31話 ハチバンに脅された。

「ううぅ……」


「大丈夫だ秋樹。あれは緊急事態だったんだ。俺だって、同じ状況に陥ったらきっと同じように漏らしている。だから、そんなに気に病むことはないさ。倉庫内も水で洗い流す程度で済んだんだし。な?」


「うぅ……あ、あんな恥ずかしいところ見られたら、もうお嫁に行けません……」


「そ、そんなことないさ! 漏らそうがなにしようが、秋樹だったら引く手あまたになること間違いなしだ! それでもお嫁に行けないようだったら、俺がもらってやるッ!」


「……ほんと?」


「ああ、もちろんだ! だ、だから、もうそろそろ泣き止んでくれないか? 秋樹が泣いてるのを見るのは、俺も辛い」


「……じゃあ、泣き止みます」

 

 つぶやいて濡れた目元を拭うと、秋樹は「ふふ」と、ようやく笑みを見せてくれた。

 よかった。なんとか落ち着いてくれたようだ。

 ……なだめることに必死で、なにかとんでもない約束をしてしまったような気がするけれど。

 

 さておき。

 秋樹とふたり。風の子院の窓際に座ったまま空を仰ぐと、カラスが飛んでいた茜色は消え、夜間近の紫色が広がっていた。

 時刻は午後五時半。そろそろ帰る頃合いだな。

 どちらからともなく腰を上げ、秋樹を門前に先に向かわせると、俺は院内に向かって「それじゃあ、俺たちはこの辺で」と声をかけた。

 

 すると。奥で作業をしていた白峰が、小走りでこちらに駆け寄ってきてくれた。

 ハチバンも遅れてやってきたが、会話には参加せず、無言で俺たちの様子を窺っている。

 まるで、タイミングを図っているかのようだ。


「ああ、すみません~! お手伝いしていただいたのに、ちゃんとお見送りもできなくて~。野宮さんに、秋樹ちゃん。こんな遅くまで、本当にありがとうございました~!」


「いえいえ、子供たちと触れ合えて楽しかったです。こちらこそ、ありがとうございました。クリスマスパーティー、目一杯楽しんでくださいね」


「ありがとうございます~。あ、もしよろしければ、クリスマスパーティー、野宮さんたちもご一緒にどうですか~? 豪勢な食事を出せるわけではありませんけど、子供たちみんなとのゲームなんかも企画しているんですよ~」


「あー……お気持ちはうれしいんですが、三姉妹の予定がまだちょっとわからないので」


「――来てヨ」

 

 不意に。

 ずっと無言だったハチバンが前に出てきて、ボスッ、と俺の腹部に抱きついてきた。

 家族との別れを惜しむ子供のように顔をすりつけ、背中に回した両手をギュッ、と絞めつけてくる。

「あら大胆!」と弾んだ声をあげる白峰。恋愛話を楽しむ乙女のような反応だ。


 そんな白峰を前に、俺は表情を固く強張こわばらせる。

 背中に、なにか細い先端が突きつけられていた。

 それはまるで、ボールペンのような感触だった。

 おそらく、色は黒。


 秋樹がいる門前からは丸見えだが、この距離と暗さでは、ハチバンが暗器を握っていることにすら気づけていないだろう。


「ねえ、クロウ。クリスマスパーティーに来てヨ――ううん、なんだったら明日も、その次の日も、毎日風の子院に遊びに来てヨ。クロウも、もっと子供たちと触れ合いたいでしョ?」


「……この行動の理由も、また『いつか』か?」


「なに言ってるかわからないけど、とにかく来てヨ。お願い、だかラ」


 ググッ、とボールペンが背中に押し込まれる。

 脅しを強めたのではない。おそらく、ハチバンは無意識に、無自覚に押し込んでしまったのだろう。

 なぜなら、このときハチバンが俺にだけ見せたその表情は、ワガママでも脅迫でもない、深い恐怖にまみれたものだったからだ。

 見れば、ハチバンの身体がプルプルと微震している。寒いわけではない。


 ここでクロウを呼べなければ、死んでしまう。


 それはそう言いたげな、切実な表情だった。

 俺と秋樹を呼びに来たときも、ハチバンはインターホン越しにこんな表情をしていたのかもしれない。


「た、頼むヨ……クロウ。お願イ」


「……わかったよ」


 当初は、初日だけ付き添ってくれればいい、とか言っていたのに。ついには毎日来てくれ、にすげ変わってしまった。

 隠し事だらけの同僚に、俺は呆れのため息をひとつ。

 ハチバンの銀髪に手を乗せつつ、俺は白峰に向き直った。


 嘘だらけでも、コイツは家族なのだ。

 家族の頼みを、無下にはできない。


「すみません、白峰さん。やっぱり俺もクリスマスパーティーのほう、参加させてもらってもよろしいでしょうか? 三姉妹は、まだ予定がわからないのでアレですが、俺だけは必ず参加させていただきますので」


「おお~! もちろんOKでございますよ~! やったね、ハッちゃん! ハッちゃんのロリロリボディに、野宮さんも陥落だ~!」


「ろ、ロリじゃねえシ……」


 照れくさそうに言いながら、俺への抱きつきを解除するハチバン。

 その表情は、先ほどまでの緊迫したものから一転、ひどく安心したようなソレだった。


 

     □


 

 それから、クリスマスパーティーまでの数日間。

 家政夫の仕事を終えた昼すぎに、風の子院に通うのが日課となった。

 顔を出すたびに子供たちがはしゃぎ、俺の足や背中や腹、至るところに飛びついてきた。

 その様子を見て、白峰は「いらっしゃ~い」といつもの朗らかな笑顔をたたえ、ハチバンは。


「……来てくれてありがとウ」


 と、まるで命が救われたと言わんばかりに、安堵の感謝を告げてきた。

 俺を連日、風の子院に呼ぶ理由。

 それもまた、いまは問いただすことができない。正確には、問いただす意味がない。


(この理由も、いずれ明かしてくれるんだろうか……?)


