17話 桜と混浴風呂に入った。

「……どうしてこうなった」

 

 昼の暖かな陽射しが降り注ぎ、白い湯気が立ち込める中。

 俺は屋外に設置された、いわゆる露天風呂と呼ばれるものに入っていた。

 正確には、混浴風呂というべきか。

 

 こんな真昼間だからか、ほかの入浴客はひとりも見られなかった。

 そもそも。玄関先の靴置き場を見るに、この黒田旅館には現在、そこまで多くの宿泊客はいないようだった。歴史と風情のある旅館だから人気がないということはないだろうが。ちょうど、客の入りが少ない時期なのかもしれない。


(まあ、そのほうが桜の裸を見られる心配もない、か……)

 

 当たり前のことだが、俺自身、身にまとっているものはひとつもない。

 正真正銘の全裸である。

 海外のマーライオンよろしく、露天風呂の岩からお湯が流れ出てくる中。背後の洗い場からは、シャワーや桶の音が聴こえてきた。

 桜が身体を洗っている音だ。


「……どうして、こうなった」

 

 普段聞くことのない音が妙に生々しくて、俺は身体を湯舟にさらに深く浸からせ、悩ましげにそうつぶやいた。


〝――一緒に温泉、入ろ――〟

 

 桜の腕力が凄まじいものとはいえ、結局は男性と女性。

 あのとき。桜の手を振り払い、力ずくで部屋に帰ることだってできたはずだ。

 けれど。俺はそうすることもせず、ただただ従順に紫の暖簾をくぐり、この混浴風呂に足を踏み入れてしまっていた。

 自分でもその理由はわからない。俺自身、はじめての温泉旅行ということで知らないうちにテンションが上がっていたのかもしれない。

 だが。ひとつ確かなのは、『桜を悲しませたくない』、という思いがあったことだけだ。


(あそこで俺が断っていたら、捨てられた子犬のような顔をしていただろうしな……)

 

 言わずもがな、桜の――ひいては三姉妹のそんな表情は見たくない。

 俺は、三姉妹を守る『騎士』なのだから。

 

 だから、そう。

 こうして桜と一緒に風呂に入ってしまっているのは、家政夫の使命に基づく不可抗力とも言えるのだ。

 ああ、そうだ。

 家政夫の使命。そういうことにしておこう。

 

 ……そう考えでもしないと、この状況に堪えられそうもない!


「ブクブク……」

 

 様々なことを考えすぎて、ついには湯舟に口をつけてしまう俺。

 俺と温泉に入りたがる桜の意図は掴めないが、それでも、羞恥心がまったくなくなったというわけではないのだろう。

 脱衣所では離れた場所で服を脱ぎ、風呂場へは先に俺を入らせたりと……桜は徹底して俺に裸を見られないようにしていた。

 いや、俺が見たいというわけではない。

 むしろ、見ないほうが助かる。色んな意味で。

 

 二十年間。女性と付き合ったことのない俺は、当然のことながら、女性とのこうした裸の付き合い方というものがわからないのだった。

 だからまあ。俺がこんな状態なのだから、桜側にそうした羞恥心がある以上、おかしな間違いが起きることはないと思うのだが……。


「お、お待たせ……」


「ッ……、!!」

 

 と。

 不意打ちのように背後から聴こえてきたその声に、俺は思わず全身を硬直させる。

 いや、そこの硬直はしていない。

 

 俺は振り返ることもできず、声を出すこともできず、目の前の竹囲いを凝視した。

 その間に、チャプン、と湯舟になにかが入る音がしたかと思うと、俺の周囲のお湯が波立つと共に、背中にある気配が近づいてきた。


「ま、待たせちゃったかな? のぼせてない?」

 

 一メートルにも満たない距離からの、そんな桜の問いかけ。

 俺は、やはりまだ声を発することができず、無言でコクコク、とうなずき返した。

 正直、緊張でのぼせそうではあったのだけれど。


「そ、そっか。よかった……えっと、それじゃあ、失礼します……」

 

