15話 桜と温泉旅行に行くことになった。

 十一月中旬になり、寒さも一層強まってきた。

 葉咲家の家政夫になって約二週間。家事にもだいぶ慣れてきて、二時間かかっていた掃除機がけも、いまでは一時間以内に収めることができるようになった。

 その日の予定にもよるが、三姉妹の弁当作り、洗濯や三食分の食事の用意を合わせても、大抵は午前中にすべての仕事を終えることができる。

 

 だが。三姉妹が帰ってくる夕方まで暇だというわけではない。

 こうして家事を日常的にしている人間ならわかるだろうが……すべて終わったと思っても、なにかしらが目につくのだ。

 風呂掃除を終えても、パッキンのカビが気になり。掃除機をかけても、窓の汚れが気になり。食事を作っても、次の食事のことが気になり……家事のエンドレス状態に陥るのである。

 

 Q こうなった人間はどうなるんですか?

 

 A 仕事を終えても、なんか落ち着かなくなります。


「……出かけるか」

 

 家の中にいるから、色んな箇所が気になるのだ。

 ならば、家から離れてしまえばいい。

 

 そう決意すると、俺は善は急げとばかりにソファから身を起こし、ラフな外着に着替えて家を出た。

 時刻は午後一時前。

 食材は先週の休みに買い込んだから、今日は雑貨でも見に駅前まで足を伸ばしてみようか。帰る頃には、ちょうど三姉妹も帰ってきていることだろう。

 

 操作も馴染んできたママチャリにまたがり、家の敷地を出る。

 すると。公園前の路上で、井戸端会議をしている近所の奥様方と出くわした。


「こんにちは。みなさん」

 

 ブレーキをして停車し、これ幸運とばかりに会話に混ざる。

 家政夫なりたての頃は戸惑っていた奥様方だったが……というかバタバタと倒れていた奥様方だったが、最近では俺を見かけると声をかけてきてくれるようになった。

 これも、スパイ時代の悪癖で声をかけ続けた賜物である。


『種』が『実』になるのも、そう遠くはない。


「へえ、そうなんですねー」

 

 それから三十分ほど。奥様方と四方山話よもやまばなしに華を咲かせた。

 駅前への用事は、別に急いでいたわけでもないしな。

 それに、彼女たちとの会話は、なによりも役に立つ。

 話した内容は、それこそ雑多なものばかりだった。近所のお婆さんが腰を痛めただとか、隣町のスーパーで見かける高校生カップルが微笑ましいだとか、叶画市の南にある埼宮港さきみやこうに不良が溜まっているだとか、よその自治区に防犯カメラが設置されただとか……まったくもって、俺にとってありがたい情報ばかりだった。


「助かりました、みなさん。それでは、俺はこの辺で」

 

 話題が旦那への愚痴に変わり始めたあたりで、俺はママチャリのペダルを再稼働しはじめる。

 奥様方の愚痴を聞くだけで二時間は溶けるからな。

 ここは、早めに撤退しておくのが吉だろう。

 



 

 二十分ほどかけて駅前に向かい、駐輪場置き場にママチャリを停めると、俺は駅に隣接している叶画かなえ商店街に入っていった。

 目的の雑貨屋に入り、偶然目についた男性用の茶碗と箸を手に取る。

 いままで三姉妹の食器を使わせてもらっていたから、いつか自分専用の食器がほしいと思っていたんだよな。

 ほくほく顔で食器をレジに持っていき、代金を支払うと。


「よければどうぞ」

 

 と、レシートと共に『福引券』を一枚渡された。

 なんでも現在、叶画商店街の南口付近で、福引が行われているらしい。

 テレビで見たことがある。ガラガラと騒々しい音を立てながら回して、出た玉の色によって景品が決まるというやつだ。

 レジ店員の話によると、福引券一枚で一回、チャレンジすることができるらしい。

 スパイは、時に運も試される。

 そして。超一流のスパイとは、総じてラッキーボーイであると相場は決まっている。


「よし」

 

 俺は襟元を正して店を出ると、決戦の場である福引会場に向かった。

 




 程なくして会場に到着。

 通路脇。歩行者の邪魔にならない位置に会議用の長テーブルが置かれており、その上に例のガラガラがセットされていた。

 その奥には階段状の棚があり、左上から右に、一等、二等、三等……と並んでいた。

 三等は巨大なぬいぐるみ、二等はお米券、一等は温泉旅行ペアチケットとなっていた。

 二等のお米券がほしい。すごくほしい。

 三姉妹はパンよりも米派らしく、毎日のお米の消費量がなかなかに凄まじいのだ。


「やってくかい? 兄ちゃん」

 

