第五十九話 矜持
「まずい、さっきの銃声!」
兵士の一人が叫ぶと、全員の顔が青ざめた。
あの銃声は、まずかった。あの時点で直ぐに逃げ出さなければいけなかった。場の空気に飲まれてしまって、それに気が付いたのはもう手遅れになってからだった。
「くそ、急いで移動するぞ!」
「……いや、全員剣を抜いて。もう遅いわ……」
カフェトランは弓を構え、おもむろに一方に向けて矢を放った。ほどなくして「ぎゃっ!」という悲鳴がかなり遠くから聞こえてきた。低くてよく響く声だった。
「もうそこまで来てるのか……!」
「急いで逃げなければ――!」
「……逃げたとしても、この森を彷徨って、飢えて。そのまま死ぬかシルバービアードに殺されるだけ」いたって冷静に、カフェトランが言った。「それでも、逃げたいのなら止めないわ。でも生きたいのなら剣を抜きなさい」
兵士たちは……皆一様に視線を泳がせ、そしてドワーフの死体、オーガの死体、それからウブルのなきがらを見た。
「どうするの」
カフェトランは、急かすように言った。そして二射目を放つ。再び聞こえた。声はさっきよりもずっと近くから聞こえた。
兵士たちは、困ったように視線を交わし――最後にカフェトランを見た。彼らによって哀れにも捉えられ、仲間の死に絶望していた彼女が、今は弓を取って、淡々と、黙々と、敵に向けて矢を放っていた。
「……やります」
兵士が一人、剣を抜いた。それを皮切りにして、みんなつばを飲み込んで武器を構える。その表情は恐怖に怯えきっていたし、涙を流している者もいる。自暴自棄の一歩手前だ。それでもカフェトランは彼らを目だけで見て、「上出来」と頷くと三射目を放った。
カフェトランの矢をほとんど入れ違いに、向こう側から矢が放たれた。フォズに向かって飛んで来たそれを、ぎりぎりのところで躱す。
「行け! 行け! 突っ込め!」
ようやっと姿を現したドワーフ達が、斧を構えながら一塊になって突撃してきた。カフェトランは先頭の一人を射って、身を翻した。「援護するから、こっちも突っ込め!」。「うおおおおお!」。破れかぶれに叫びながら、斧や剣を持った兵士たちが彼らにぶつかった。
ふと、フォズはカフェトランと目が合った。彼女は優しく笑った。フォズはまだ、弓も構えていなかった。
「逃げなさい」。カフェトランは口には出さなかったが、確かにそう言った。フォズは首を振った。いやだ。逃げなさい。怖くないよ、戦える。でも、殺したくないんでしょう?
この場で、フォズだけが部外者だった。フォズはどちらの味方でもなかった。ただ、姉を助けに来て、そして姉に生きて欲しいだけだ。そしてできれば、誰も死んで欲しくなかったのだ。
それは我儘だったし、傲慢だった。そして何より、今この状況で、誰からも求められていないものだった。戦う。そうでなければ逃げる。じゃなければ、肝心の姉に迷惑が掛かる。先程のウブルのようなことに――カフェトランがならないとも限らないのだから。だけれどフォズは決められなかった。ずっと、そうだった。フォズの非生産的な思考を嘲笑うように、キュルルと、どこかで鳥が奇妙に鳴いた。
ばつん。また、あの音が聞こえた。「オークが出た!」。ドワーフ達がやって来た方とは別の方向に、三人のオークが立っている。彼らは肩から腰に掛けて斜めに切断された死体を見下ろしていた。返り血で真っ赤に塗りつぶされた顔が、くしゃりと歪む。
「――っ!」
それを見てカフェトランの身体が一瞬止まる。しかしほんの一瞬で、すぐさま的確に、冷静に、彼らの顔に向けて矢を放った。だけれどオークたちはそれを難なく躱し、あるいは腕に付けた小盾で受け止めた。
連合のエルフとトロルが一人のオークに立ち向かった。エルフが剣を振るうが、オークは難なくそれを受け止めた。その隙を突いてトロルが槍を突き出す。命中、だが――「痛えなあ……」だみ声でオークが言った。
彼は小盾も小手も付けていない、生身の腕で、その肉で槍を受け止めていた。そしてトロルを無視して、エルフの頭に向けて小盾を叩きつける。エルフは咄嗟に剣で受け止めるが、オークの腕力の前では無意味だった。
乾いた、それでいて水っぽい音が聞こえた。首から上が半分くらいの長さになったエルフは、しばらくその場に立ち尽くす。赤と黒と透明の混ざったものをほとんど塞がっている鼻や口から垂れ流し、やがて後ろ向きに倒れた。
