18話 桜と手を繋いで寝た。
それから十分後。
なんとか冷静を取り戻して混浴風呂を出ると、廊下で桜が待ってくれていた。
暖簾をくぐる俺に気づいた瞬間、浴衣姿の桜はこちらに歩み寄ってきて。
「もう、遅いわよ! 身体冷えちゃったじゃない!」
「す、すまない。すこし……そう、浴衣を着るのに手間取ってな」
「ああ、そっか。日本の浴衣なんて、いままで着てこなかっただろうしね。ならば許そー」
えへへ、と頬を緩めて、自然と手を繋いでくる桜。
その手はすこし冷たい。本当に待たせてしまったようだ。
俺は、自分の温もりを分け与えるように桜の手を強く握り、部屋への道を歩き出す。
「本当にすまない」
「別にいいって。旅館内に暖房がかかってるから、ものすごい冷えちゃったってわけでもないし」
「いや、そのこともなんだが……別の意味でも、な」
「? なんだかよくわかんないけど、それも許そー」
聖母のようにやさしく笑う桜を横目に、俺はひとり、彼女に劣情を抱いてしまった罪悪感に苛まれたのだった。
その後。
旅館近くの土産屋を覗きに行ったり、旅館内にあるゲームコーナーなどを見て回っていると、時刻はあっという間に夕飯の午後五時半を迎えていた。
「前、失礼いたします」
断りを入れて、数名の仲居さんたちが料理を運んでくる。
座敷に並べられていく懐石料理の数々に、俺は「おお……」と感嘆の声をもらすことしかできなかった。一目見ただけで美味いことがわかる。メインであろう刺身の活き造りはもちろん、煮物やお吸い物まで一品一品にこだわりを感じた。
あと。どうでもいい感想だが、こうしてあぐらをかいて座っているだけなのに勝手に料理が用意されていく感覚というのは……こう、王様になったような気がして心地よかった。
家政夫という、料理を提供する側を深く知っているからこそ、その感覚は顕著だった。
閑話休題。
仲居さんから食べる順番や食べ方の説明を受けたのち。俺たちは、待ってましたとばかりにさっそく料理に手をつける。
瞬間。俺は大きく目を見開いて、対面の桜に料理を指し示した。
「……ッ、んー、んー!」
「そうね、おいしいわね。だから落ち着いて? クロウ」
なだめられた。
おいしいのに。
だが、桜も事あるごとに
なんてことを考えつつ、俺と桜は食いしん坊よろしく懐石料理を食べていく。
ペアチケットを無駄にしなくてよかったと、心の底から思えた一時だった。
夕飯を終えた午後七時半。
俺たちを部屋に案内してくれたあの黒髪パッツンの少女が、和室に布団を敷きに来てくれた。
窓際の椅子に座ってスマホをイジる桜を尻目に、俺は食後のお茶をすすりながら、その少女の仕事っぷりを観察する。なにもすることがなかったのだ。
ほうほう、なるほど。シーツはああして敷くと綺麗に整うのか。手の力を使うのではなく、全身を使って布団を持ち上げるわけだ。なに、なんだあの動きはッ!? いまかなりテクニカルな動きで枕カバーを装着しなかったか!?
驚愕する俺のことなど露知らず、仲居少女は華麗に布団を敷き終わると、俺のいるほうまで戻ってきた。
汗ひとつかいていない。こ、これが仲居のプロか……!
「お客様。布団のご用意ができたのです」
「え? あ、ああ……ご苦労様」
「そ、それと……」
「? なにか?」
途端。頬をすこし赤らめたかと思うと、少女はもじもじと指先をイジりつつ。
「あ、『アレ』は、枕元の小棚にありますので……」
「……アレ?」
「で、では、ごゆっくりなのです!」
頭を下げて、慌てて部屋を出ていく仲居少女。
俺は首をかしげつつ、その枕元の小棚に向かい、中をたしかめてみる。
「なはぁッ!?」
入っていたのは、ゴムだった。
なんのゴムかは、言うまでもないだろう。
強いて言うなら、夜のゴムだ。
「どしたの? クロウ。変な声あげて」
「な、なな、なんでもないぞ!」
スコン! と小棚に夜ゴムを仕舞いなおし、枕元からあえて遠ざけておく。
まあ。布団は二組敷いてもらっているから、おかしな間違いは起きないだろう。
……起きないと、信じたい。
「それじゃあ、消すぞ? 桜。スマホも見ないようにな。スマホのディスプレイの明かりは、眠気を覚ましてしまう効果があるからな」
「主夫の知恵を教えられた……ぶー、わかったわよ」
ボヤきながらも桜がちゃんと布団に入ったのを確認して、俺は蛍光灯の紐をカチカチ、と引っ張って明かりを消し、布団に潜り込んだ。
時刻はまだ午後十時すぎだが、ここまでの移動などの疲労を考えて、俺たちは早めに就寝することにした。
それに……起きててもやることがないしな。
テレビは特におもしろいものもやっていないし、かと言ってスマホを眺めるのも温泉旅行に来ている感じがしないし。
いまできることと言えば、諦めてさっさと寝てしまうことぐらいだった。
(まあ、そのほうが間違いも起きなくて済むか……)
混浴風呂の件からも見える桜の心境の変化もそうだが、俺自身も、彼女となんの違和感もなく手を繋げるようになってしまっている。
これはマズい傾向だ。
旅の恥は掻き捨て、とはちがうかもしれないが、旅行という特別なシチュエーションが、俺と桜の理性をわずかにおかしくさせている。
はじめて同じ部屋で寝るというのに、なぜかあまり緊張していないのが、そのいい証左だ。あの混浴を経て、そうした緊張に慣れてきてしまっているのだ。
このままでは、夜ゴムを使用する場面が訪れてしまう!