 桜がそう断りを入れた直後。

 俺の背中に、ピトッ、と人肌の温もりが伝わってきた。

 桜が背中を合わせてきたのだ――その状態のまま、桜は湯舟の中で、俺の右手をそっと握ってくる。


「え、えへへ……やっぱ、ちょっと恥ずかしいね、これ……」


「……さ、桜は」

 

 緊張で喉が渇いている。温泉に入って湿気は充分のはずなのに。

 唾を飲み込むことでソレを解消し、俺は再度口を開いた。


「桜は、どうして俺を混浴なんかに……?」

 

 訊ねると、桜はすこし逡巡したのち、握った手をさらに絡めてきて。


「……ちょっと前にクロウ、夏姉と手を繋いで帰ってきたじゃない?」


「? あ、ああ」


「そこで、私はクロウからのハグっていう『特別』をもらったわけだけど……でも、夏姉や秋樹と仲良くしてるのを見かけるたびに嫉妬して、何度もハグしてもらってたら、『特別』が特別じゃなくなっていっちゃうんじゃないかな、って思ったの」


「……特別に慣れていってしまう、という意味か?」


「そう……だから、その、この温泉旅行で、これ以上ないっていうぐらいの最高の『特別』を、クロウのはじめてをもらっておきたいな、って思ったの……ほかのふたりに、追いつかれないように」


「最高の『特別』……それが、この混浴?」


「う、うん……こんな機会でもない限り、夏姉や秋樹と一緒の湯舟に浸かるだなんてこと、ないでしょ?」


「まあ、それはそうだろうな……」

 

 葉咲家の風呂は広いので、こうした混浴も余裕でこなせるだろうが。事故レベルのトラブルでもなければ一緒に風呂に入るということはまずないだろう。


「でしょ? だから、混浴はうってつけかなって……もしかして、ほかの女のひとと混浴とか、したことあった?」


「あるわけないだろう。俺は二十年間、一度も女性と付き合ったことがないのだから」


「え? そ、そうなの?」

 

 ああ、そうか。交際経験ゼロというのは、夏海にしか話したことがなかったか。


「私はてっきり、ものすごい美女と付き合ってきたものだとばかり」


「……やっぱり姉妹だな」


「なんのこと?」


「いや、なんでもない」


「そう? まあでも……えへへ。それじゃあ、私と同じだね? 私も、男のひとと付き合ったことないよ? うれしい?」


「……まあ、変な男に泣かされる心配がなくなったという意味では、うれしいかな」


「なにそれ。素直じゃないなあ……私は、クロウに女性経験がなくて、すごいうれしいのに」


「女経験がなければ、からかいやすいから?」


「ううん。色んなはじめてをもらえるし、私からも、色んなはじめてをあげられるからだよ」

 

 そうつぶやき、一瞬桜の気配が離れたかと思うと、白く細い両手が回されると同時に、俺の背中に別の感触が伝わってきた。

 味わったことのない、ふたつのやわらかな感触。その中にある、小さな突起。

 

 こ、これは、まさか……!?


「えへへ。クロウ、思ったより筋肉質なんだね……すごいや」


「なッ……さ、桜……」


「ふ、振り向いちゃダメ」

 

 俺の腹部に回した両手をぎゅっ、と引き寄せ、桜は震え声で続ける。


「いま、自分でもわかるくらい、顔真っ赤だから……」


「……い、いや、だがこれはさすがに」


「い、いいの……もらってばっかだとアレだから、わ、私のはじめてもあげるんだ。あ、秋樹みたいにおっきくないから、あまりうれしくない感触かもしれないけど……」


「――、――」


「ど、どうかな? うれしくないかな?」

 

 程よい大きさと弾力、その中に絶妙なやわらかさが内包されているので、うれしくないかどうかで問われれば、最高にうれしいぞ。

 

 ……と、真面目な顔で答えかけて、俺は寸でのところでソレを止めた。

 あぶないあぶない。変態の領域に踏み込むところだった。

 俺は、平静を取り戻すように咳払いを挟み。


「さ、桜の思いやりの気持ちは受け取った。しかと受け取ったから……そろそろ、あがらないか? もう充分温まっただろ」


「なんかはぐらかされた気がするけど……うん、そうしよっか。じ、実は、私もちょっと緊張が限界でのぼせちゃいそうだったの――」


「――おお、いい眺めじゃのう」

 

