12話 夏海がグイグイくるようになった。
「今日は講義ひとつで終わりだから、すこし待っててくれね? せっかくだし、一緒に帰ろうぜ」
『偽彼氏周知作戦』を見事(?)成功させ、食堂を出る間際。
夏海にそんな唐突なお願いをされた俺は、彼女にスマホの番号とRINEのIDを伝えると、大学の門近くにあるベンチで時間を潰すことにした。
今日は午後まで作戦に費やす予定だったから、この程度の時間ロスは問題ない。
「しかし、午前中で終わりなら、弁当はいらなかったな……」
まあ、夏海は相当な弁当好きのようだったし、家で食べても喜んでくれるだろうけれど。
なんてことを、肌寒い秋空の下で考えていると、不意にブブブ、とスーツの内ポケットが震えた。
この振動の長さは、着信か?
震源地のスマホを取り出して、画面を確認。
着信者名――キャサリン・ノーナンバー。
俺はギョッと目を見開き、思わずスマホを両手で隠した。
その後。辺りにひとがいないことを確認したのち、ゆっくりと通話開始ボタンを押す。
「……なんの用だ?」
『あら。昔の上司に対して随分な態度じゃない? ナンバーナイン』
キャサリンの茶化すような声音が、スマホを介して
何年も聴き慣れたキャサリンの声。
不覚にも、懐かしいだなんて思ってしまった。
『ああ、ゴメンなさい。いまは〝野宮クロウ〟だったわね――というか、日本語のクロウは久しぶりね。いつもプライベートでは英語だったから、なんか新鮮だわ。なら、ワタシも日本語で喋らないと。どう? うまく話せてるかしら?』
「俺よりも上手だよ」
キャサリンは諜報部局長、言うなればスパイの先輩だ。
むしろ、俺よりも流暢でなければ面目丸つぶれだろう。
「それで、急にどうしたんだ? こんな朝っぱらから」
『こっちはまだ夜よ――いえ、大した用事ではないんだけどね。昨日、フユコがあらためて、ワタシに電話で〝最高の家政夫を派遣してくれてありがとー!〟ってお礼を言ってきたから、クロウにも直接伝えてやろうと思ってね。フユコ、本当に心から感謝してたわよ』
「……そうか。それはなによりだ」
まだ数日も経っていない未熟すぎる家政夫だが、依頼人のその評価は素直にうれしい。
「フユコは、いまも海外で仕事中か?」
『そうじゃない? ワタシも、彼女の仕事内容ってよく知らないのよね。訊ねても教えてくれないし。クロウは知ってる?』
「いや、そういえば俺も知らされていないな……」
『やっぱり……以前、あまりにも気になるから、悪戯心で諜報部のツテを使って探ろうとしたのよね? そしたら、その数秒後にフユコから電話がかかってきてね。〝キャサリン、好奇心は猫を殺すんだよ?〟って怒られちゃった』
「……この話は、やめておこうか」
『賢明な判断ね。そうしましょう』
危ない橋は渡らない。
スパイの鉄則だ。
「さておき。キャサリンの用件はそれだけか? なら切るぞ」
『ちょ、ちょっと! 冷たいわね……せっかく国際電話かけてやってるんだから、もうすこしワタシの晩酌に付き合いなさいよ』
「俺を酒の
『当たり前でしょ? こんな飲んだくれたワタシの声を誰かにジャックさせるわけにはいかないもの』
「キャサリン。知ってるか? そういうのを『職権乱用』と言うんだぞ?」
『バレなきゃセーフよ――それよりさ』
強引に区切り、キャサリンは俺のことに話題を移してきた。
『家政夫業はどうなのよ? クロウって基本無愛想だから、ちゃんと三姉妹に馴染めてるのか心配だったのよね』
「ご心配どうも。まだ数日しか経っていないが、一応それなりにはやらせてもらっているよ」
『三姉妹に手、出したりしてないでしょうね?』
「……口は出したかもな」
物理的な意味で。
が。キャサリンにそんな含みが伝わるはずもなく。
『三姉妹に説教したってこと? アンタ、年頃の女の子にそれはアウトよ』
「だよな。俺も、いまさらながらにアウトだと思う」
『女の子がなにかしでかしたときは、頭ごなしに叱るんじゃなくてまずはフォローしてあげるのよ。羊の毛を刈るようにやさしくね』
「羊の毛を刈ったことがないからわからん」
『たとえ話よ――とにかく、叱るよりもフォローしてあげることが大事。仮に叱らなくちゃいけないような間違いを犯したら、叱ったあとにご褒美をあげるの。遊園地に連れていくのなんていいわね』
「遊園地ねえ……まあ、考えておこう」
『しかと熟考しておきなさい。怖い家政夫より、断然やさしい家政夫のほうが好まれるもの。叱るばっかの家政夫を雇うぐらいなら、意思のないリビングデッドでも雇ったほうが百倍マシだわ』
