人魚姫
人魚姫(1)
湿ったにおい。土のにおい。植物の腐ったにおい。それに紛れるようにして、生臭いようなにおいもする。その池は、森の奥にある。土、岩肌、木の幹、視界に入るものほとんどが深い苔で覆われている中で、わざとらしいほど鮮やかな淡青の水面が広がっていた。
その池の淵の岩肌に、両足を池の中に浸すようにして腰を下ろす人間の姿があった。人間は衣服を一切纏っておらず、体毛の一切生えていない、光沢のある紺色の皮膚を、木漏れ日の下に露わにしていた。ヒューマンやドワーフ、エルフといった種族とは全く違う由来を感じさせた。
「水棲種族……ですか……」
茂みからその人間を観察していた少女は、ぽつりと呟いた。透き通るような白い肌、他種族に比べ尖った耳から、彼女がエルフだと分かる。美しい銀色の髪を、まるで銀細工のように編み込んでいる。大きな背嚢、それとは別に雑嚢を腰に着け、弓とナイフを携えていることから、おそらく旅人なのだろう。
エルフの旅人はしばらくその場に身をひそめ、時折独り言を呟きながら、その水棲種族を観察していた。
いわゆる少数種族と呼ばれる者の多くは、辺境の地で独自の文化や価値観に基づいた営みを送っている。どころか中には言葉が通じない者、人食や生贄などの野蛮な風習が根付いている者、他種族と怪物を同一視している者だっている。
だから少数種族には基本的に関わらないことが最善とされているのだが……それでも、エルフの旅人がこの池を離れなかったのには理由がある。それは――。
「水棲種族……まさか、森の中で見れるとは…………」
――好奇心だった。
水棲種族はかなり珍しい存在と言われている。それもそのはず、人間は種族によってさまざまな営みの形があるとはいえ――その生息域は大前提として陸なのである。
彼ら水の民は、生態系も文化も価値観も言語も、地上の人間とは大きく異なると言われている。一部では神聖視されることもあることもある。つまり“人間社会”から隔絶された存在とみなされているのだ。彼女がなかなかこの場を離れることができないのも、いたしかたの無い事だった。
「女性、なのでしょうか……」
その人物の身体は、全体的に骨ばったところの無い、なだらかな骨格だった。それに加え胸の辺りには小さなふくらみがあることから、女性だと推測できた。
水棲種族の彼女はしばらくの間、物思いにふけるようにぼっと水面を見下ろしていた。しかしやがて、退屈な表情のままではあるが、おもむろに水面を蹴るようにして両足を動かした。
時間が止まったように静かだったこの森の中に、どこか心地いい水の音が響く。跳ねた水が自身の顔に跳ね、それが面白かったのか歯を見せて笑い、更に激しく足を動かした。
「……!」
その動きを見ていた旅人は、何かを発見したように、不意に険しい顔つきになった。もっと”それ”をよく観察しようと目を凝らし――そして、突然脚の動きが止まった。どうしたのだろうと、彼女の顔を見ると――目が合った。
「あゃー?」
喃語――赤子の発声のような不明瞭な言葉を発しながら、彼女は旅人の潜む茂みを指さした。一体どうして気付かれたのだろう――と考えたところで、きらり、旅人は光り輝く何かを視界の端に捉えた。
それは自らの髪の毛だった。編み込みから垂れ下がった自身の銀髪が、日光を反射して光ったのだ。そう、日光。時間が経って雲がずれたのか、差しこんだ木漏れ日によって、彼女の銀髪が光っていた。彼女はこれに気が付いたのだろう。
姿を現すべきか、逃げるべきか――そう考えたのも一瞬、旅人は茂みから姿を現すことに決めた。やはりそれは、好奇心だった。彼女から危険を感じなかった、というのはもちろんだけど。
「こ、こんにち、は……」
どう言葉を切り出していいか分からず、旅人は引きつった笑みでそう言いながら、彼女の下へと歩み寄った。
案の定と言うか、彼女は言葉を理解できないようだった。しかし何となく意味は伝わったのか、「あうー」と小さく右手を挙げた。
「わたし、アーフェンのフォズオラン、という者です……」
「……うう?」
一応名乗っては見たものの、伝わるはずもない。エルフの少女は肩をすくめ、自己紹介を早々に諦めた。
その水棲種族の女性は、しばらく旅人の顔を見つめた後、自らの隣を手で指示した。ここに座れ、と言うことらしい。旅人は傍に荷物をおろし、その通りに腰を下ろした。
「あぁー、おー、お」
やはり明瞭な輪郭を持たない言葉を発しながら、先程と同じように、水面で足をばたつかせる。水が跳ね、旅人の顔にも水滴が掛かる。「うっ……」。その冷たさに思わず身じろぎをすると、「あははははは!」と、そこは他の人間と何ら変わりのないように笑った。
言葉が喋れないのではなくて、知らないだけなのだろう。旅人はそう考えた。
彼女の口は自分とほとんど変わりのないように思えたし、彼女の言葉は、唸ったり吠えたりしかできない獣のそれとは違って、ただ未発達なだけ、つまり明確な意味を持った言葉を喋ることに慣れていない、という風に感じたからだった。
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