竜の居ない洞窟(5)

 そして目が覚めたのは昼ごろだった。夢は見なかった、と思う。見たとしても、彼女の記憶には一切残っていなかった。目を擦りながら身体を起こすと、髪を梳かしている丸焼きの姿が目に入った。


「ん、おはよう、カフェトラン」


「おはよう……」


 簡単な挨拶を交わすと、丸焼きが何かを放り投げた。危なげなくそれを受け取ると、重い水筒。続いて投げたのは黒パンだった。丸焼きは食べろ、とも、食べていい、とも言わず、「さっき宿屋の主人に聞いたんだが」と別な話題を切り出した。


「この村は竜を崇めているらしい。どうも村人全員が信者らしい」


「竜教、ね……」カフェトランは黒パンを齧って、その名前を反復した。「竜の信者なんて、まあ、珍しくもなんともないわね」


「ああ」丸焼きも、それに短く同意した。


 竜。決して死なない、あらゆる言葉を解し、人知を超えた圧倒的な知性を持つ生物。しかし生殖で数を増やすこともなく、世界に大きく干渉することもない。世界に数頭しか存在しない彼らは、その絶対的な力を行使することも誇示こじすることもなく、辺境の地でただただ静かに生きていた。


 その有様から、神の使いだとか、または世界を見届け時に、その流れを矯正する観測者かんそくしゃだとか、様々な解釈が生まれ――そしてそれを神と同等のものと見做し崇めるのが竜教と呼ばれる宗教である。

 ただ、彼らを畏れ敬い崇めるという心理は、宗教とまではいかなくとも至って普通の考えである。カフェトランも、それは例外ではなかった。


「この村はどうやら中々に熱狂的な信者たちらしくてね、村の外れには祭壇さいだんも存在するらしい。よければ見てきてはどうだ、なんて勧められたよ」


「祭壇?」


「ああ。まだ見に行ってないけどね。昨晩の夜中に灯りが点いていたのも、竜教に関することなんじゃないかと考えてるよ」


「それは――なかなかどうして、珍しいわね」


「ああ」やはり、短く同意した。


 竜教が神を崇める他の宗教の決定的に異なる点は、その信仰対象が肉体を以って地上に存在している、という点である。現実に存在しているという点である。

 だから竜の熱心な信仰者は、竜の住まう土地に根を下ろすのだ。その為に竜の所在地は極めて険しい環境にもかかわらず、結構な規模の都市が築かれている。


 この村の者たちは祭壇を建設する程の熱心な信仰者なのに、竜にゆかりの無いと思われる土地で彼らを崇めている、というのは少々違和感を感じる話だった。


 まあ……そういうことも、ない訳ではないのだろう。竜を崇めてはいるがこの土地も同じくらい大事に思っている、だとか、カフェトラン達が知らないだけでこの土地も竜に関係のある、とか……。


「気になる?」


 思考を働かせているカフェトランの表情を覗き見ながら、丸焼きが訊ねた。


「……まあ、そりゃあね」


 どうしても知りたいという訳ではないが――気にならないと言えば、嘘になる。


「祭壇、見に行ってみるか」


「……ええ」


「じゃあさっさとパンを胃に押し込んで、支度を済ませな。髪の毛、随分ぼさぼさだ」


 言われて、カフェトランは自分の髪に手を伸ばした。ごわごわとした塊が、あちらこちらへと跳ねていた。

 毛が太く癖の強い彼女の赤毛は、油断すると直ぐにこうなってしまう。カフェトランは残っていた自分の僅かな荷物の中から櫛を取り出して、頑固な髪の毛を伸ばし始めた。


 ……ふと、右目の下に指を触れた。

 触っても何ら変わった感触はない。少しだけざらざらしているような気もするが、多分気のせいだ。そこには、入れ墨が刻まれているはずだった。右目の下から左目までを繋ぐ、一直線の黒い入れ墨。


 顔に刻んだその刻印は、昔はなかったものだった。……血脈のエルフブラッドエルフとして生きたカフェトランは多くの仲間を得て、そしてすぐに失うことになった。何のために生き延びているのかも分からなくなるような逃亡生活に身をやつすことになるその少し前に、この入れ墨を刻んだのだった。


 それは、くまを隠す為である。

 ……仲間を失った彼女は、実の妹が目を疑ってしまうほど、その顔は老け込み、変わってしまった。生気は消え失せ、皺が刻まれ、肌は割れ……やがてそれは回復したものの、目の下にしかと掘り込まれた隈だけは、どうしても消えなかった。それを上塗りしたのである。


 隈を隠したのは、それが恥だから、という訳ではない。

 ただ自分の情けない姿を、死んでいった仲間に見せたくなかったからだった。

 絶望によって生まれた隈も、そしてこれから流す涙も。


 たまに、聞こえることがある。それは声。何故隠すんだ。それはおれたちだ。おれたちの死が刻まれているんだ。恨みの籠った、怨嗟の声。なのにどうして消すんだ。どうして見えないようにするんだ。どうして殺したんだ。どうして生きているんだ。


 ――っ!


 鋭い痛みが走り、カフェトランは弾かれるようにして手を離した。右目の下が、熱い。そこから生ぬるい液が垂れ、涙のように頬を汚す。爪は血に汚れていた。

 入れ墨の上だからこの傷は分かり辛いだろう。血を拭い取ると、もう一度入れ墨を撫でた。

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