「――あ」
その、キャサリンの些細な比喩で、俺はとある男子高校生の存在を思い出した。
骨と皮だけの、まるで
『なに、どうしたの? クロウ』
「キャサリン、その……」
『? うん、なに?』
「……いや、すまない。なんでもない」
キャサリンに鈴木のことを話しかけて、俺は寸でのところで口をつぐむ。
鈴木は、怪しい、不気味だというだけで、いまはまだなにもしていない。
防犯のため、と言えば聞こえはいいけれど……ここで裏世界の諜報部の力を借りてしまうのは、家の中に監視カメラを設置するよりもやりすぎな行為だと思った。
スパイは、なにも情報を探るだけの存在ではない。
依頼人にとって対象が害悪だと知れれば、それを『
まあ。ありがたいというべきか、俺はまだその排除を経験したことはないのだけれど、怜悧冷徹なスパイはちがう。
罪のない男子高校生であれ、
そんな行き過ぎた過ちを、俺は犯したくはなかった。
「そう、小型カメラ! キャサリンに渡されたアレを、玄関先に設置させてもらってな。誰が帰ってきたかが一目でわかるようになったから、そのお礼を言おうとしたんだ」
『……そう』
俺の咄嗟の言い訳に、キャサリンは小さくそうつぶやくと、呆れたと言わんばかりのため息をひとつ。
トクトク……、と酒を注ぐ音を奏でながら、こう言ってきた。
『じゃあ、そのお礼のお返しに、元スパイのアンタにひとつだけアドバイスしてあげる。協力者を作りなさい』
「協力者?」
『協力者、エージェントのことよ。スパイはひとりではなにもできない。潜入するにしても、排除するにしても、エージェントの協力がなければワタシたちは無力なのよ――この鉄の掟、忘れたわけじゃないでしょ?』
「……ああ、そうだったな」
思わず苦笑する。
キャサリンは鈴木のことを知らない。けれど彼女は、俺の言動から諜報部を頼れない未然の問題を抱えていることを察し、遠回しにアドバイスしてくれたのだ。
そして、そのアドバイスの『種』を、俺はすでに実行済みだった。
あとは、その種をたしかな協力者として
「ありがとうな、キャサリン」
『どういたしまして――あーあ、お酒が切れたから買ってくるわ。それじゃあ、またね』
口早に言って、キャサリンはあっさりと電話を切ってしまった。
キャサリンの感謝を言われ慣れていないこんな態度も、やはり懐かしい。
口端を緩めたまま、スマホをスーツに仕舞う。
こちらに駆け寄ってくる夏海の声が聴こえたのは、そのすぐあとのことだった。
□
夏海と大学を出る頃には、スマホの時計は午前十時すぎを回っていた。
「さて、それじゃあ帰ろうか。行くぞ、夏海」
「あ、いや! ちょい待ってくれ!」
「どうした?」
「ま、まだ午前中だし、ちょっと駅前に寄っていかねえか?」
「駅前に?」
「ほら、スーツ以外の外着を持っておけば、みてえなこと言ってたじゃん。せっかく駅前近くに出てきたことだし、服屋でも見て回ろうぜ? ……ダメかな?」
隣を歩く夏海が、不安げな顔でこちらを覗き込んでくる。
俺を待たせていたのは、それが目的だったのか。
赤信号で歩みを止めた俺は、「ふむ」と両腕を束ねて。
「まあ、そうだな。家政夫という仕事柄、こうして遠出することも少ないしな。その案、採用させてもらおう」
「へへ、そうこなくっちゃ! んじゃあほら、早く行こうぜ!」
「お、おい! 急に走るな!」
青信号と同時に、俺の腕を引っ張って走り出す夏海。
その表情は、ひどくうれしそうなソレだった。
とまあ、そんなこんなで。
ふたりで服屋巡りを始めたわけだが、実際の中身としては夏海に連いて行くだけのショッピングとなってしまった。
理由は明白。俺にファッションセンスがないからだ。
店内に入って適当に服を見繕えば店員に苦笑いをされ、夏海にも「ダセえ……」と直球で言われてしまう始末。
自然、俺は夏海の着せ替え人形になるしかなかったのだった。
「うん、これだけ買えば春ぐらいまでは困らねえはずだぜ」
「……いま購入したコレは、ちゃんとダサくないやつか?」
「ダサくないダサくない。それはちゃんとカッコいいやつだから。落ち込まないで! ダセえとか言って悪かったよ!」
「別に落ち込んでいない。しかし……そうか、ダサくないのならよしとしよう」
そう言ってすこしだけ自慢げに胸を張ると、夏海が楽しそうに笑った。
そんな彼女の笑顔の背後。駅前広場の時計を見やれば、時刻はすでに正午すぎ。
空腹もそろそろ限界が近かった。
