第二章 ハチバンの月、二重の嘘
22話 昔の同僚のロリスパイが訪ねてきた。
十二月中旬。とある日曜日。
午前十一時半。暖かい陽射しに反して、気温は冬本番といった様相を呈していたこの日。俺は庭に干している冬用の布団を眺めながら、日向ぼっこする老人よろしく縁側に座っていた。
ただし。縁側に座っているのは、俺ひとりではない。
「翔子に返信、返信っと……」
「さーて、早いところ課題を終わらせねえと……」
「やっぱ『
どうしてか桜、夏海、秋樹の三姉妹までもが、俺の膝上と両脇に陣取って座っていたのだった。
布団を干したあと、休憩がてら縁側に腰を下ろした途端。リビングにいた三人がサササッ、と見計らったかのようにして近寄ってきたのである。
スマホや大学の課題、小説を持参しているあたり、計画的な犯行であることが窺える。
……いや、まあ。
計画的であれなんであれ、座るだけならまだいい。
問題は、その『距離』だ。
膝上に座る桜は、俺の胸を背もたれ代わりにして寄りかかったままスマホをイジり。
右隣に座る夏海は、俺の右腕にぴったりと密着したまま大学ノートをにらみ。
左隣に座る秋樹は、俺の左腕を抱き枕よろしく抱き寄せ、その豊満な胸を当てながら小説を読んでいるのだ。
「ふむ……」
以前の俺であれば、こうした接触も『ああ、三姉妹もようやく俺に懐いてくれたのか』などと解釈していたところだが……いまの俺は、桜から『俺の奪い合い』という困った争いが起きている事実を耳にしてしまっている。
すると、どうなるか?
両手に花のこの現状が、両手に食虫植物といった緊迫した状況に挿げ変わるのである。
休憩したかったのは本当なので、かれこれ十分ほどこの状況を受け入れ続けてしまったが、そろそろ本気で逃走……もとい、家政夫の仕事に戻らねば!
「三人とも。俺はそろそろ仕事に戻――」
「ち、ちょっと! いま返信してるところなんだから動かないで!」
「ま、まだ課題が終わってねえんだから! もうすこしジっとしてろ!」
「そ、そうですよ! 物語も佳境なんですから、おとなしくしててください!」
「……ゴメンなさい」
怒られてしまった。
俺に密着した状態で用事を済ませる必要はないと思うのだけれど。
というか。まるで忙しいかのように振舞ってはいるが、チラチラと俺のほうを見てきているのを鑑みるに、ただ傍にいたいだけなのではなかろうか。用事、というのは建前なわけだ。
(しかし、これはマズい傾向だな……)
三姉妹に囲まれ、太陽の光を浴びる布団を見つめながら、ふと冷静に考え込んでしまう。
いまは三姉妹がそろっているせいで三すくみ状態となり、各々密着する以上のアプローチを仕掛けられないようだが、これがふたりっきりの状況になったらどうなるかわからない。それこそ食虫植物よろしく、俺というハエを捕食しにかかるかもしれない。
……まあ、捕食というのは単なる比喩だけれど、キス以上の『一線』を超えようとしてくる可能性は否定できない。そうなれば、俺がこの家にいられなくなるのは確実だ。
貞操のため、なにより家政夫としての仕事を
「みんな。すこし俺の話を聞いてもらいたい」
すこし真剣な俺の声に、三姉妹が「?」と疑問符を浮かべ、こちらに視線を向けた。
一度咳払いを挟み、俺は続ける。
「みんなと仲良くなれたのはうれしい。できることなら、これからもっと仲良くなれたらいいなと思っている……思ってはいるが、その、『それ以上』の関係になりたいとまでは、いまはまだ思っていないんだ」
俺の正直な吐露に、三姉妹からわずかに息を呑む音が聴こえた。
――野宮クロウの奪い合い。
俺は、三姉妹を守ることしか考えてこなかった。
つまり。ハッキリ言ってしまえば、三姉妹を恋愛対象としては見てこなかった――だから、『そっち』方面のアプローチはどうしても困惑してしまう。
女性としての認識はある。当然だ。三人はこんなに魅力的なのだから。女性らしい一面に、ドキッとしてしまう場面もたくさんあった。
けれど――それと三姉妹に対する想いとでは、やはりどこか食い違っているのだ。
この感情は、むしろ家族に対する想いに近い。
三姉妹は俺にとって、すでに大事な家族なのだ。
恋愛対象としては、いまはまだ見ることはできない。
「誤解を招く発言をしていたのかもしれない。そのせいで勘違いもさせてしまったのかもしれないが、これがいまの俺の偽らざる本音だ――俺はまだ、三人を守る家政夫でいたい」
「「「…………」」」
「だから、これぐらいのスキンシップはいくらでもしてくれてかまわないが、これ以上の過激な接触は控えるようにしてもらいたいんだ。『ブレーキ』をかけてほしい、というか……それにほら。俺は女性経験がないから、三人に言い寄られたりしたらドキドキして心臓が
最後はわざと、おどけて言ってみせる。
この話を深刻に捉えさせないためだ。
夏海が「なんだそれ」と呆れたように笑った。それにつられて、桜と秋樹も小さく笑い始める。
