第五十五話 遁走

 オークは、かつてはトロルやゴブリンと共にヒューマンの奴隷だった歴史がある。


 肉体的に劣った種族であるトロルやゴブリンと違って、屈強な種族を従えたいと考えるのはごく自然なことである――奴隷を従えることに抵抗がない、という前提では、ごく自然な思想である。


 人数が少ないから抵抗もあまりなく、世界で忌まれているから建前もある。オークに白羽の矢が立ったのも、必然だったといえるだろう。


 しかし、オークはヒューマンの想定外だった――想定内だったが、それがあまりにも想定以上だった。彼らは屈強すぎて、粗暴すぎた。一旦はヒューマンの手に落ちたものの、やがて彼らは地の果てへ追放された。


 地の果て、というのは文字通りの意味ではない。確かにそこは辺境と称される場所ではあるが、最果てではない。しかしその環境があまりにも過酷過ぎて、また開拓する意義もほとんどなく、あくまで地図上の最端がそこ、という訳である。


 しかし、獣を殺し怪物を殺し同族で殺し合う血に飢えたオークにとって、その環境は悪くないどころか、水を得た魚と同義だった。数世代の内に彼らは一回りは大きくなり、そして奴隷に堕ちる前の倍近くの数になったといわれる。


 凶暴な種族が勢力を広げていることは危惧する事態だったが、しかしどうしようもなかった。いや、その頃ならまだどうにかなったかもしれないが、彼らの現状そして脅威が知られたのが耳戦争の後だったのである。



*



 耳戦争の最中に奴隷に堕ちていた諸種族が決起した。その中には当然、全体で見ればわずかな数だったがオークも含まれていた。トロルやゴブリンのように種族単位ではなかったが、未だにオークが奴隷にされることはままあった。


 オークの存在は戦争の行く末を大きく変えた。しかし導いた訳ではない。活躍、だなんてとても言えない。ただ血を求めるかのように、敵も味方も、政治も情勢も無視して、ただひたすらに斧を振るう。良くも悪くも、ヒューマンとエルフの対立だった耳戦争の結末を大きくゆがめてしまった。


 戦争が終わり戦後処理になると、誰しもがオークの処遇に頭を抱えた。種族単位でとらえられていたトロルやゴブリンは簡単だった。種族自決の理念の下、人数に相応しい領地を与えればよいのだから。


 しかしオークは、戦争に関わったのは一部だけだ。だがそう切り捨てるには、あまりにも戦争に与えた影響が大きすぎた。結果として彼らは、連合に加入することになってしまう。そして、たとえ名前だけとはいえ連合に加入しているオークを殲滅する訳にはいかなくなってしまったのだ。



*



 彼らは、言ってしまえば、獣とほぼ同じだった。縄張りに立ち入った者には容赦はないが、縄張りからは全く出ようとせず、外のことには不干渉を決め込む。だから今までは、脅威とみなされつつも見過ごされて来たし、見ないふりで済んできたのだ。


 オークはオーク領から出ない。これは、そもそもの大前提なのだ。

だから、連合にとってはその事が信じられなかったのだろう。信じたくなかったのだろう。


 しかし――不自然なまでに筋肉に覆われた肉体に、ハーフリングの身体よりも大きな刃の斧を悠々と担ぐその姿を見てしまっては信じざるを得ない。信じたくないが、認めるしかないのだった。


 そしてフォズは、「ばつん」という音の正体を知った。オークの斧だ。絶対的な腕力と圧倒的な質量の斧の一撃は、相手を一瞬で断ち切ってしまう。鎧、肉、骨、それらが一瞬で壊される音が重なりあって、ばつん、なのだ。


 それを理解すると同時に、フォズは走り出していた。もちろんカフェトランを背負って。


「お姉ちゃん、大丈夫……!?」


 カフェトランは歯をがちがちと打ち鳴らすだけだった。


 走りながら後ろを見やる。オークは五人に増えていて、更に死体の山を気付いていた。技術も型もない、ただ滅茶苦茶に斧を振るっているだけなのに、誰も近寄ることはできなかった。いや、だからこそかも知れない。理性の上にある技術ではなく、ただただ純粋にして理不尽な暴力。恐怖と絶望に絡め取られた彼らには、それはあまりにもてきめんだった。


「……っ!」


 フォズは血のにじむまで唇を噛みしめると、前を向いた。ばつんという音と、彼らの断末魔に贖罪しながら、今は前へ。ただひたすら前へ。途中いくつかの足音がフォズを追いかけているのが聞こえて血の気が引いたが、金属の打ち合わされる音、喘ぐような荒い呼吸、それがひっかかり視線を後ろにやると、それは連合の兵士たちだった。