 そんなことを考えながらベンチに座り、広場で子供たちと遊ぶハチバンを眺めていると、隣に白峰が腰を下ろしてきた。


「よっこいしょ~いち~、と」


「……白峰さん、意外とおじさん臭いですよね。まだ二十二歳なのに」


「あれ? 私、野宮さんに年齢って話しましたっけ~?」


「あ」


 しまった。白峰カナのプロフィールはハチバンから聞いていたが、白峰本人にはまだ訊ねたことはなかったのだった。

 焦る俺を横目に、「ああ、でもそっか」と白峰は手を叩く。


「野宮さんはハッちゃんの付き添いさんだから、雇い主になる私のプロフィールは知っていても不思議じゃないのか~」


「そ、そうそう。ハチバンを連れてくるときに、事前に暗記しておいたんですよ。ハチバンの大事な雇用主さんのことですし。あははは……」


「……あの~、これずっと気になってたんですけど~」


「な、なんです?」


「野宮さんって、ハッちゃんの親族さんなんですか~?」


「ああ……」


 そういえば、その辺りの関係を説明してなかったか。


「ハチバンは、前に探偵事務所を経営していたときの助手なんですよ。それから、俺が家政夫に転職したりしてなんやかんやあったんですが、つい最近再会しまして」


「ほえー、探偵さんの助手を……ハッちゃん、意外と頭よかったんですね~。私とは大違いだ~」


「探偵の助手だから頭がいいとは限りませんけど……まあ、切れるほうではありますね」


 ナイフ仕込みのボールペンも持ってるしな。


「ですので、血の繋がった親族ではないんですが、ハチバンは俺にとって家族というか、妹みたいな存在ですね。年齢はお互い二十歳で、同い年ではあるんですけど」


「そっかそっか、野宮さんの妹的存在だから、こんなに毎日来てくださるんですね~。心配で仕方ない、みたいな?」


「……まあ、そんな感じです」


「このシスコンめ~。でも、家族関係も良さげみたいで安心しました~。最近は、野宮さんが来てくれるとすごいうれしそうな顔をするようになりましたから~。これで、ハッちゃんの夜泣きも減るといいんですけど……」


「夜泣き?」


 俺が問い返すと、白峰は「あ」としまったとばかりに口を押さえたのち、バツが悪そうな顔で。


「ハッちゃんには黙っててほしいんですけど……ハッちゃん、寝ながらよく泣いているんです。見てるこっちまで悲しくなっちゃうぐらい、枕をびしょ濡れにして。時折、『ミヤ』ってうわ言のようにつぶやいてたこともありました~」


「…………」


「一度、そのことを話してみたんですけど、ハッちゃんは笑ってごまかすばっかりで……私は、まだ野宮さんほど信用はされていないみたいですね~。ハハハ……」


「ちがっ、それはちがいます」


 思わず、俺は白峰の言葉を遮った。


「信用してないわけじゃない。本当に信用していなかったら、すぐにでも風の子院を離れているはずです――アイツはただ、迷ってるだけなんです。どうしたらいいのか、自分自身わからなくなっているだけなんですよ」


「わからなく……?」


「そうです。ですから、待っていてあげてください。いずれ、ハチバンが本音を話してくれるそのときまで。絶対に、アイツは話してくれますから」


「……そう、ですか。ああ、よかった~」


 ホッと胸をなで下ろし、白峰は述懐するように続ける。


「昔から、なにかと支援してくれてたおじいちゃんが亡くなって、いよいよ経営が大変だ~ってなったときに、天使みたいなハッちゃんが現れてくれて……私、すごい元気もらっちゃったんですよ~。院内ではハッちゃん、子供たちを元気づけるお姉さん的な役回りをしてくれているんですけど、その姿を見るたびに、ああ、私もこのままじゃ終われない、もっともっと子供たちのために、そしてハッちゃんのためにもがんばらなくちゃ~、って。そう思えたんです」


「そうだったんですね……」


「だから、ハッちゃんには幸せであってほしかったんです。不幸から遠い存在であってほしかったんです。なので、さっきは野宮さんの素性を探るような質問を……ゴメンなさい」


「そんな、謝らないでください。逆の立場だったら、俺も同じように質問してますから」


「……じゃあ、おあいこ?」


「はい。おあいこです」


 そう返すと、白峰は声もなく胸に手を当て、深呼吸するように長い吐息をついた。

 その表情は薄い微笑だが、目尻にはほんのすこし、涙が浮かんでみえた。


 そんな彼女の微笑みを見て――俺は決意する。


 俺ひとりなら、待っているだけでもいいと思っていた。

 けれど、こうして少女の本音を待っている人間がいる。

 このままでは――疑念を残したままでは、本当の意味で幸せにはなれない。

 白峰の生活を、ハチバンの笑顔を守るためにも、俺は俺のできることを始めなければいけない。


「? 野宮さん、どうしました~? なんか、真剣な顔になっちゃって……」


「白峰さん。俺、今日はこの辺で失礼しますね。また明日、同じぐらいの時間に来ますので」


「え? あ、はい。ありがとうございました……?」


 怪訝そうな白峰を横目にベンチから立ち上がり、門に向かう。

 途中。広場で子供と遊んでいたハチバンが心配そうにこちらを見やってきたが、「また明日来る」と告げると、安心したような顔でうなずき返した。


 風の子院を離れ、坂を下る。

 ようやく、『あの部屋』を調べるときが来た。

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