 物欲しそうに景品棚を眺めていると、景品棚の前にいる、金色の鐘を手にした赤いハッピ姿の老人が話しかけてきた。


「その手に持ってるの、福引券だろ? 一枚しかないようだから、一回だけの挑戦になるけど……まあ、こんなご機嫌取りみたいな福引で地域活性化が進むとは思えないが、自治会長が決めちまったもんは仕方ない。ここは一発、未来ある若い兄ちゃんが一回で豪華景品をかっさらっていってくれよ!」

 

 ヤケっぱち気味に言って、老人はガラガラの前にスタンバイし始めた。

 金の鐘をかかげ、いまにも鳴らさんとばかりに構えている。

 というか、早く鳴らさせろ、と期待の眼差しでこちらを凝視してきている。

 ……どうやらこの老人は、自治会長とやらに命令されたのかなんなのか、嫌々福引のスタッフに採用されてしまったようだった。

 

 ともあれ。

 俺は老人の期待に応えるべく、福引券を渡し、腕まくりをした。


「任せてください。二等のお米券を、見事勝ち取ってみせます」


「あ、ほしいのそこ? 一等じゃないんだな……」


「こう見えて俺、家政夫ですの、で――ッ!」

 

 言いながら、ガラガラの取っ手を握り、勢いよく回す。

 ガラガラというより、ジャラジャラ、といった騒音を立てて回る例のアレ。正式名称が不明なので、なんて呼べばいいのかわからない。抽選機だとなんかお堅いし。

 なんてことを考えながら回していると、コロン、と受け皿に玉が出てきた。

 取っ手から手を離し、老人と共に玉の色を確認する。


「こ、これは……」


「お、おめでとうだぜ! 兄ちゃん! 見事ゲットしたのは――」

 


     □

 


「ただいまー。ハァ、疲れたー」


「おかえりだ。桜」

 

 午後四時二十分。

 夕暮れ差し込むキッチンで夕飯の支度を始めていると、気怠そうに桜が帰宅してきた。

 部屋に戻ることもせず、フラフラとした足取りでリビングを縦断すると、疲労困憊といった様子でテレビ前のソファにダイブする。


「ぶはー! もう無理、明日からの二連休は二十四時間寝て過ごすー」


「眠りすぎではないか?」


「突っ込みが真面目すぎる! 二十四時間寝たいぐらいダルいって意味よ……ああ、週明けには学校が大気圏に飛んじゃってますように」


「世界的ニュースになるな……さておき、かなりお疲れのようだな。しかし、桜はたしか帰宅部だったろう。なにをそんなに疲れることがあるんだ?」


「精神的に疲れたのよー。もう、ほんと最悪だわ……」


「精神的に、とは?」


「うちの学校、十一月下旬に『学園祭』やるんだけどさー」

 

 ソファの肘置きに顎を乗せて、疲労でフニャフニャになりながら桜は言う。


「その学園祭で、どうしてかうちのクラスは劇をすることになったわけ。お題目は、ド定番の『白雪姫』。クロウも、さすがに白雪姫ぐらいは知ってるでしょ?」


「ああ、もちろん。キスで目覚めるやつだろ?」

 

 原作のグリム童話では、キスで目覚めるシーンは存在しないらしいが。

 まあ、所詮学生のお遊びだ。そこまで原作準拠にする必要はないだろう。

 閑話休題。


「そうそう、王子のキスでってやつ――んで、今日のHRで配役を決めることになって、誰が白雪姫をやるかって話になったんだけど……なぜか、満場一致で私が選ばれちゃってさ」


「おお、すごいじゃないか。おめでとう」


『桜姫』と呼ばれているぐらいの美少女だ。ヒロインに抜擢されて然るべきだろう。

 しかし。桜はまったくうれしくなさそうな顔で、ハァ、と重いため息をついた。


「なんにもめでたくないわよ。クラスの男子とキスシーン演じなきゃいけないのよ? 考えただけで憂鬱だわ。王子役に立候補してきた男子全員、軒並み下心丸出しだしさ……ほんと、学園祭当日ボイコットしてやろうかな?」


「……なるほど、そういった意味での精神的疲れだったか」

 

 鍋の蓋を閉じながら、俺は続ける。


「満場一致で決まった以上、いまさら断るに断れず。かと言って、相手役の男子に文句をつけて気まずい仲になるわけにもいかず。目下板挟みの葛藤中なわけだ」


「そういうこと。理解が早くて助かるわ……おまけに、その、クラスの女友達たちが『なら、あのイケメンを王子役にしちゃえば?』とか言って、からかってくるし……」


「? あのイケメンとは、どのイケメンだ?」

 

