が眠るのを待ってたら、こんな時間になっちゃってサ」


「そっかそっか。まあでも、今夜は満月だし、クリスマスの夜のお月見にもうってつけだよね~――というか」


 吹きつける寒風に目を細めつつ、カナは続けた。


「やっぱ夜はさむさむだ~。空気が冷たくなると、年の瀬が近づいてきたって気がするよね~。あ、ハッちゃんは海外のひとだから、その感覚はあまりわからないか」


「いや、なんとなくはわかるヨ。クリスマスを超えた途端、時間の流れが速くなるよナ」


「そうそう! まさに師走って感じでね~。ほんと、あっという間だよ~」


「……そうだナ」


 辺りの風景が住宅街から、どんどん人里離れたソレに変わっていく。

 ハチバンは、ポケットの中でボールペンをギュッ、と握りなおした。


 自身の十三歳という実年齢や矮躯を鑑みて、ハチバンはもっとも意表を突きやすい暗器を主な武器として選択したが、こういった『汚れ仕事』をしたことは一度もなかった。そもそも、刃渡り五センチのナイフでは、不意を突く程度の攻撃しかできない。


 だが。

 こんな小さなナイフでも、何度も刺せば話は変わる。

 命を、奪うことができる。


(……ゴメン、ミヤ)


 知らずボールペンを握る力が強まる。

 気づけば、辺りの風景は住宅街の北にある、人気ひとけのない森林地帯へと移り変わっていた。

 このまま北上すれば、叶画かなえ森林公園を抜けた先に、最終目的地の『廃工場』がある。

 白峰カナとの、別れが待っている。


「ほんと、あっという間だったよ~」


 ひとり緊張しはじめたハチバンをよそに、カナは満天の星空を見上げながら言う。


「お父さんが亡くなって風の子院を継いで、大好きだったおじいちゃんも亡くなっちゃって、それから、ハッちゃんと出会って……ハハ、いっぱい悲しくて、いっぱい大変だったけど、それ以上に、ハッちゃんからいっぱい幸せをもらっちゃった」


「――――」


「ありがとね~、ハッちゃん。ハッちゃんのおかげで私、すごい幸せだよ~」


「ッ……、あア……」


 森林地帯の中腹。レンガタイルで舗装された道の途中で、我慢できないとばかりにハチバンは歩みを止めた。


 これ以上はダメだ。

 白峰カナの言葉は、あまりにも幸せに満ちすぎている。

 このままでは、判断が鈍る――


「ところで、ハッちゃん。お月見って、どこでするつもりなの~?」


「……、ああ、もう、いまここで始めちゃおうカ」


「ここで? まあ、お月さまは見えるけど……こんな道の真ん中で?」


「大丈夫。すぐに終わるか、ラ――、ッ!?」


 黒のボールペンを取り出し、後ろのカナを振り返った瞬間。


 ハチバンは、反射的に後方へ飛びずさった。

 白峰カナの背後に、いるはずのない人物が立っていたからだ。



「――お月見の時間にしては、すこし遅すぎやしないか?」



 夜の森林に響く、心地よい低音。

 思わず肩を跳ね上げ、背後を振り向くカナ。そんなカナの肩に手を添えると、その人物はぐいっ、とハチバンの前に躍り出てきた。

 その立ち位置は、カナを守っているようでもあり、ハチバンに立ちはだかっているようでもあった。


「こんな夜更かししてたら、乙女の命である髪の毛が傷んでしまうぞ?」


「……、余計なお世話だヨ」

 

 憎々しく返し、ハチバンはボールペンを眼前に構える。

 カナとの会話中も、神経は研ぎ澄ましていた。いや、カナとの会話中こそ、周囲の警戒に全神経をそそいでいた。

 なのに、気づけなかった。微塵も気配を感じなかった。

 しかも、お月見に出てきていることを知っている、ということは、かなり前からハチバンたちの後をつけていた、ということにほかならない。

 

 数分前から? ……いや。

 彼の実力を鑑みるに、からか。


「ああ、挨拶をしていなかったな」

 

 現役のスパイを出し抜く隠密術。

 こんな芸当ができるのは、スパイ十指の中では片桐ハチバンと、もうひとり。


「こんばんは、ハチバン。満月が綺麗だな」


「ニシシ、最高の告白をどうモ」

 

 元スパイの家政夫、野宮クロウを置いてほかにはいない。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る