07話 桜の教室に乗り込んだ。

 トートバッグに弁当箱を入れ、スーツの上着を颯爽と羽織ると、俺は家の駐車場に置いてあった自転車――別称ママチャリにまたがり、叶画高等学校目指してペダルを漕ぎだした。

 スーツでママチャリというのも、なんだかシュールな画である。

 このとき、すれ違う近所の奥様たちへの挨拶も忘れない――それは、葉咲家のイメージを下げないためでもあるし、元スパイとしての悪癖からでもあった。

 ……まあ、笑顔で挨拶するたび、奥様方がバタバタと倒れていくのが、すこし気がかりだったけれど。

 

 さておき。

 十月下旬の冷たい風を切り裂き、狭い住宅街の道路を抜けて、四車線の大道路へ。

 朝から多くの車がせわしなく往来していた。日本人は働き者だ。海外とちがって左側通行なのはその昔、侍たちが刀を左腰に帯刀していたから、というのは本当なのだろうか? 日本の歴史の中でも侍好き、特に忍者好きのひとりとしては、実に興味深い情報である。

 スパイというのはある意味、忍者の海外版みたいなところがあるしな。


「……っと、観光に来たわけではないんだった」

 

 大道路から視線を切り、いったん自転車を停車させると、俺はポケットから一枚のメモを取り出した。依頼書に記載されていた叶画高校の住所を、紙媒体にメモしてきたのだ。

 電柱に記されている番地によると、この大道路を東へ、道なりに向かえば到着するらしい。


「よし、待っていろ。桜」

 

 気合を入れなおし、俺は立ち漕ぎで自転車を走らせた。

 

 



 叶画高校の校舎が見えてきたのは、それから十五分ほど経ったあとのことだった。

 校門を抜けて、来賓用の駐輪場に自転車を停車。

 教員たちの下駄箱が置かれている昇降口に入り、来客専用窓口をコンコン、と叩いた。


「はいはい、どちら様で――、うへぇッ!?」

 

 なにかの書類に視線を落としていた事務員の女性が、俺の顔を見た途端、そんな変わった驚きの声をあげて目を見開いた。

 ……うん。女性の俺に対する反応は、もう気にしない方向でいこう。


「すみません。私、葉咲桜の家政夫で、お弁当を届けに来たのですが……桜のクラスがどこにあるか、わかりますでしょうか?」


「え、あ、ああ……『桜姫さくらひめ』さんのクラスですね」


「桜姫?」

 

 聞きなれない単語に思わず首をかしげると、事務員の女性は咳払いをして平常心を取り戻し、淡々と書類を用意しはじめた。


「葉咲桜さんのあだ名ですよ。彼女、ものすごい美少女だから、生徒たちの間でそう呼ばれているんです。妹の葉咲秋樹さんも『秋の令嬢』と呼ばれていて、ふたりそろって『叶画校の二大美女』、だなんて言われているんですよ」


「へえ……そうだったんですか」

 

 あれだけ綺麗な顔立ちをしていれば、有名人扱いされるのも無理はないか。

 もしかしたら夏海も、高校時代は同じようなあだ名をつけられていたのかもしれない。

 と。脳内で夏海のあだ名を推測していると、事務員の女性が申し訳なさそうに。


「あの、すみません。葉咲さんのクラスを教える前に、あなたの身分を証明するものをご提示願えますか? 来客者の身分は、こちらの書類に記入する決まりになっていまして……」


「ああ、そうですね。失礼しました」

 

 そう答えて、日本入国前にあらかじめ用意しておいた免許証を差し出す。

 コレも、もちろん偽造したものである。


「野宮クロウさん……はい、確認しました。ありがとうございます――それで、桜さんの家政夫ということですけど、それを証明するものは持っていますでしょうか?」


「残念ながら。私が家政夫になったのが、つい昨日の話でして……ただ、母の葉咲冬子さんに電話でご確認いただければ、私が家政夫であることは証明できるかと思います」


「ああ、あの元気なお母さまですね?」

 

 事務的な態度を一変。ひどく朗らかなソレに変える事務員さん。

 冬子と何度か面識があるようだ。

 もしかしたら、過去に冬子が俺と同じように弁当を届けに来たことがあるのかもしれない。


「それだったら安心ですね。ただ、これも決まりになっていますので、あとでお母さまに確認のお電話をさせていただく形にはなりますが……」


「ええ、それでかまいません。すみません、お手数おかけしてしまって」


「とんでもないです。それで、桜さんのクラスなんですが、2ーAになりますね。この本校舎の二階になります」


「二階の2ーAですね。わかりました」

 