 イケメンという単語が、格好いい男性のことを意味しているのは、つい最近学んだが。

 訊ねると、桜は無言で身体を起こし、ジトー、と半目でこちらを見つめると。


「……ん」

 

 と、拗ねるように俺を顎で示してきた。


「……俺が、イケメン?」


「べ、別に私がそう思ってるってわけじゃないわよ? でも、なんか女友達の間では、クロウはイケメンってことになってるらしいわ。あ、あくまで女友達の間での話だけどね」


「そうか。その評価はうれしいが……あはは、さすがに部外者の俺を王子役には抜擢できないだろう」


「当然よ。だから、からかってきてるだけなのよ、アイツらは。あまつさえ、『彼氏とのキスなら慣れてるでしょー?』なんて言ってきて……そのせいで、変に顔が赤くなって戻らなくなっちゃったんだから……」


「体調が優れなかったのか?」


「あ――ま、まあ、そんな感じ。いまのは忘れて!」


「? うむ、忘れよう」

 

 口が滑った、とばかりに慌てふためく桜から視線を切り、鍋の煮込み具合を確認する。

 

 あ、そうだ。

 そういえば、まだ桜に言っていなかったな。


「桜、桜」


「ん、なに?」


「実は今日、雑貨を見に駅前の商店街に行って、ついでに福引をしてきたんだ。何等が当たったと思う?」


「どうせ、ビリっけつのポケットティッシュでしょ?」


「ブッブー。桜、ブッブー」


「腹立つリアクションね……え、それじゃあ、まさか」


「そのまさかだ。実は――一等の温泉旅行を当ててしまったんだ!」

 

 ジャジャーン! とズボンにしまっていた温泉旅行ペアチケットを取り出す。

 すると。桜はダラけた体勢をすかさず直し、驚きに目を見開いた。


「えッ!? うわ、すごっ! マジで!?」


「マジだ! ひとつ隣の他県にある『黒田くろだ旅館』というところのペアチケットらしい。期間は一泊二日となっている……ただ、ひとつ問題があってな」


「問題?」


「このチケット、有効期限が明日からの二連休で切れてしまうようなんだ。だから、当たったはいいが使用することはできないんだ」


「え? な、なんで使えないのよ?」


「だって、『ペア』チケットだぞ? 三姉妹全員は行けないじゃないか」

 

 俺は除外するとして、ひとり分の料金を出して無理やり三人で行かせるとなると、当たり前の話だが、ひとり分の旅行費用は自腹で負担することになる。そうなると、一等を当てた意味が薄まってしまう。

 セール中だからと言って、いつも以上に買い溜めして散財するようなもの。

 こういうのは、無料で行けるからこそ価値があるのだ。


「ひとり分の費用を負担するぐらいなら、そもそも行かないほうが幸せになれるというものだ。所詮、運で手に入れた産物だしな。なにより、スケジュールがあまりに急すぎる」


「で、でも、行かないってのはさすがにもったいなくない?」


「もちろん、もったいないとは思うが、誰かを省くよりはマシだろう」


「それはそうかもだけど……そ、それでも、やっぱもったいないと思うなー、私は。だって、温泉旅行だよ? こんな機会でもない限り行けないよ? きっと」


「む、むむぅ。そこまで言われると、なんだかすごくもったいないような気がしてきた……」

 

 言いながらチケットとにらめっこしていると、桜が柔軟よろしくグググ、と上半身を伸ばしつつ、どこか白々しい語調で口を開いた。


「あ、あれー? 私、明日からの予定、偶然空いちゃってるんだよなー(チラチラ)」


「二十四時間寝て過ごすんじゃなかったのか?」


「き、気分が変わったの! あ、あーあ。明日からの二連休、どっか出かけたいなー。疲れを癒すために、お、温泉とかいいかもなー」


「……いや、うん」

 

 桜の言わんとしていることはわかるけれど。

 痛いほど伝わってくるけれど。


「しかし、それでも俺は、三姉妹の誰かを省くわけには……」


「――ただいまです!」

 

 と。そのとき。

 玄関の扉が開く音が聞こえたかと思うと、リビングに秋樹が駆け込んできた。

 おとなしい秋樹らしからぬ、元気な『ただいま』だったな。

 興奮冷めやらぬといった表情で、学生鞄から弁当箱を取り出すと、秋樹は俺がいるキッチンまで届けに来てくれた。


「はい、クロウさん! 今日もおいしかったです!」


「おお、それはよかった……ところで、秋樹。今日は随分と元気そうだな。なにかいいことでもあったのか?」


「あったなんてもんじゃないですよ! 今日ついに、私の最推しである『東頭改革とうとうかいかく』先生の新刊が発売されたんですよッ! わたし待ちきれなくて、学校帰りに書店で購入してきちゃいました!」