ゆえに。こうして素直に就寝してくれることは、俺にとってもありがたいのだった。
「それじゃあ、おやすみ。クロウ」
「ああ、おやすみだ」
桜の寝息が聴こえてきたところで、俺もそっとまぶたを閉じる。
それから――十分ほど経った頃だろうか。
意識が睡眠の沼に沈みかけた辺りで、もぞもぞ、という音が聴こえてきた。
隣の布団からだ――ソレは闇の中で蠢きながら俺の布団に這いより、そして、俺の布団の中に侵入してきた。
「……なにをしているんだ? 桜」
「えへへ、なんか眠れなくって」
闇の侵入者、桜はそう言って、こちらの枕元に頭を出してくると、にへら、と眠たげな顔で微笑んだ。
心なしか、呂律も怪しい感じがする。
というか、顔が近いな。なぜ同じ枕に頭を乗せてくるんだ。
「いや、もうまぶたが半分落ちかけてるじゃないか。そのまま目を閉じていれば眠れるだろ」
「眠れるかもだけど……その、寒いからさ」
「寒いか? 暖房もかかってるから、布団をかぶればちょうどいいだろ」
「と、とにかく寒いの。誰かさんがお風呂上がりに待たせてくれたせいで、身体が冷えちゃったからさ」
「う」
「あーあ。このままひとりで寝たら風邪ひいちゃうなあ、きっと」
ニヤニヤと悪戯っ子のような笑みと共に、俺のほうにさらに近づいてくる桜。
風呂上がりに待っていてくれと頼んだ覚えはない……なんて薄情なことを言えるほど、俺はもう、桜のことを他人とは思っていない。思えない。
ここで口にできる回答なんて、ひとつしかなかった。
「わかった、わかったよ……ただし、もうすこし離れて寝てくれ。近すぎると寝づらい」
「やった! えへへ、ありがと。クロウ」
「どういたしまして」
皮肉って答え、俺は姿勢を仰向けに変える。
すると。桜が布団の中で俺の左手を握ってきて、こうつぶやいてきた。
「……ほんとにありがとね、クロウ」
「? 一緒に寝るのがそんなにうれしいのか?」
「それもそうだし、こうして温泉旅行に連れてきてくれたことも。クロウは知らないかもだけど、ほんとにうれしかったんだよ? 私」
「……そうか」
「うん。最高の『特別』をもらっちゃった――もう、これ以上ほしがったら罰が当たっちゃうってレベル」
「……俺も」
区切って、顔だけを倒して隣の桜を見つめると、俺は言った。
劣情なんかではない。まじりっけなしの本音だった。
「俺も、桜と一緒に来られて、うれしかったよ」
「……えへへ、えへへ。ああ、よかった。その言葉だけで、私はもう満足。一生分の『特別』をもらっちゃったよ」
「大げさだな。これからもっといい『特別』があるかもしれないのに」
「いまの私にとっては、これが最高なの――ああ、ほんとによかった」
ありがとね、クロウ。
再度そうつぶやいて、桜は手を握ったまま、そっとそのまぶたを閉じた。
本当にただ一緒に寝たかっただけらしい。
その寝顔は、こちらの頬まで緩んでしまいそうなほどに、幸せそうなソレだった。
そんな桜の前髪を整えてやり、寒くないよう布団をかぶせなおしてやる。
冷たい外気に反して、布団の中も心の中も、春のようにポカポカと暖かかった。
□
翌朝。
八時間睡眠という安眠を成し遂げた俺と桜は、これまた美味い朝食を堪能すると、旅館を出る準備をし始めた。
これで旅行も終わりかと思うと、なんだかさみしい気分になるのだから不思議である。
「ねえ、クロウ」
と。帰り支度が済んだタイミングで、桜がスマホ片手に話しかけてきた。
「この窓からの風景をバックに、一緒に写真撮らない? 温泉旅行の記念にさ」
「かまわんが……友達には見せるなよ? またややこしくなりそうだから」
「えへへ、それは約束できないかなー?」
「おいおい……」
「だ、だって……クロウと一緒に旅行したこと、みんなに自慢したいんだもん……な、仲のいい友達にしか見せないから! そ、それでもダメ?」
「……むぅ」
まあ。高校に乗り込んだときにも考えていたことだが、俺という恋人がいると勘違いされていたほうが言い寄ってくる男子たちへの牽制にもなるか。
俺は仕方ない、と長い吐息をひとつ。不安げな顔でこちらを見つめてくる桜の隣に並んだ。
「一枚だけだぞ?」
「……、えへへ! ありがと、クロウ!」
はしゃぎつつ、桜がスマホのカメラモードを起動して、シャッターボタンをタップ。
カシャリ。
うれしそうな表情の桜と無愛想な顔の家政夫が寄り添った写真が一枚、完成した。
「ちゃんと撮れたか?」
「うん、バッチリ! えへへ……家宝にしちゃうもんね」
「それは大事にしすぎな気もするが……まあ、喜んでもらえてなによりだ。それでは、そろそろチェックアウトするか」
「うん、帰ろう! クロウ!」
元気にそう言って、いつものように手を繋いでくる桜。
その温もりを、どこか愛おしく感じながら、俺は彼女の手をそっと握り返す。
こうして。
一泊二日の濃密な温泉旅行は、静かに幕を閉じていった。
桜が何者かにさらわれたのは、それから数日後のことだった。
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