釘を刺すことになるこの忠告。自意識過剰だと一蹴されたらどうしようかと心配していたが、よかった、みんな好意的に受け止めてくれたようだ。
さっそく俺への密着をやめ、そっと適切な距離を空ける三姉妹。
すると。夏海が猫のように伸びをしながら「まあでも」と口を開いた。
「あたしらも、クロウにはまだ家政夫でいてもらいてえからな。このタイミングでブレーキをかけてもらえて、逆によかったのかもしれねえ……それに、奪い合いのためにあたしら三人がギスるってのも嫌だしな。それは本末転倒っつーか。そう思うだろ? 桜、秋樹」
「それはそうね……うん、私もちょっと焦りすぎてたかもしれないわ」
「わ、わたしも今後は気をつけます……」
「みんな……」
三姉妹の姉妹思いの言葉に、思わず視界が
いかんいかん。『スパイは涙を知らない』。昔、俺を拾ってくれたボスに教わった言葉だ。ここで泣いたらスパイ失格である。
いやまあ、もうスパイじゃないから、いくらでも泣いていいのだけれど。
と。不意に。
ピンポーン、と来客を告げるインターホンが鳴り響いた。
「ああ、俺が出よう」
さりげなくエプロンの裾で目元を拭い、涙を隠蔽しながら玄関に向かう。
一時はどうなるかと思ったが、三姉妹とはこれからもいい関係を築けそうだ。
そんな風なことを考えながら、ガチャリ、と玄関の扉を開ける。
三姉妹から涙を隠そうとするあまり、リビングのインターホンカメラで来客者を確認するのを忘れてしまった。
だから、こんな不意打ちを受けることにもなったのだ。
「――隙アリッ!」
「ぐふぉッ!?」
扉を開けた瞬間。小さな物体が俺の腹部に激突してきた。
銀色の
全身が総毛立つ。
間違いない。
アレは、奴が愛用していた――
「……ッ、クッ!」
「うわァ!?」
反射的に全力で身体をひねり、マウントポジションの体勢を逆転。
突然の襲撃者に覆いかぶさり、その小さすぎる両手首をしっかり握って固定して、攻撃を無効化する。
ふと。握りしめた手首の表面に、ザラついた感触があった。
(……『乾いた砂』?)
どうしてこんなものが手首に?
訝しみつつも、襲撃者が手にしていた黒いボールペンに視線を向ける。
ボールペンの先端からは、五センチほどの刃が飛び出していた。
いわゆる『暗器』というやつである。
眼下の襲撃者は、状況が覆されたにもかかわらず、そのつぶらな瞳を笑みに細めていた。
まるで、こうした戦闘が楽しくて仕方ないとばかりに。
「随分な挨拶だな?」
「ニシシ、やっぱダメだったカー! 日本に行って平和ボケしてるかと思ったのニ! さすがは『ナイン』だナ!」
「……ここでは、その名前で呼ぶな」
「エ? ああ、そっかそっカ! ゴメンゴメン!」
そう言って、たどたどしい日本語で謝る、銀髪赤眼の少女。
完全に異国の地の人間である――ツインテールという幼い髪型同様、頬もぷっくらと幼さを残していて、肌も唇もぷるんと若い弾力にあふれていた。
可憐な美少女然とした外見なのに、時折覗く犬歯が獣の牙のように研ぎ澄まされているため、どこか荒々しい印象を拭えない。
年齢は、たしか今年で十三歳。全身にまとう黒を基調としたジャージはぶかぶかで、完全に丈が合っていなかった。
この銀髪少女こそ――フルピース諜報部所属、コードナンバー『No,008』。
最年少の『スパイ十指』、暗器使い『ナンバーエイト』そのひとである。
諜報部の中では、ロリスパイだなんて名前で呼ばれてもいたっけ。
(……ん?)
と。
そんなエイトのジャージから、ほんのすこしだけ、タバコの匂いがした。
普通なら気づかれないレベルの匂いだ。エイトが吸うはずもないから、どこかタバコの煙が多い場所にでもいたのだろうか?
いや、それはさておき。
「どうしてお前が日本に?」
ボールペンを警戒しながら問うと、エイトはあっさりと暗器の刃を収めて。
「任務で来たに決まってるだロー? まあ、その辺の事情はまたあとで話すサ――それより、いいのカ?」
「? なにがだ」
「言い訳。このままだと大変じゃネ?」
ニヤニヤ、と含みのある笑みを見せつけ、顎をくいっと上げるエイト。
訳がわからず、エイトから視線をそらし、顎で示された先を見てみる。
「あ」
「「「…………」」」
玄関近くの廊下に、いつの間にか三姉妹が立っていた。
そうか。エイトは三人の気配に即座に気がついて、暗器をしまっていたのか。
先ほどの縁側での談笑はどこへやら。ひどく冷たい眼差しで俺を……十三歳の少女を両手で強引に押さえつける家政夫を見つめながら、桜が代表して言う。
「なんか音がすると思ったら……クロウ。その子とはどれぐらいの関係になりたいの?」
「い、いや、これは……」
「まあ、詳しい話はリビングでしましょうか」
納得のいくまで、ブレーキなんてかけずに、ね。
言い置いて、リビングに戻っていく三姉妹。
眼下では、くつくつ、とエイトが悪戯っ子のように笑っている。
一ヶ月を過ぎてなお、俺の家政夫業は前途多難を極めそうだった。
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