人魚姫(3)

 翌日、その池にはまた旅人の姿があった。

 昨日と同じように少女と旅人、岩の上に並んで腰を下ろしている。だけれど旅人の様子は昨日とはずいぶん異なっていた。

 ……。


 旅人は険しい表情で少女の顔を見つめながら――右手に握ったナイフを、少女の首元に突き付けていた。


「……あうぁあ」


 対して彼女は、抵抗するでもなく、恐怖するでもなく――旅人を見つめ返し、笑っていた。何をされようとしているのか、その先に自分がどうなるのか分かっていない……という訳ではなかった。


 ナイフの銀の反射した幼さと無邪気さに溢れた両目の奥は、どこか達観したように、全てを俯瞰したように、しんと澄んでいた。死の恐怖を理解していないというより自らの生死に頓着が無いように見えた。しかしそれも正しくない――蟻がうろついているのを知っていながらその傍を歩くときのように、市場の軒先で乾かされている干物を眺める時のように、つまり普段は意識しないけれども日常に溢れている生物の死、自分の命までもがその枠組みに収められているようだった。


 旅人と少女はしばらくの間そうして見つめ合っていたが――「……すみませんでした」、そう言って旅人はナイフをおろし、申し訳なさそうに目を伏せた。水棲種族の彼女は、旅人が自分を殺さなかったことを疑問に感じながらも、これまでと同じように微笑んで見せた。


「水棲種族というのは、本当に、死生観がこんなにも異なるんですね……」


 俯いた旅人の視線の先には、開かれて置かれた本があった。図鑑のように分厚いその想定は、図書館の奥の古ぼけた本棚に収められているのが似合っているようだった。


 それは『怪物図鑑』という題で、世界中の怪物についての記述がなされた図鑑である。しかしもともと筆者の趣味のようなものとして書かれた本なので、怪物以外にも少数種族や普通の動植物についての記述もあり、今開かれているページも水棲種族に関して解説しているものだった。


 怪物図鑑曰く、


『水棲種族は死を恐れない。死の恐怖を知らないのではなく、死を許容する。知能が低いというのも、理由の一つだろう。だが私は、彼らに宿る魚の遺伝子がそうさせるのだと考える。人間とは異なり、無数の卵を産み付け、そのほとんどが他の魚の食料として“消費”される、生と死で満ちた魚の価値観を持っているのだ。』


「申し訳ありませんでした、突然ナイフを突きつけて……。これ、お詫びです」


 旅人は降ろした背嚢の傍に置いてあった布袋を手に取り、岩の上にひっくり返した。ぼと、ぼとと落ちてきたのは、赤や青色に鱗を光らせる数匹の魚だった。


「ああぁー!」


 少女は目を輝かせると、確認を取るように旅人の顔を見た。旅人が頷いて見せると、魚を両手に掴んで、やはり豪快に喰らいついた。


 少女は三匹ほどを胃の中に収めてから、思い出したかのようにはっとして、一匹を旅人に差し出した。「あなたは食べないの?」。しかし旅人は首を振ると、雑嚢から干物を取り出した。


 これは旅人が考えた、“お誘い”を一番丸い形で断る方法だった。わたしにはわたしの分があるから気にしなくていいのよ、と、角が立たずに断ることができる。


 これには干物でなくては駄目だった。例えば干し肉やパンは、この森の池には存在しない物である。これらを目の前で食べれば、きっと彼女は興味を持ち、ねだることだろう。それを口にして気に入ってしまったら――あまりにも残酷な思いをさせることになってしまう。


「それは全部、あなたのものです。遠慮しないで、どうぞ、食べてください」


「あぅぁー!」


 少女は大きく頷くと、再び魚にかじりついた。「ああぅ」。「ああぅ!」。合間合間に発していた声は、礼のようなものなのかもしれない。


 結構な量だったにもかかわらずやはりあっという間に完食し終えると、手や身体に付いた血を流す為なのか、池の中に飛び込んで気持ちよさそうに泳いでいた。


 その間は会話はなかった――言ってしまえば一度も会話は成立していないのだけれど、旅人も彼女も言葉を発さず、ただぼおっと、空や木々や苔や透き通る池の水を眺めていた。しかしそれは、退屈故ではなかった。


 何でもない自然。エルフである旅人にとっては見慣れた緑。少女にとっては見飽きる以前の自分にとっての世界の全て。しかし、傍に誰かがいるだけで全く違って感じることを、二人は感じていた――少なくとも旅人は、そう感じていた。

 ……だからこそ、


「ここから出たいとは思いませんか?」


 おもむろに、旅人はそう訊ねていた。


「うぅ?」


 仰向けで浮き上がり、枝を広げた木々の隙間から見える木漏れ日に目を細めていた水棲種族の彼女は、首だけを旅人の方へと向けた。

 旅人は少し考えてから、森の向こう側を指さしたり、身振り手振りでそれを伝えようとしたが、どうにも上手く伝わらない。


「うーん……」


 旅人は困ったように顎を撫でてから――先程と同じように自らの隣に腰を下ろした彼女、その背中と脚に腕を滑らせ、そのまま抱きかかえた。


「ああぅっ?」


 突然のことに驚いたように目を丸くしたが、すぐにきゃっきゃと、楽しそうにはしゃぎ始めた。旅人は彼女の長い脚が地面にぶつからないように持ち方を調整してから回れ右、身体の向きを変えて、ニ歩、三歩、足を動かした。


「やあぁあ!」


 楽しそうな態度を一転、少女は身をよじり、激しく抵抗する素振りを見せた。旅人の顔を見て、何度も何度も首を横に振る。……旅人は池の前まで戻ると、ゆっくりと岩の上に彼女を降ろした。


「……うえぇう」


 彼女はもう一度旅人の顔を見て、首を振った。攻めるような調子ではなく、申し訳なさを感じさせるような、遠慮がちな仕草だった。ごめんなさい。私は、ここを離れられないの。


「……ごめんなさい、何度も」


 この池でないと生きられない、という訳ではないのだろう。水棲種族は基本的に、“水辺に棲んでいる”のであって“水中でなければ生きられない”訳ではない。根本的には人間なのだから、肌さえ乾燥させなければ地上でも生きていられる――怪物図鑑にはそう記述してあった。大きな湖や川に移り住んでも、身体は問題がないはずだ。


 だからきっと、気持ちの問題。彼女は、この狭い池で、たった一人で生きていく、そう決めているのだ。


 何かここにとどまりたい理由があるのか、とどまらなければいけない事情が有るのか、それともただ純粋に住処を変えることに抵抗があるだけなのか。それもやはり、旅人には知る由もなかった。


「わたしの勝手で嫌なことばかりして、ごめんね」


 旅人は呟いた。だが、少女はまたもや首を振って、今度は微笑んだ。

 そして勢いよく池の中に飛び込んで、旅人の方に身体を向けると手招きをした。


「え……池に、ですか? ……うーん」


 旅人は少し悩んでから……衣類のほとんどをその場に脱ぎ捨て、ゆっくりと、池の中に脚を入れた。池の水の冷たさに身を震わせる姿を、彼女はと笑っていた。

 肩まで水に浸すと、彼女は旅人の手を引いて、傍の岩肌を蹴った。二人は共に狭い池の中を、めいいっぱい泳いだ。

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