そのあまりにも惨い死にざまに、連合の兵士たちの動きが止まってしまった。シルバービアードのドワーフたちも、表情を引きつらせた。しかしオークだけは「うおおおおおお!」と歓喜の混ざった鬨の声を上げ、隣のトロルをばつんと両断した。
「う、うああああ!」
連合の兵士たちは恐怖に取りつかれてしまって、無茶苦茶に武器を振り回した。突然のことに不意を突かれたドワーフを何人か切り伏せたが、ドワーフの放った矢が突き刺さり、その隙に別なドワーフが飛び掛かった。
「落ち着け、冷静に! ひとまとまりになれ!」
カフェトランが叫ぶ。やはり、誰の耳にも届かない。連合の兵士たちは恐怖に絡め取られていた。ドワーフたちにも相当な死者が出ていたが、オークがついているという安心感だろうか、彼らはまだ冷静さを保っている。ドワーフ達は一旦距離を取り、弓矢やクロスボウを持っている者が前に出た。
カフェトランは舌打ちをして、諦めたように空を仰いだ。こうなってしまえばもうおしまいだ、ということはフォズにも分かる。カフェトランはもう一度フォズの顔見て、「逃げさない」と言った。今度ははっきりと、口に出して言った。
「お姉ちゃんも一緒に」とフォズは返した。しかし彼女は首を振る。「それは出来ないわ」、そう言って、再びオークに向けて弓を構えた。最後に一人でも多く道連れにするつもりだった。キュルル。鳥の声がやけに耳に付いた。
フォズは自らの弓に手を伸ばす。カフェトランが譲ってくれた、大切な弓。掘り込みの意匠が指に触れる。この弓は、この為にある。積み上げた弓の技術は、大切な人を守る為。姉を助けるために私は旅に出たんだ――。
フォズは弓を手に取り――その弓を構えて――――そして、弓を持った手をだらんと降ろした。違う。この弓は、狩りをするため。狩人として生きる為に、私は弓を教えられた。
この弓で、人を守ることは、あるだろう。だけれど狩人は、そんなたいそれたものではないし、たいそれたものであってはいけない。
あくまで生活の為に、狙いを定め矢を引き絞る。狩人とはただそれだけの存在なのである。
そして――私が旅に出たのは、姉に会う為。守る――確かにそうだが、しかし、違う。これを人に向けたら、もう狩人ではない。私は狩人だ、あくまで狩人なのだから――。
キュルルルル――――かん高い鳴き声。しかし図々しいまでの自信にあふれた、威厳のある声だ。フォズはそれを思い出しながら、鳴いた。キュルルと、喉を絞り、肺を動かし、口をすぼめ、鳴いた。
ぎょっとした顔で、皆がフォズを見た。連合、シルバービアードはもちろん、カフェトランとオークまでもが、殺し殺されるのを中断し、フォズを見る。この惨状に気が狂ってしまった、にしてはあまりにも奇妙で、滑稽な姿だっただろう。
しかしフォズは、そもそも彼らのことなんて視界に入っていなかった――ただただ、あの姿を思い浮かべながら、鳴く。身体が大きいのだから、声帯は大きいはず。だから喉を、肺を膨らませて、だけれど声はかん高い、喉と肺を膨らませたままあの甲高い声を――キュルル、キュル、キュルルルルル。
――キュルル、と。
わずかにだが、聞こえた気がした。
それに呼応するように、フォズはもう一度、大きく鳴いた。キュルルル。人間の声帯では無理のある音だ。喉が焼けるように熱い、鉄の味がする、それでも、それでも、音を響かせる。
「キュル、キュルルルル!」
その声は、すぐ真上から聞こえた。木々の枝を乱暴にへし折って、血と死体の上に降り立った。
極彩色の翼を持った巨大な鳥だった。だが、熊に匹敵する胴、像に勝るとも劣らない脚は、既知のどんな鳥類にも当てはまらない。様々な獣の優れた部位を寄せ集めたような、荒々しい、だからこそ美しい巨躯だった。
だからだろうか、神々しいとまで感じさせる現実離れした色の羽根と暴力的なその身体は、不釣り合いだとは感じない。
「ガルーダ――!」
フォズはその獣の名前を呼んだ。キュルル。お前の真似はへたくそだ、本当はこう鳴くんだぞ、そう言わんばかりにガルーダは鳴いてみせた。
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