30話 秋樹が漏らした。
カーカー、と。
閉じ込められた俺たちをあざ笑うかのように、茜色のカラスが鳴いていた。
「ふむ、なるほど」
引き戸に手をかけ、あらためて開かないことを確認すると、俺は薄暗い倉庫内を見渡した。
先ほどのガチャリ、という施錠音からするに、引き戸にかけられている鍵はオーソドックスな南京錠。倉庫内にあるスパナを使えば力ずくで壊せないこともないが、内側から開けることはおそらく不可能だ。
キャサリンならスパナなど使わずに、片手でこじ開けられるだろうが、俺はそこまで超人的な怪力の持ち主ではない。
映画や小説に登場するスパイなんかは、両手を縛られ、それこそ南京錠をかけられても一瞬で脱出してしまうけれど、あんなのはただの
現実は、スパイだろうとなんだろうと、こうして捕えられたらそこで終わりなのである。
(……なんて、ただの言い訳でしかないけど)
自身の情けなさに呆れつつ、引き戸の反対側、足元付近に設けられた横長の小窓を見やる。
換気用の窓だろう。サイズも小さく、窓外には鉄格子がついているため、人間が通り抜けることは不可能だが、声を届けることは可能だ。
陽も本格的に暮れ始めてきた。俺はさっそく倉庫内のコンクリート床に膝をつくと、その小窓に顔を近づけてカラカラ、と開き、SOSの大声を出すために息を吸い込んだ。
ところで。
「いや、待てよ?」
ある問題点に気づき、思わず体勢を戻した。
この倉庫は、風の子院の隣、雑木林を挟んだ先の駐車場にある。ひとなど滅多に通らないような場所だ。
そしてさらに、そもそも風の子院があるここら一帯は、民家から離れた場所にあるのだった。
大声をあげたところで、誰かが気づく可能性は低い。
夕暮れ時は、まだ周囲の環境音が雑多に入り混じっていて、ひとつの音を特定しづらい状況にある。そうした雑音が止む静かな夜にでもなれば、俺の大声も誰かに届くのだろうけれど。
「……まあ、おとなしく助けが来るのを待つか。風の子院に招待したハチバンが俺の不在に気づかないはずがないからな。一時間もすれば、ここを突き止めてくれるだろう」
「い、一時間、ですか……?」
と。これまで静かだった秋樹が、愕然とした表情で口を開いた。
秋樹は倉庫の隅に立ち、なぜかその場でトントン、と軽く足踏みをしていた。よく見ると、額にすこし汗も浮かんでみえる。
「い、一時間も、わたしたちはこの倉庫にいなきゃいけないんですか?」
「そういうことになる。もしかして、秋樹は暗所恐怖症だったりするのか? あるいは、閉所恐怖症とか。さっきからなにやら落ち着かない様子だが……」
「い、いえ、そういうのではなくて、ですね……あ、あの」
もじもじ、と太ももをすり合わせながら、秋樹は顔を真っ赤に染めて、涙目で続ける。
「こ、このことは、絶対に誰にも言わないって、約束してくれます……?」
「? ああ、約束しよう。なんだ?」
「…………おしっこ漏れそう」
「誰か助けてくださあああああいいいぃッッ!!」
恥も外聞も関係ない。俺はすぐさま小窓に顔を近づけ、喉が張り裂けんばかりに叫んだ。
先ほどからの落ち着かない挙動は、尿意をもよおしていたのか!
そういえば秋樹、風の子院で飾りつけを作っているとき、支給されたペットボトルのお茶を飲んでいたな。その利尿作用が、時間差で襲いかかってきたわけだ!
「誰か、お願いだから秋樹の
と。小窓から覗く路地上で、一匹の猫がこちらを見つめていた。
珍獣を見るような瞳だった。
「な、なあ。猫さんよ。ちょっとそこの風の子院ってところに行って、誰か人間を呼んできてく――」
「――にゃーん」
俺の救援要請も馬耳東風。
知らないよ、とばかりに鳴いて、坂の上のほうに駆けていってしまう猫さん。
方角的には風の子院があるが、あの様子だと理解してはいないだろう。
うん、まあ、本気で猫が助けてくれるとは思っていないけれど。ワラにもすがる思い、ってやつだ。
「お、おしまいだ……」
猫さんの背中を見届けたのち、俺は絶望の表情で体勢を戻す。
その直後だ。
「く、クロウさん……ゴメンなさいッ!」
秋樹が俺のいる小窓のほうに近づいてきたかと思うと、突如、その場に腰を下ろしはじめた。
ガニ股のような、すこし下品な座り方のまま、急いでスカートを両手でまくりあげはじめる。
なにをしようとしているかは、一目瞭然だった。
「あ、秋樹ッ!? 待て、待つんだ! ここは倉庫の中だぞ!?」
「だ、だってもう限界なんだもん! ここからなら窓の外に出せるし、床もコンクリートだから、倉庫も軽傷で済むでしょッ!?」
「そ、それはそうかもしれんが……」
「あとでちゃんと洗うから……あああぁぁ……もう無理もう無理もう無理もう無理……ッ!」
よほど膀胱が破裂寸前なのだろう。目をグルグルと回し、半ばパニックになりながら下着に手をかけ出す秋樹。口調もどこか砕けてしまっている。
いやまあ、たしかに尿を我慢しすぎると身体に悪いから、出したいときに出すべきではあるのだけれども!
俺はスカートからバッ、と目をそらしつつ、秋樹の両肩に手を添えて。
「も、もうすこしで助けが来るはずだから、それまでなんとか堪えてくれッ! ああ、そうだ! 気を
「き、記号……?」
「ああ、そうだ! ではいくぞ? ジャジャン! アルファベットの『E』に似た形の記号は『
「で……デル……」
「おお! デルッ!?」
「――出る」
「ああああああああああああッッ!!」
秋樹の肩に添えた両手に、ブルル、となにかを解放したかのような震えが伝わる。
次いで、
人工の
俺は男なので、正確には
「――うわ、ほんとにここにいたヨ」
そうして。
秋樹の放水が終息した頃。ガチャリ、と南京錠が外される音と共に、ハチバンが倉庫に現れた。
その胸には、先ほど見かけた猫さんが抱かれている。
「クロウがいないなー、と思って探してたら、このにゃんこがボクのジャージに噛みついて、倉庫のほうにぐいぐい引っ張るからサ。もしかしてと思って来てみたラ……大丈夫? 秋樹も、暗いところに閉じ込めてゴメンネ? 子供たちが勝手に閉めちゃったみたい、デ……エ?」
ふと。ハチバンがなにかに気づき、こちらへの歩み寄りを止めた。
音はなくなっても、匂いはなくならない。
「……ハチバン、なにも言うな。なにも言わないでやってくれ……」
「……あの、ほんとにゴメンなさイ……子供たちにキツく言っておくネ……」
「う、うわあああぁぁぁんん……」
俺以外の人間に知られてしまった羞恥心からか。下着をあげ、その場にうずくまったのち、静かに慟哭する秋樹。
嘲笑か憐みか。遠くの空で、カーカー、とまたもカラスが鳴いた。
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