竜の居ない洞窟(7)

 かぁん、と。

 闇の中から金属がぶつかるような音が反響した。咄嗟とっさにナイフを身構える、もちろん引け腰で。しかし、カフェトランの手にはなんの感触もない。なんてことはない、その音は、取り落としたナイフのものだった。


「ひ、拾わないと……」


 ナイフは階段を滑り落ちてはおらず、幸いなことに二段下にあった。闇の中に身を投じずとも、一段降りて、そして屈めば、十分手が届く。

 だけれどやはり、彼女の脚は、階段を下りることは出来なかった。引け腰で、何も握っていないにもかかわらずナイフを扱うように手を構えて、階段を睨みつけ、しかしその表情は泣きそうで。


 そんな滑稽な様子で、カフェトランは立ち尽くしていた。階段を満たしている闇は、カフェトランを飲みこまんと広げられた口であり、また彼女の全てを見透かす瞳でもあり、そして心を映し出している鏡だった。


 ……光。おもむろに闇が消え去った。階段の中で光が生まれ、カフェトランの顔を照らした。「……どうしたんだよ、カフェトラン」。光の中に立っていたのは、灰色の肌を持つ闇のエルフだった。

 大丈夫か、と首を捻る彼女の手から下げられていたのは、ランタンだ。


「あっ、いや、あたし…………」


「ああ」


「……あたし、その…………」


「……ふうん」


 はっきりとした言葉を発しないカフェトランを見て何かを察したのか、それとも無関心が故にまごついているのをわずらわしく感じたのか、ともかく彼女はカフェトランの唇の動きに意識を向けるのをやめ、階段を昇るとナイフを拾い上げた。


「ほら、これ。……得物を取り落とすなんて気を付けろよ」


「あ、ああ、うん、そうね……。ありがとう」


 刃の腹を指でつまんで差し出されたナイフ。カフェトランは目を瞑り、ふうっと息を吐いてから手を伸ばした。身体の震えだけは知られたくないと思い、それを落ち着けようと思ったからだ。

 しかし気持ちを落ち着かせるまでもなく、カフェトランの震えはとうに収まっていた。脚を軽く持ち上げる。当然のように、それは動いた。


 受け取ったナイフの銀に映っている自分の顔を見る。入れ墨の走った、ただの顔。険しくもない、泣きそうでもない、強いて言えば少々呆けている、普通の顔。丸焼きの手の油が付いて、少し曇っている。


 一連のカフェトランの様子を見て丸焼きは「……おかしなやつだな」と呟いたが、特に事情を聞くこともしなかった。出会ってからずっとそうだったが、彼女はカフェトランが話す以上のことを訊ねようとしない。その距離感が、無関心が、今は少しだけ嬉しかった。……いや、でも、聞いて欲しい気もした。


 本当は話したくはないけれど彼女に聞かれたからしかたなく、というで、全てを吐き出したいような気持ちもある。取りつくろった気丈きじょうな自分を脱ぎ捨てて、弱くて柔らかい部分をさらけ出したいような気もする。どうなんだろう、どうしたいんだろう。よく分からない。


 ……結局カフェトランは「悪かったわね」とだけ呟いて、指紋を拭ってからナイフを鞘に戻した。


「腐敗臭を嗅ぎ取ったから武器を構えたんだろうが……」


 丸焼きは階段を昇り切ってカフェトランの隣に並ぶと、ランタンを顔の横に持ち上げて見せた。黄ばんだガラスの向こう側で、小さなほむらが揺らめいた。

 すると、先程も感じた生臭い腐敗臭がむわっと広がり、カフェトランの鼻腔びこうに触れた。


 もしかしてこの臭いは……。カフェトランが察するのと同時に、丸焼きが言った。


「このランタンの燃料である魚油のにおいだ。暗いからこれを使って降りろってことなんだろう、階段の壁にぶら下がってたよ」


 ちょっと、灯りをともすのに手こずったがな。彼女は少し恥ずかしそうに苦笑を浮かべて、階段の中をランタンで照らす。なるほど、途中の壁にランタンを吊り下げるようなフックがあるのが目に入った。