 これだけ大勢だと目立つやも、という危惧はあったが、いいや、とりあえずこれだけの人数が無事でいてくれたことに喜ぶべきだろう。


「……フォズ、降ろして」


 どれだけ走っただろうか、足を止めると喉の奥からも鉄の味がした。フォズに追従していた兵士たちもフォズの後ろで足を止めた。


「お姉ちゃん……?」


「もう、平気だから……」


 彼女の顔色はある程度ましになっていて、震えも止まっていた。フォズは少し悩んだが、彼女を抱えて走るのも限界だったので、言われた通りにすることにした。


 カフェトランはフォズの背中から降りてからも、しばらく背中に額を当てるようにして寄りかかっていたが、たっぷり何回か深呼吸をしてから「もう大丈夫、心配かけたわね」とフォズの頭を撫でた。


「お姉ちゃん……」


「ありがとう、フォズ。心配かけたわね……」


「本当にもう平気なの?」


「……正直、平気じゃない」でも、とカフェトランは続けた。「でも、だからこそ自分の足で歩かなきゃ……」


「これからどこへ逃げる?」


 そう言ったのは追従して来た兵士の一人――いや、彼らの隊長だった。

 いつの間にか、フォズを中心とした一団となってしまったらしい。少なくとも連合の兵士たちはそう考えている様である。


「現在地も見失ってる状況だ……。やみくもに逃げれば、自らオーク領に迷い込むはめになるぞ……」


「あなた、仲間は?」顔は青かったが、それを感じさせない鋭利な口調でカフェトランが言った。「あたし、フォズの背中で見てたけど、あなた一人で逃げて来たわよね。戦っていた仲間は置いてきたの?」


 すると彼はばつが悪そうに目を泳がせた。「……仕方がないだろう、必死だったんだ」


「仲間が命をかけて戦っているのなら、自分もそうするべきじゃないの?」


「統率なんて取れていなかった。むざむざと命を捨てるのが賢い判断か? 俺にはそうは思えない……」自分に言い聞かせるような口調だった。


「いや、その通りよ。逃げれる人は逃げるべき。意味もなく命を張ることは、蛮勇であっても勇敢じゃない」


「だったら――」


「でも、あなたは別。死んだ仲間の分まで、一人でも多く逃がす為に、最後まで立っていなきゃいけないんじゃないの?」


 血の引くような鋭さも、身をすくませるような冷たさも、矢じりと全く一緒だった。もはや相手を戒めようという非難の言葉ではなく、罪状を告げる処刑人のようだった。その言葉と対照的に、隊長は顔を真っ赤にして声を荒げる。


「お前だって、震えて見ていただけだろう! 仲間のなきがらを前にして、ただただ怯えてただけだ!」


「ええ」しかし、カフェトランは一切動じる様子も見せず、素直にそれを肯定した。「だから、あたしはこれから戻って、仲間の仇を打つつもりよ」


「ちょっと、お姉ちゃん!?」怒鳴ったのは今度はフォズだった。「そんな事許さない! せっかく助かったのに、自分から死ににいくの!?」


「助かったんじゃない、助けられたのよ」カフェトランの目は、どこか達観したように据わっていた。ここではないどこかを見つめていた。「最初にオークと戦った時、あたしは仲間に助けられたの。戦って死ぬつもりだった。でも、それをさせてくれなかったの。……」


「せっかく助けてくれたのに死ぬつもりなの? その分、ちょっとでも長く生きることが恩返しになるんじゃないの!?」


「そうかもしれない。……うん、生かしてもらったなら、生きなければいけないとは、思う」


「それが分かってるなら、逃げよう!」


「……でもね、フォズ。……もうみんな死んじゃったの。ううん、あなたは生きてる、一番大切な人は生きてる、でも……」カフェトランは一回、一回だけ鼻を啜ったが、もう涙をこぼすことはなかった。「でも、死んじゃったわ。あたしが誘った人、あたしに賛同して付いて来てくれた人、みんな死んだわ、あたしのせいで……。みんなの為、なんて言ったけどそうじゃない……。もう、耐えられないのよ…………」


 フォズの言った通りよ、とカフェトランは言うと、口を閉ざし、申し訳なさそうにその場に俯いた。フォズの言葉。死にたいと思う。


「……お姉ちゃん…………」


 気まずい沈黙が、重くのしかかった。連合の兵士たちはオークたちが追いついて来るのではないかとそわそわしていたが、それを口にする程の度胸はなかったし、また一人で先に行く度胸もなかった。

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