 ありがとうございます、と感謝を述べたのち、事務員さんから免許証を受け取って、革靴を脱いで校舎内に踏み入る。

 すると。事務員さんが慌てた様子で窓口の窓から顔を出してきた。


「あ、あの! お弁当はこちらで預かる決まりなんですが……!」


「すみません。自慢のお弁当なんで、直接渡してあげたいんです――それじゃあ!」

 

 半ば強引に告げて、階段に向かって走り始める俺。

 これも不法侵入に当たるのだろうか? いや、でも身分は確認してもらったし大丈夫だろう。

 大丈夫であることを信じて階段を昇り、程なくして二階に出た。


(……授業中のようだな)

 

 長く一直線に伸びた静かな廊下を、靴下のまま忍び足で歩いていく。

 自分が昇ったのは二階の2ーF側……つまりは目的地の真逆だったようで、2ーAにたどり着くまでにすこしだけかかってしまった。


(ここか)

 

 2ーAの表札がついていることを確認し、教室前方の扉から中を覗き込んでみる。

 教師の言葉を聞きながら、真剣に板書している者、寝ている者、スマホをイジっている者、呆けている者……様々な生徒が一堂に会していた。

 

 そんな中で、ひときわ存在感を放っている生徒がいた。

 誰でもない――葉咲桜だ。

 

 なにか特別なことをしていたわけではない。ほかの生徒と同じように、真面目にペンを走らせているだけなのだが……その完成されすぎた美貌が、この集団の中である種の異物となってしまっていた。


(……これは、すこし認識をあらためる必要がありそうだ)

 

 モテまくる容姿であることは、三姉妹を一目見たときから気づいていた。

 だが、事務員さんの話やこの『浮き』具合を見るに、どうやらそんな低次元の話ではないらしい。

 

 これは――最悪、事件に巻き込まれるレベルだ。

 

 おかしな男に近寄られるどころか、それこそ本物の暴漢やストーカーに襲われる可能性だってある。


(本気で、家に監視カメラを設置する必要があるかもな……)

 

 そんな風に、真剣に今後のことを考えていた、そのとき。

 ふと。黒板に向いていた桜の視線が、ついと前方の扉外、俺のほうに向けられた。

 瞬間。大きく目を見開いて、口を押さえる桜。

 驚きの声がもれそうになったのだろう。

 見つかってしまったのなら仕方ない。

 

 俺は観念して、目の前の扉をガラガラ、と躊躇なく開いた。


「失礼するぞ」

 

 開けた瞬間。チョークを手にしていた女教師が、そして机に座る生徒たち全員が、ポカン、と呆気に取られたような表情で硬直した。


「桜。お弁当を届けに来てや――」

 

 直後。

 俺の声は、女生徒たちの悲鳴めいた黄色い絶叫にかき消された。


「やばっ、なにあのイケメン!」「ちょーカッコいいんですけど!!」「あれ、芸能人のあの人に似てない!?」「スタイルよすぎじゃない!?」「うわ、マジで引くぐらい美形なんだけど!!」

 

 先ほどまでの静けさはどこへやら。

 こちらを見つめながら、女生徒たちが口々に俺への評価を話し始める。

 ……大丈夫。俺はもう、女性の反応を気にしないことにしたんだ。

 固い決意を胸に、俺はそっと歩を進め、いまだ唖然とした表情をしている桜の席に向かった。

 トートバッグの中から弁当箱を取り出し、机の上に置いてやる。


「ほら、お弁当。朝渡そうとしたのに出て行ってしまうから、届けに来てやったぞ」


「あ、ありがとう……って、バカッ!! そんなこと言ったら――」


「――ええぇぇッ!? あのふたり、どういう関係なのッ!?」

 

 慌てる桜をよそに、またも湧き上がる女性オーディエンス。

 先ほどまでどこか冷めた目で俺を見ていた男子生徒たちも、この話題には興味があるようで、しかとこちらに視線を向けてきていた。

 おそらく、陰ながら桜に好意を寄せている男子たちなのだろう。


「俺と桜が、どういう関係か、か……」

 

 家政夫を依頼してきたのは冬子だが、現在の実質的な雇い主は三姉妹ということになる。

 三姉妹に家政夫として雇われている、いまのこの関係を言い表すのなら……。

 うん。この言葉がもっとも適切だ。

 俺は桜の頭にポン、と手を乗せると、周囲の生徒たちに向けて、こう告げた。


「俺と桜は、良き(ビジネス)パートナーの関係だ」


「は、はあぁッ!?」

 

 ボッ、と頬を赤らめて動揺する桜。

 周りの女生徒たちによる、教室が揺れんばかりの大絶叫が響いたのは、その直後のことだった。

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