 そのときだ。

 ガラガラ、と風呂の戸が開かれたかと思うと、七十代ほどの男性老人がふたり入ってきた。

 俺はすぐさま移動し、老人たちから守るようにして、桜を背後に回した。

 この温泉は湯気が多いから、パっと見ではバレないはずだ。


「およ? これまた若い兄ちゃんがおるようじゃのぅ。珍しいねえ」


「お、お先に失礼してます」


「こちらこそ失礼するよ。こんなジジイが入ってきてガッカリしたじゃろ? 死に化粧の前に身体だけ洗わせておくれなぁ」

 

 老人特有のブラックジョークを挟みつつ、洗い場のシャワー前に座り込む老人たち。

 そんなふたりを注視しつつ、俺は湯舟の中に手を伸ばし、桜の腕を掴むと、ゆっくりと迂回するように移動をはじめた。

 家のよりは断然広いが、それほど大きな浴場でもない。

 

 程なくして。俺たちは露天風呂のへりにたどり着くことができた。


「シャワー台の影に隠れて移動しろ。そうすれば、気づかれずに脱衣所に出られる。俺は、彼らの注意を引きつけておく」

 

 小声で指示をし、視界の端で桜がうなずいたのを確認した、その直後。


「さーて、そいじゃあ入るかねえ」

 

 身体を洗い終えた老人たちが立ち上がり、湯舟に向かって歩き出した。

 

 なんてタイミングの悪さだ!

 だが、まだ影に隠れれば脱することはできる!

 

 俺は老人たちの動向を確認しながら背後に手を伸ばし、手探りで桜の腕を掴んだ。

 しかし。


「ん、や……」

 

 むにゅ、と。

 掴んだその腕は、あまりにもやわらかい感触をしていた。

 むにむにとしていて、手の指が沈むほどにやわらかい。

 離したくなくなるような、病みつきになる不思議な感触。未知の感覚。

 これに似た感触を、俺はついさっき、味わっている気がする。

 背中に当てられていた、あのふたつのやわらかな感触にそっくりだ……。

 

 ……うん、というか。

 これ、完全に桜の『アレ』じゃないかッ!?


「ッ……す、すまない。急いで出ろ」

 

 神速で手を離し、小さく謝罪を挟むと、俺は叫びたくなる衝動を抑えつつ、桜を湯舟の外に誘導した。

「う、うん……」気恥ずかしそうな声で応え、桜は頭の上に置いていたのだろうタオルを広げた。片手でゴメン、というジェスチャーを見せたあと、身体の前面を隠しながら、脱衣所に走っていく。

 

 その後ろ姿で、俺ははじめて桜の裸体を目にしてしまった。

 しかも、タオルは前しか隠していないので、艶かしい背中やお尻、太ももなどはすべて丸見えだった。

 その顔に相応しい、色っぽくも綺麗な身体だった。


「……、……」

 

 桜が脱衣所に避難したのを確認したのち、俺はそっと、無言で湯舟に浸かりなおした。

 すると。極楽極楽、と口にしながら老人たちが湯舟に浸かりだした。桜の存在には気づいていないようだ。


「ん? 兄ちゃん。どうしたんじゃ、そんな端っこでむずかしい顔して?」


「……あの、不躾なお願いではあるんですが」


「お? なんじゃなんじゃ?」


「すこし、俺と雑談していただけませんかね? ちょっと、気を紛らわせたくて」


「ん? そりゃあかまわんが……そいじゃあ、なにを話そうかねえ」

 

 そう言って、他愛もない雑談を繰り広げてくれる老人ふたり組。

 そんなふたりの会話を聞きながら、俺は早鐘を打つ胸を押さえ、視線を下に落とす。


(……家政夫失格だ)

 

 女性経験なし、というのが、ここに来て響いたのだろう。

 先ほどの感触、そして桜の後ろ姿を思い出し、情けなくも俺は硬直してしまっていたのだった。

 そう。今回のコレは、そこの硬直で合っている。

 ……合っていてほしくなかったけれど。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る