「さて。服を買ってしまって金もないから、ここはおとなしく家に帰るとしようか」
「だな、書店に寄り道してレシピ本も買っちまったみてえだし。それに、あたしにはお弁当っつー大切な昼飯があるしな」
「そういうことだ。では、早々に帰ろう。今日は風が強いせいでよく冷える」
明日で十一月を迎える叶画市の風は、真冬を思わせる冷たさだった。
スーツの襟元をただし、買い物袋を片手に家方面へ足を向ける。
そうして。五分ほど歩いた頃だろうか。
隣を歩く夏海が、どこか棒読み口調で、こんなことを言ってきた。
「そ、そういえば、あたしって冷え性なんだよなー」
「ほう、そうなのか。たしかに、女性は冷え性のひとが多いと聞いたことがあるな」
「だろ? ご多分に漏れずあたしもそうなんだけどさ……ほ、ほら、いまも手がこんな冷てえのよ。さ、触ってみ?」
「どれどれ」
顔の前に差し出された左手を、空いている右手でそっと触ってみる。
「ふむ。これはたしかに冷たい」
「だ、だろ? こうも冷たいと、色々と大変なんだよなー」
「だろうな。くれぐれも、あかぎれなどには注意することだ。この季節は乾燥もひどいしな」
「…………」
忠告して、俺は夏海の手を離すと、スーツの上着ポケットに右手を入れた。
夏海の冷たい手を触ったから、というわけではないけれど、なんだか俺の手まで冷たくなってきた気がする。
なんて。
そんなことを考えていた、その直後。
「あー、もう! この鈍感家政夫がッ!」
苛立ちまじりに叫んだかと思うと、夏海が自身の左手をズボッ! とこちらのスーツの上着ポケットに突っ込んできて、中で俺の右手を握ってきたのだった。
細く冷たい手が、俺の右手を鷲掴むように、あるいは
今日の作戦をネット検索を交えて立てているとき、あるサイトで目にした覚えがある。
この手の繋ぎ方は、恋人繋ぎと呼ばれるものだ、と。
「なッ……お、おい、夏海」
「う、うるせえ、うるせえ!」
耳を真っ赤にしながら、夏海は不貞腐れるようにつぶやく。
「に、握りたかったんだから、仕方ねえだろうが……」
……ああ、なるほど。
手が冷たい、と触らせてきたのは、手を握ってほしい合図だったのか。
女心はむずかしい。
「いや、まあ、手ぐらい別にかまわんが……」
「な、ならいいじゃんか……つべこべ言うな、バカ」
「しかし、いいのか?」
「? いいのかって、なにが?」
「大学構内ならまだしも、ここは公共の場だぞ? ほかの人間にまで、俺たちが恋人であると勘違いされてしまうのでは?」
「……あ、あたしは、それでもいいよ」
聞き取るのがむずかしいほどの小声でつぶやいて、夏海は恥ずかしそうにうつむいてしまった。
まあ、考えてみればそうか。
男たちはなにも大学内だけではない。こうした外の世界にも多く存在するのだ。
であれば、こうして恋人を装って牽制するのは、かなり有効的な手段かもしれない。
「そうか。夏海がそれでいいなら、よしとしよう」
「う、うん、よしとしてくれ……と、ところで、クロウにひとつ訊きてえことがあんだけど」
「なんだ?」
「昨日、あたしが『彼氏になってくれ』って頼んだときにクロウ、あたしたちが恋人同士になるには互いのことを知らなすぎる、もっと交流を深めた上で……って、言ってただろ?」
「ああ、言ったな」
「じ、じゃあ、交流を深めたら……クロウと恋人同士になれるの?」
祖父にプレゼントをねだる孫のような、期待に満ちた瞳でこちらを見上げてくる夏海。
ポケット内の手が、答えを求めるようにぎゅっ、と握られる。
俺は、その瞳から逃げるように、思わず顔をそらして。
「そ、それは、どうだろうな」
「な、なんだよ……男ならもっとハッキリしてくれよ」
「いまは答えられん。以上だ。さあ、寒いから早く帰ろう! そうしよう!」
無理やり話を切り上げて、俺はすこしだけ歩く速度を早めた。
慌てて小走りで追いかけてくる夏海が、繋いだ手をさらに強く握りしめながらつぶやく。
「へへ……照れてやんの」
うれしそうで、けれど、からかうような夏海の声音。
いつもの夏海とはちがう。
明らかに、グイグイ迫るようになってきている!
きっかけは、やはりあのキスなのだろうか?
「……んん!」
スパイは冷静沈着であることが肝要だ。
困惑を隠すように、俺は小さく咳払いを挟む。
先ほどまで冷たかった風は、いまでは俺の顔の火照りを冷ます冷却材になっていた。
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