竜の居ない洞窟(10)

 出立を明日に定めたのはいいものの、昨日は早くに眠ってしまったからか、目が冴えてしまってなかなか寝付くことが出来なかった。ほんの少し、意識が深淵に沈んでも、気が付けばが開いている。そんなことを何度か繰り返していた夜中のことだった。


 ふと部屋を見渡すと、彼女の姿は部屋になかった。夕食を食べ終えたのもそこそこに、横になっていたはずだった。


「……持て余して散歩にでも行っているのかしら」


 ダークエルフはエルフやヒューマンと比べて生活リズムが百八十度逆さま、しっかり睡眠をとったとはいえ日中の活動が堪えてしまったのだろう。……それに、床で寝たから熟睡できなかったのかもしれない。

「……申し訳ないわね」。ほとんど無意識に零れてしまった言葉は、寂しく響いて、窓の向こうの月夜に消えた。


 ふと、思ったことがあった。

 人間の世界――街が眠ると動きだし、起きると今度は活動をやめるダークエルフ。彼らにとっての世界とは、今カフェトランが見て居る窓の向こうの景色ということである。


 人は歩いておらず、灯りは殆ど消え、街ならば酔っ払いの怒号がたまに聞こえる、死んでいて、そしてとても綺麗ではない部分が活発化しているこの世界が、彼らにとっての当たり前なのである。


 確かに、夜は落ち着く。月が輝き星の煌めく夜空は、綺麗である。たまにはぼんやりと夜空を見上げながら物思いにふけりたい時もある。だけれどそれは、自分が光の下の住民だからである――“血脈”である自分は決して明るい存在ではないけれど、太陽と共に生きる人間ではある。


 彼らは――ダークエルフは――丸焼きは、この世界がどう見えているんだろう。

 暗くて、だから数少ない光が際立った闇夜を、どう考えているのだろう。何も考えていないのだろうか。きっとそうなんだろうな。私は太陽と共に生きている、なんて考えたけれど、普段はそんな事思いもしないんだから。

 太陽だなんて、朝と夜を判別するための符号、それ以上でもそれ以下でもないのだから。


 広がる景色を反射するだけになっていたエルフらしい吊り上った瞳が、唐突に光を捉えて、その眩しさにぎゅっと細まった。しかしその光は小さく弱々しいもので、なんてことはない、夜の村で誰かがランタンをともしただけだった。

 丸焼きかしらん、と一瞬思うが、彼女の夜目は灯りを必要としないので、村の人間だと分かる。


 こんな夜中に一体何だろうとその光を見て居ると、ぽつ、ぽつと光は増え、四人の男の姿が浮かび上がった。その中にはあの司教――ヤリニケラと思しきローブの姿もある。


 そういえば、この村に最初にたどり着いた時に、夜中にも関わらず灯りの灯った家屋が会ったことを思い出す。男たちをつれてどこかに向かって歩いていくヤリニケラの姿を見て、あれは竜教にまつわることだったんだな、と納得した。


 彼らの姿が完全に窓枠の外側に消えたところで、ぎし、という木の軋むような音をカフェトランの敏感な耳が捉えた。後ろだった。「……起こしたか」。続いて扉を開く音が聞こえると、丸焼きが申し訳なさそうに言った。


「いや……。そもそもあまり眠れなくて」


「そうだったか」


「ええ」


 丸焼きはカフェトランの隣、ベッドの端に腰を下ろすと、「散歩をしてた」と言った。「結構歩いたよ。だめだな、一人旅で黙々と歩く事に慣れてると、いつの間にかどこまででも行ってしまう」


「……どこまで歩いたの?」


「どこかの山。岸壁がんぺきが大きくへこんでて、面白いなと思って入って見たら洞窟だった」


「はあ、洞窟ね……」


 一人で冒険をしてきた丸焼きは、雑嚢ざつのうの中から小瓶を取り出した。中には干し草のような、細かく刻まれた植物の葉と思しきものが入っていた。

 続いて取り出したのは皮製のケース。手首から中指の先程度の大きさ。それから出て来たのは、パイプ煙草だった。


 ということは、瓶の中身はシャグ(刻んだ煙草葉)だろう。彼女は瓶の蓋を開けると、シャグをパイプに詰めた。「吸っていいか?」とこちらを見ずに訊ねる。「嫌なら外で吸うが」。


