人魚姫(4)
翌日。やはりそこには二人の姿があった。
水棲種族の彼女は気持ちよさそうに池を泳ぎ回り、旅人は彼女の動きを目で追っていた。
旅人の装いは、昨日までとは異なっていた。昨日までは蛇や虫対策の袖の長い厚着だったが、今日は機動性を重視したような、身軽な装いだった。傍らに置かれた荷物類の中にも大きな背嚢はなく、腰に着ける雑嚢と得物の弓矢だけだった。
「……」
長い脚を、まるで別の生き物のようになだらかに動かして泳ぐ彼女を目で追う。旅人の顔に、僅かな緊張が浮かんでいた。そして恐怖も窺える。……昨日のように旅人を誘おうと振り返った少女がそれに気付き、首を傾げながら旅人の傍へと寄って来た。
「あっ……すみません、気を遣わせちゃいましたかね」
「うぅ……?」
少女は旅人の顔を覗き込んだ。「あやぁ」。もちろんその言葉の意味は分からない、だのに旅人は「ありがとうございます」と頷くと、ぽつりぽつりと、心情を吐露しはじめた。
「……サイクロプスの痕跡を見つけて……おおよその縄張りが分かったんです」
黙って、真剣な表情で、時折心配そうに眉をひそめ、少女はその言葉を聞いていた。
「わたし、どうしてもあいつが苦手なんですよね……。きっとトラウマなんです。小っちゃい頃、襲われた事があったから……」
「……」
「もう平気だと思って……平気にならなきゃいけないと思って、吹っ切れるために依頼を受けたんですが……その姿に近づくにつれて、どんどん怖くなっちゃって……。あなたに話しかけたのも、多分、ううん、きっと、ちょっとでも逃避したかったから……」
「あわぁ!」
旅人の言葉が沈みきると、少女は場違いな程に明るく声を張り上げた。「うぁやあ――」と何かを言いかけ――そこで言葉を切って、切なそうに俯いてしまった。
「……どうしましたか?」
「あ、うあ……」
そして少女は岩の上に昇り、旅人の口を指さした。
「口?」
「う、い……?」
「……?」
「く、ひぃ……」
旅人の口を指さし、頷く。自分の口を指さし、目を瞑り首を振る。
「……言葉?」
私は、言葉が、喋れない――そう言いたいのか?
旅人は考えた。
「お、と、わぁ」彼女は旅人の発した“音”を真似る。「こ、お、は……」
「ことば……?」
「こと、わ……?」
「ことば」
「こ、と、ば……」
何とか彼女はそう言い切って、またもや首を振った。「ことば」。首を振る。「ことば」。首を振る。それを何回か繰り返して――そして旅人の頭に手を伸ばし、撫でた。先日の旅人の真似だった。
「……慰めてくれてるんですか?」
彼女は旅人の新しい“ことば”に首を捻ったが、にこっと笑って頷いた。「う」
「……ありがとう、ございます」
そして旅人も、彼女の頭を撫で返した。嬉しそうに笑って見せた。
――箪笥を引きずる時のような、耳障りな空気の振動が聞こえたのはその時のことだった。
「……っ!」
途端に旅人は険しい顔になる。音の発生源を探るように目を瞑り、耳に意識を集中させた。この音――声は知っている。知識も経験もあった。旅人が今その姿追っている怪物のものだった。
ほどなくして旅人は驚愕に目を見開いた。その音の発信源が――旅人があたりを付けていたサイクロプスの縄張りから随分と離れていたからだった――随分と、この池から近い場所だったからだ。
「う、うあぁ……?」
彼女も表情をこわばらせるが、それ以上に旅人を心配しているようだった。旅人から発せられる恐怖のにおいを、敏感に感じ取ったのだ。
「あっ……ありがとう、ございます」
「ううあ」
彼女は元気づけるように歯を見せて笑うと、傍に置いてあった旅人の荷物を持って手渡した。「もう行くんでしょ?」と言いたげだった。旅人は、それを肯定するように頷いて見せた。
「ありがとうございます」荷物を背負いながら、旅人は改めて感謝の言葉を口にした。「気を付けてくださいね」
「あう」
「じゃあ、また、きっと来ます」
「う」
彼女は手を振った。旅人は手を振りかえすと、身を翻しながら弓を手に取った。その表情にはもう怯えの見えない――怯えを感じていても感じさせない、冷静な狩人の顔つきだった。
*
翌日。
池には、旅人の姿はなかった。
水棲種族の彼女は退屈そうに、岩のへりに座って、退屈そうに水につけた脚を動かしていた。
時折、茂みの方から音がする。はっとそちらに首を向けるが、鳥だったり、風だったり、ただの気のせいだったり。その度に大きなため息を吐き出して、再び退屈そうに足を動かした。
さらに翌日。
池は、荒れていた。一晩のうちに、随分と荒らされていた。木々はなぎ倒され、土は掘り返され、池の水は、目に見えてかさが減っていた。
そこには、誰もいなかった――旅人も、彼女の姿もなかった。
それから、次の日、更に次の日も、そこに人はいなかった。
もう、人はいなかった。
*
ある日のことだった。荒れた池に時間だけが流れ続けたある日のことだった。
池の傍に、誰かの荷物が置かれている。使いこまれた弓、矢筒、丸めるようにして脱ぎ捨てられた血まみれの衣類。そして腰に取り付ける背嚢、かなり大きな雑嚢と――それに紐で括りつけられた、人の手、だった。
いや、よくよく見れば、それは人間のものではなかった。石灰色の肌色は一見トロルのようではあるが、大きさが明らかに違う。人間の頭なんて容易に握りつぶしてしまえるほどの大きさ――巨大さだった。
まとめて山積みにするように置かれた荷物類の隣に、もう一つ、今までこの池になかったものが現れていた。それは手ごろな大きさの木の枝を、皮を剥ぎ、表面を平らに削って、深く地面に突き刺したもの――簡易的な墓標に見えた。平らに削られた表面には共通言語ではない言葉(おそらくエルフ語と思われる)が彫られていた。
そして――思わず見落としてしまいそうになるほど静かに、そして自然に、池の上にあおむけで寝そべる旅人の姿があった。ほとんど裸の姿を、他に人がいないとはいえ恥ずかしげもなくさらけ出している。銀髪の彫刻のような編み込みは所々がほつれていて、血がこびりついていた。
旅人は殆ど身動きをせず、唇の間にわずかに隙間を開け、身体の動かし方を忘れてしまったかのように指先まで脱力していた。しかし目だけは、差し込む木漏れ日に眩しそうに細めたり、それが雲で隠れると空や茂る枝葉を見つめたり、かと思えばじっと目を瞑ったり、今度は池の周囲の木々を眺めたりと、忙しなく動き続けていた。
「……ここから、何を見ていたんだろう」
唇も舌もほとんど動かさずに、旅人の開いた口の隙間から、言葉がこぼれた。
「ずっと、何を見て、何を思ったんだろう。最期に何を見て、何を思ったんだろう」
ゆっくりと、しかし力任せに、髪の編み込みをほどくと、目を瞑る。
「わたしなら、何を見て、何を思ったんだろう」
それだけだった。それ以上旅人は何も言わず、何もせず、日が暮れるまで、眠るようにして浮かんでいた。旅人の長い銀髪が、まるで魚の尾のように、水面を揺蕩っていた。
【人魚姫・完】
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