二部 銀彩のエルフと脈動する皮膚

バジリスク

バジリスク(1)

「バジリスク……ですか?」


 フォズがその名前を反復すると、こくりと、転寝で舟をこいでしまった時のような大げさな素振りで、村長は首を動かした。


「そうです。やつらがわたしたちの貿易隊を襲うのです。……最後に襲われたのは数日前、物も金も奪われ、人も殺され、納品できないことで周囲の村からの信頼も失って……このままではわたしたちが死ぬのも時間の問題です。……満足のいく報酬を払えるか分かりませんが、どうか、やつらを狩ってはくれませんか……」


 フォズは困ったようにこめかみのあたりを掻いた。

 エルフを差別しているヒューマンの村が、自分を快く受け入れてくれたのはこういう訳か……。村長の後ろでこちらの心境を窺っている村民たちの中から、フォズをこの村長の下へと引き連れた見張りの男を見やる。彼はすぐさま、ばつが悪そうに顔を伏せた。


「どうか、どうか、お願いします……!」


 長老が、しわがれた小さな手でフォズの右手を挟みこんだ。ぶよぶよしていて、やけに冷たい。「お願いします!」「バジリスクに襲われるから、俺たちはこの村から出ることもできないんだ!」と村民たちも次々に懇願する。


「……」


 彼らが自分をいいように使おうとしているな、というのは分かっていた。口ではそれらしいことを言い、へりくだった態度を見せてはいるが、それが本心ではないことはすぐに分かる。満足ではない報酬すら支払われない可能性も、十二分にある。


 ……それを攻めやしない。

 その行いを肯定はもちろんできないけれど――許容することはできないけれど――その行いに対して善悪を下すことは、フォズにはできない。それが、この世界の歴史が生み出してしまった一般的な価値観なのである。


「……」


 フォズはもう一度、こめかみを掻いた。

 引き受けるのは、やぶさかではない。彼らの話によればバジリスクが現れるのはこれから自分が往こうとしている道らしい。野盗が一人の旅人を襲わない訳がないから、依頼を受ける受けないにかかわらずバジリスクとは関わらなければならない。

 ならば村人を仲間に引き入れ、情報を手に入れた方が、フォズとしても利はある。


 それに、この村で補給を済ませたい、というのもある。

 水も食料も矢も、まだ大分余裕はある。しかし――そう思っていたにも関わらず、飲み水が中々な手に入らず干からびそうになった苦い経験がある。


 ヒューマンはエルフに対して差別的感情が強く、村が見えたからといって立ち入らせてもらえるとは限らない。この辺りは平原が続くだけで、森も無ければ川もない。頼れるところもない旅のエルフにとってはここは砂漠と大差ないのだ。

 表面だけでもこうやって歓迎してくれる村が現れるのは、次はいつになるだろうか。


「あの……一つ、よろしいでしょうか?」


 引き受けます、という言葉は一旦飲み込んで、代わりにフォズはそう言った。いずれにせよ、一つ、言っておかなければならないことがある。「はい、はい、なんでしょうか?」と村長は食い気味に訊ねた。


「あの……わたしは、狩人です」


「……はい、そうお聞きしましたが……?」


 フォズの言葉の意図を理解できない村長は、落ちくぼんだ瞳を丸くした。


「狩人とは、獣や怪物を狩る人のことです」


「……はい、存じております」


「ですが……バジリスクというのは――人、ですよね? 彼らと会って、話をつけることは構いません。追い払うことは構わないです。ですが彼らを殺す――つまり狩人として討伐する、というのは、わたしにはできません」


 フォズの言葉を聞いて、村人たちは困ったように視線を交わした。まあそうだろうなと、フォズは彼らを一瞥した。自分たちの仲間を殺されているのだから、復讐をしたいと考えるのは妥当だろう。だけれどフォズは人は殺さない。これは旅の中でいつの間にか生まれていた決まりだった。


 人を殺すというのは二つの意味がある。恨みを買うか、恨みを晴らすか、そのどちらかだ。そしてそれは、人間の社会に多かれ少なかれ影響を与えることになる。

 フォズは狩人で旅人である。あくまでこの世界をなぞり、見るだけ。世界には干渉しないと決めていた。


 ……大層な理屈を掲げているけれど、結局のところ自分が人を殺したくないだけなのだろう。その気持ちは否定しない。


 村長はしばらくの間、じいっとフォズの顔を見ていた。やがて村長の眉に皺が寄り、「……は?」と、唇の隙間から言葉が漏れた。


 それはバジリスクを殺さないというフォズに対して苛立っている訳ではなく――ただただ純粋な疑問だった。フォズの言葉が理解できない、その疑問である。


「あ、あの……フォズオランさん?」


「は、はい……?」想定外の反応に、フォズもたじたじになる。


「バジリスク、のことを言ってらっしゃるんですよね」


「はい……そのつもりですが」


「トカゲ人間の、あの、背の高くて、鱗に覆われた」


「はい」


「……あいつらは怪物ですよ?」


「……はい?」


「人を襲い、殺し、奪う怪物ですよ? トカゲ人間であって人間じゃない――ハーピィを鳥人間と、ダガンを魚人間と呼ぶように、あいつらトカゲ人間もただの怪物ですよ?」


 村長どころかこの村の人々の表情は困惑に包まれていて、フォズだけが唯一間違ったことを口にしたようだった――いや、事実そうだった。

 彼らにとってバジリスクは怪物で、フォズは人だと考えている。これも、ただの、価値観の違いだ。なるほど、とフォズは頷いた。

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