「いや……大丈夫よ」


「ありがとう」


 遅れて、独特な煙草のにおいがカフェトランの鼻に触れた。おおよそは普通の煙草と同じだが、その中に交ざって――例えるのなら、香辛料のような癖の強い刺激臭と、カビのようにくすんでいるのにツンとする、すえたにおいとが混ざっている。


「これは“丸焼き”という名前を付けたやつに教えてもらったんだ。眠気と疲れが取れて、気持ちが落ち着く。……魔法は使える?」


「い、いや、使えないけど……」


「だよな。了解」


 丸焼きは上着を脱いでベッドの上に伸ばすと、その上に乾いたパンを細かくちぎって置いた。そして火打石を二度、三度打ち鳴らすと、火花がパンくずの上に落ちて小さな種火が生まれた。

 彼女はそこに息を吹きかけ、火を必要最低限の大きさにしてから、付け木――薄くそいだ木の棒に火を移す。そうしてから、着火した付け木を使ってパイプに火を付けた。


 屋内で躊躇ためらいなく火を起こす彼女とその手際の良さに、呆れと関心が半分ずつ。ちなみにそれらの道具も彼女の鞄からするすると出てきたものである。


「お前もやるか?」という彼女の誘いを、カフェトランは首を振って断った。


 エルフは基本的に強いにおいを嫌う。これは種族としての生まれながらの特性ではなく、狩猟民族としての生活に由来する。


 煙草の煙のような強いにおいが身体に染みついてしまえば、人間よりも数段鼻の良い獣たちを相手にできなくなってしまうのだ。

 だからエルフは狩猟以外では強いにおいの出るものに関わろうとはせず、こういったものがあまり得意ではない。カフェトランは窓を開けると、新鮮で清潔な空気を肺いっぱいに取り込んだ。


「……苦手ならそう言ってくれれば外で吸ったのに」


「ここまでにおいが強いとは思わなかったのよ……」


 丸焼きは革の上着を丸め火を消して外に捨てると、足を投げ出しベッドに座った。口ではそう言いつつも、今更外に出ようという気は無いようだった。


 エルフの世界にも煙草が無い訳ではない。

 狩りの最中に集中力を研ぎ澄ませるために、覚醒効果のあるものを愛用している者もいる。だけれどにおいの強くない薬草を使ったり葉をあまり発酵させなかったり、あるいは噛み煙草や嗅ぎ煙草など煙の出ない方法で使用したりなど、とにかくにおいが染みつかないような様々な工夫を施している。


 それに対して彼女がくゆらせている紫煙は、カフェトランが今まで嗅いできた中で最も強烈なものだった――こんなところまで真逆なのかと、何だか少しおかしくて、思わず笑ってしまった。


「今まで吸わなかったのは、あたしに気を遣ってたから?」


 窓の外に顔を出して、カフェトランは訊ねた。「いいや」。視界の端で首を振っているのが見えた。


「愛煙してたら身体からにおうだろ。眠いけど動かなきゃいけない時、疲れた時、落ち着きたい時に、あくまで道具として使うだけだよ」


「えーと、じゃあ……今は疲れた時?」


「私はいくら歩いても疲れないよ。だから、ちょっと、落ち着いて考えを纏めたいんだ」


「はあ……」


 核心的なことを避けた遠回りな言葉は、端的な物言いを好む彼女らしくなかった。

 一体何について考えることがあるのだろう? ……洞窟? そういえば、洞窟の中には何があったのだろう? 何もなかった? 途中で引き返した?


 カフェトランが頭の上にいくつもの疑問符を浮かべていても、丸焼きはそんな事は視界に入っていないという風に、パイプからぷかぷかと煙を立ち上らせていた。

 きつい煙草のにおいにもようやく慣れてきた頃には、もうシャグが燃え尽きる寸前だった。彼女は火種同様に吸殻を窓から捨てると、ようやっと口を開いた。「鳴き声が聞こえた」


「……人じゃなくて、動物の遠吠えとかの、鳴き声?」


「そうだ。洞窟の中から、聞こえた。あれはおそらく――ワイバーンのものだったと思う」

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