人魚姫(2)

 彼女は音も立てずに水中に潜った。まるで身体が溶けて消滅してしまったかのように、泳ぐ音もしなければ、波も立たなかった。しかし池の水は水底が見える程に透き通っていたから、悠々と動き回る彼女の姿は旅人の目に映っていた。


 やがて彼女は浮かび上がる。やはり音も波も立てなかった。彼女は両手に何かを掴んでいて、その片方を旅人に差し出した。それは握った手の端から頭がはみ出す程度の魚――あゆだった。ねじるようにして首の骨がおられていたが、それでも鮎は彼女の手の中で必死に暴れていた。


「……あ、ありがとう、ございます……」


 旅人は断ることも出来なくて、躊躇いがちに両手を差し出した。だけれど当然のことながら、暴れる魚を手渡すことは難しい。彼女は力強く魚を握り締めてどうにか落ち着けようとするが――やがて鮎の頭に噛みついて、ばき、奥歯でかみ砕いてしまった。鮎は大きく跳ねてから、段々と動きが小さくなり、やがて力なくうなだれた。

 彼女は満足そうに頷くと、今度こそ鮎を旅人に手渡した。


 恐る恐る、それを受け取る。鮎の鮮血が、掌から腕に流れ、岩の上にしたたり落ちた。それを見ながら、旅人はどうやってこれを切り抜けようかと思考を巡らせていた。


 頭をかみ砕いたのが不衛生だとかそういうことではなく――いや多少はそういう気持ちはあるが――生魚、か……。旅人は自分の表情が引きつるのを感じていた。


 ごくごく一般的な感覚として、旅人は生の魚に対する敬遠があった。それに加え、住まう土地のほとんどが内陸に位置しているエルフにとって、生魚とはそれ以上に忌避するもの、いわばゲテモノだった。


「あーう」


 旅人のそんな様子に気が付いた風もなく、水棲種族の彼女はいまだ暴れる鮎の腹に豪快に被りつき、食いちぎる。内臓と鮮血の糸を口から垂らしながら、至福に頬を緩めた。彼女は口の中に鮎の身をいっぱいに詰め込むと、まだいくらか身の残っている骨を贅沢にも池の中に投げ捨てた。真っ赤な雲が水の中に浮かび、直ぐに消えた。


「あやぁ?」


 彼女は書写くしながら旅人の手の中の鮎を見て、首を傾けた。「どうしたの、食べないの?」。そう言わんとしているということは誰の目から見ても明らかだった。


「あ……えーと……」


 旅人は弱った愛想笑いを浮かべながら、血の滴る鮎と彼女とを交互に見た。そして――意を決したように、鮎にかじりついた。前歯でほんのわずかに身を削り取るような、その覚悟に比べて随分とこわごわした動作だったが。


「……っ」


 旅人はなるべく舌に触れないように咀嚼、目を瞑ってやっとの思いで飲み下す。ゆっくり瞼を押し上げると、彼女は嬉しそうに笑っていた。旅人は……どうにかもう一口だけ齧ってから、お腹をさする素振りをして見せた。


「……うう?」


 少し考えるように首を捻る。「……ぅあ!」。やや間をおいて、どうにか旅人の仕草の意味することを理解してくれたようだった。旅人から魚を受け取ると、同じように口の中に押し込むようにして、あっという間に完食してしまった。


「あなたは……」


 旅人は池の水で口の中の生臭さと不快感をゆすいでから、言った。


「あなたは、一人なんですか?」


 それは、旅人がずっと訪ねたかったことだった。「うあゃ……?」。もちろん、旅人の期待するような返事は帰って来なかった。


「この狭い池で、一人なんですか? 家族は? どこからやって来たのですか?」


 それでも、旅人は言葉を続けた。答えが返ってこないことを知りながら吐き出すその言葉は、ほとんど愚痴のようなもの、口にすることで少しでも自分の気を晴らそうとする行為だった。


 少女は、この狭い池で一人だった。それ以外に人の姿はなかった――どこにもつながってない、狭い閉じられた池で、たった一人だった。家族も、他の仲間の姿もない。


 だけれど彼女は、他の海や川から移動してきた、という訳ではないようだった。それは彼女の足を見れば分かる。彼女の脚はその胴体よりもずっと長く、足の先に近づくにつれてみるみる細くなり――足に至っては骨に皮が張り付いただけと言っても過言ではない。まるで鳥のようだった。

 長さも大きさも、その身長と体重を支える為のものとしては、あまりに釣り合いが取れていない。


 つまり歩けないのだ。彼女は、泳ぐことしかできないのだ。

 だのに、この閉じられた狭い空間にいる。木々に囲まれたわずかな水の中に住んでいる。これは一体どういうことなのだろうか。


 考えられる理由は、いくつかある。でもそのどれも推測の域を得ない。なぜ彼女がたった一人でこの池の中で生きているのか、その理由は、旅人に知る由はなかった。


「……あぅ……」


「……ごめんなさい、何でもありません」


 困ったように眉をひそめる彼女に、旅人は笑って見せ、その頭を撫でた。つるつるとして弾性のある、想像していた通りの感触だった。最初は驚いたように身体をこわばらせていたが、すぐに気持ちよさそうに目を細める。


「……ところで、あなたはサイクロプスを知っていますか?」


 一点、旅人は明るい調子の声でそう訊ねた。


「あうゅ?」


「サイクロプス。一つ目の、巨人です」


 旅人は彼女を撫でる方とは反対の手の人差し指で、自らの額に目を描く素振りを見せた。「おでこの真ん中に、大きな目があるんです」。「……?」。きょとんと、少女は首を傾ける。旅人は何度かその動作を見せたが、彼女には一向に伝わることはなく、旅人の真似をして自身の額を指でなぞるだけだった。


「まあ……分からないですよね」


 旅人がこの森に訪れたのは、そのサイクロプスが目的だった。旅人は獣や怪物を狩る狩人を生業としており、旅の先々で依頼を受けて路銀を稼いでいた。


 依頼のことを忘れていた訳ではない。忘れていた訳ではないが、それよりも水棲種族の少女に優先順位を置いていたのは事実だった。彼女のことは気になるが、そろそろ仕事に戻らなければ。旅人は最後に少女の額に触れて、ふうと息を吐いてから立ち上がった。


「うあぁ?」


「すみません、わたしはそろそろ行かなければ」


「ううぅ……」


 背嚢を背負い直しているのを見て、立ち去ろうとしているということはすぐに分かったらしい。少女は露骨に寂しそうに表情を歪ませた。


「大丈夫です、またすぐ来ますよ。……少なくとも、わたしがサイクロプスを狩るまでは」


 旅人が微笑みかけると、その意味が通じたのかは分からないが、彼女もまた笑顔を返した。

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