「……でも、よく見えたわね」


 早とちりしてしまった恥ずかしさを押し隠すようにカフェトランが言うと、「闇の種族は夜目が聞くからな」と、つまらなそうに彼女は答えた。


「よし、じゃあ行こう。私が前を行くから、灯りはお前が持ってくれ」


「勿論それは構わないけど……普通、前を行く方が照らすものじゃない?」


「私たちは逆に、強い灯りが近くにあると見え辛いんだ。お前が後ろでランタンを持ってれば、私は眩しくないだろう」


「なるほど……」


 階段の踊り場に差し掛かったところで一度、丸焼きは目を細めながら後ろを振り向いた。「私のペースに合わせなくていいからな。ゆっくり、足を踏み外さない調子で降りればいい」。そう言うと、すいすいと階段を下って行ってしまった。




*




 これまた味気ない木の扉を押し上げる。二人が出たのは昨晩泊まった宿を二つ縦に並べたような細長い空間だった。左右の壁には等間隔で燭台に火がともされ、この部屋を頼りない灯りで照らしている。


「祭壇って……これのことね」


 部屋の奥には石の台座があり、その上ではカフェトランの身体と同じ程の大きさの、竜を模したと思われる石像が大きな口を開けている。


 模したと思われる、というのは、その石像は石工や彫刻家が手掛けたような精巧せいこうなものではなく、素人が使い慣れてない道具を使って、情熱とそれ以上の時間を以って少しずつ岩を削って作り上げたような――根も葉もないようなことを言ってしまえば、かなり不格好なものだったからである。


 全体の輪郭りんかくはかなり歪で、目の位置も左右対称ではない。顎の下には棘のような部位が見えるが、これも意図して象ったものなのかも分からない。蜥蜴とかげのような身体に一対の翼は、なるほど、カフェトランでも聞いたことのあった竜の特徴だが、それ以上の竜の詳細なことは、この石像からは分からなかった。


 石像以外には捧げものと思われる燻製肉や花がある程度。祭壇と言うくらいだからどんなものかと期待していたが、どうやらこの石像を簡易的に祀った程度のささやかなものだったらしい。落胆はしないが、少々拍子抜けだった。


「まあ、こんなものだろうな」


 カフェトランと違い丸焼きにとっては想定通りだったようで、腕を組みながら石像に向かって歩み寄る。彼女のブーツの足跡が、狭い地下空間ではやたら響いた。


 そしてその時、祭壇の陰からぬっと人影が現れ、石像の前に立った。「……村人以外でここに訪れるなんて、珍しい」。スミレ色のローブを被った如何にも宗教家といった出で立ちの大男で、浅黒い褐色の肌をしていた。虎のような鋭い目で二人を見ていた。


「それに……それに、それ以外にも珍しい。……いや、失礼、種族のことについてあれこれ言うのも野暮ですね。だって私は竜を――人でも神でもない存在を崇めているのですから」


 大男は一人でぼそぼそと言葉を続け、丸焼きはぎょっとして足を止める。勿論カフェトランも、彼女と同じ表情を浮かべていた。


 ……男は一人問答に納得がいったのか、うん、うんと満足そうに頷くと、おもむろにローブのフードを剥ぎ取った。先刻の鋭い視線はすっかり消え失せて、目じりに皺を作った柔和な笑みと黒色の短髪が現れる。


「アラルナ村の祭壇へようこそ。我々は異教徒でも異種族でも歓迎いたしますよ」


 彼は身体通りの大きな手を丸焼きに向けて伸ばす。「……ああ、よろしく」。にこりと笑う彼と違って、丸焼きはあくまで無愛想に手を握り返した。それでも大男は不機嫌に眉一つ動かすことなく、笑顔のままだった。

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