「ああ。前に説明してもらった推理小説の……」


「もう、早く読みたくてウズウズしてるんですが、この気持ちは明日まで封じておくんです」


「? それまたどうして?」


「以前、本好きの子と友達になったって話、したじゃないですか? 明日からの連休は、その子の家に泊まって一緒に東頭改革先生の新刊語りをする約束なんです! ああ、新刊も楽しみだし、友達の家に泊まるのもはじめてだし、ワクワクしすぎて地団駄踏んじゃいます!」

 

 そう言って、トストス、と軽くその場で楽しそうに足踏みする秋樹。

 根っからの読書好きだな。見ていて清々しいほどである。

 ……こっちを見ている桜の表情は、ニヤニヤといった感じでなんとも憎たらしいけれど。


「そういうことなので、わたし明日からの連休は家にいませんので、ご飯とかも大丈夫ですから! そのようにお願いいたします!」


「あ、ああ、わかった。新刊の感想、また今度聞かせてくれな」


「もちろん!」

 

 無邪気な笑顔で応えて、秋樹は弾むようにして二階にあがっていった。

 ソファからずっとこちらを眺めていた桜が、口元をニヤリと歪めながらつぶやく。


「ひとり減っちゃったね? クロウ」


「……い、いや、それでもまだ夏海が残って――」


「――ああ、やべえやべえ!」

 

 そんな慌てた声と共に帰ってきたのは、誰でもない長女の夏海。

 リビングに立ち寄り、「クロウ、今日もうまかったぜ!」と口早に言い置いて弁当箱を渡してくると、夏海は早々に部屋にあがろうとしてしまう。


「ま、待ってくれ夏海!」

 

 助けを乞うように思わず呼び止めると、夏海は階段からひょこっと顔を覗かせて。


「どうした? クロウ。あたし、いまちょっと急いでんだけど!」


「急いでいる……な、なにか用事でもあるのか?」


「前に偽彼氏……じゃねえ、ある作戦の提案をしてくれたダチの話、クロウにもしただろ? 今日、そいつの家に泊まって女子会を開くことになったんだよ。それで、これから酒のツマミやらなんやらを一緒に買い出しに行くことになっててさ。早く支度しねえとなんだわ」


「……ちなみに、その女子会はいつまで?」


「この連休いっぱいだな。だから、その間のあたしの飯は用意しなくても大丈夫だぜ――って、悪い、マジで急がねえとだから、そろそろ!」


「あ、ああ、引き止めて悪かった……あまり飲みすぎないようにな」


「わーってるって、サンキューな!」

 

 ウィンクを残して、ドタドタ、と二階に駆け上がっていく夏海。

 

 リビングに残されたのは必然、俺と桜のふたり。

 そして。温泉旅行のペアチケットの人数も、ふたり。

 

 観念した俺は、そっとエプロンを取り、ソファで勝ち誇ったドヤ顔をする桜の下へ。


「……桜」


「なーに?」


「温泉旅行、一緒に行くか?」


「行くッ!」

 

 パァ、と満面の笑顔を咲かせて、俺の腕に抱きついてくる桜。

 こうして。

 俺と桜は、ふたりきりの温泉旅行に行くことになった。

 


     □

 


 その日の晩のことだった。

 深夜一時すぎ。明日の朝食の準備と旅行の支度を終えた俺は、眠る前に水を一杯飲もうと、リビングに向かった。

 喉を潤しながら、片手でスマホを操作し、いつもの日課である監視カメラのチェックに入る。


「――ッ、な」

 

 瞬間。思わずコップを落としそうになる。

 

 三姉妹の誰のものでもない、見知らぬ謎の『人影』が映っていた。

 

 録画時刻は、午後十時二十一分。

 撮影場所は、玄関前だ。

 その黒い人影は、インターホン横の『葉咲』という表札を数秒眺めたかと思うと、玄関の扉に手を伸ばしかけ、途中で踵を返していた。

 顔は映っていない。夜の暗闇と目深にかぶっている帽子が、人影の顔を絶妙に隠していた。

 

 俺は玄関に走り、扉を開け放った。

 人影の姿はもちろんない。玄関の扉にもインターホンにも触れていないから、指紋を採取しようにもできない。


「……まさか、な」

 

 思わず脳裏をよぎったその人物像を、俺は頭を振ることで消し去る。

 旅行前に起きた、なんとも気味の悪い出来事だった。

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