第五十四話 におい
最初にそれに気が付いたのは、おそらくカフェトランだった。
忙しなくあたりを見やって、鼻を何度も動かして、首を横に振って――それを何回か繰り返したところで、ぽつりと言った。「血のにおい……」。
隊長が振り返った。「なに? 血だと?」
「さっき鼻をぶつけたし、土も口に入ったからそれかと思ったけど……違う、血のにおいだ……」
適当なことを言って脅かして、その隙に逃げ出そうとしている――そう考えていたかは定かではないが、連合の面々はカフェトランの言葉を真面目に受け取る気は無い様だった。
しかし、ほどなくしてフォズの嗅覚もそれを捕えた。
鉄のにおい。しかし無機質ではない、生臭い異臭。
そのにおいが溶け込んだ空気は、まるで質量を持ったかのように、鈍く重い。フォズとカフェトランと――それから隊長は、この異様なにおい、そしてそれに付随するこの重さに、いよいよ足を止めてしまった。
その頃には他の連合の面々も血の臭いを感じ取ったらしかった。「自分、ちょっと見てきます!」。しかしあくまでにおいだけで、“この空気”を肌で感じ取ることはできないようだった。
「お前ら、待て、戻れ……!」
しかし隊長の制止を聞くことなく、カフェトランを押さえつけていたドワーフが、何人かの兵士を連れて先に行ってしまう。
「なにしてるの、あたしたちも行くわよ!」呆然とドワーフの背中を見つめている隊長に、カフェトランが怒鳴りつけた。「あいつらに何かがあったのかも……!!」
「あ、ああ……」
フォズは彼らの後ろを追いながら、弓に手を伸ばしていた。そして覚悟をしていた。
この場にいる誰もがその漠然とした悪寒は感じていたけれど、フォズはもう少し具体的に、その正体を感じ取っていた。これまでの旅で何度か経験した、危機、難局……。これはそれらと同じにおいだ。
「――――っ」
その光景に、誰も何も言えなかった。
悲惨――誰しもの頭にその言葉は浮かんでいた。しかし誰も何も言わなかったのは、その衝撃的な光景に言葉を失ってしまったからだし、それよりなにより、悲惨なんて言葉では生易しかったからだ。
じゃあどう言えばいいのか。それは誰にも分からない。恐怖や悲観に塗りつぶされてしまい、その頃にはもうまともに思考することなんてできなかった――だから、おそらく、絶望という表現が一番正しいのだろう。
断頭台に無理矢理身体を押し込んでそのままに刃を落としたような――つまり滅茶苦茶な所で身体を断ち切られた死体が、いくつも、いくつもいくつもいくつも、血の池の上に浮かんでいた。
立派な鎧をまとった身体、やつれて頬のこけた首、包帯に包まれた腕……。生き残っている人間は、誰一人としていなかった。
「…………」
カフェトランは震える瞳にその光景を映し、崩れ落ちるように膝を付いた。唇がぱくぱくと開いたり閉じたりを繰り返すが、そこから言葉が吐き出されることはなかった。
言葉が出ないのか、出ていないことに気が付かないのか。それとも呼吸ができなくて必死に空気を求めているのか。はあっ――はあっ――はあっ――やがてカフェトランは荒々しい呼吸を繰り返しながら、その場に倒れ伏してしまった。
しかし彼女を介抱しようとする者はフォズ以外誰もいなかった。皆呆然と、愕然と――もはや死体とも呼べないそれらを見ている。「きゃあ」と誰かが叫ぶ。それは鳥の声だったかもしれないし、誰かの鎧が擦れた音かもしれなかった。ただ、それは合図だった。
連合の面々は、もはや言葉としての体をなしていない、ただただ大きな声を叫びながら、蜘蛛の子を散らすように逃げ出した。数人はその場から動かなかったが、踏みとどまっていた訳ではなく、腰が抜けるか嘔吐がこらえきれず動けなかっただけである。
「お、お前ら、落ち着け!」。その責任感からか、隊長だけは辛うじて我を保っていたが、その声は誰の耳にも届いていなかった。「ここで散り散りになれば思うつぼだぞ! そうじゃなくても、森で迷えば生きて帰れない! 落ち着け!」
フォズはカフェトランがその光景を見ないように、彼女の顔が自分の胸にうずまるようにして抱きしめて、背中をさすっていた。
すぐ横で姉が過呼吸になったから、フォズはそちらに意識が向いて冷静を保っていられたが――“人であったものたち”の中に覚えのあるトロルの顔が見えた時は流石に口の中に酸っぱいものを感じた。
――一体、誰がこんなことを?
そもそも、これは人の仕業なのか? 怪物なのか?
その答えを、フォズは導き出せないでいた。
この惨状を生み出せる怪物は、いくつか心当たりがある。それにエルフはドワーフ領については詳しくないし、オーク領なんてほとんど未開の地だ。戦争で名を馳せた傭兵ですらオーク領の怪物に何人も再起不能にされている、というのは有名な話。
しかし、怪物の襲撃にしては抵抗の痕跡が少ないように感じる。大勢の、彼らと同じくらいの規模の存在に、ほとんど奇襲気味に蹂躙された――という方がしっくり来る。
「それって……」
……だとすると、それは怪物や獣というよりは――。
ばつん、という音が聞こえた。まるでなめした革を無理矢理力任せに引き千切った様な今まで聞いたことの無い異音に、フォズの思考が中断させられる。フォズの向かいのもっと奥、森の中からだった。
泣きわめいていた連合の兵士たちも、その異音に思わず動きは止めた。涙も鳴き声も止まらなかったけれど、どうにか堪えて異音に意識を向けようとした。
ばつん。もう一度。ばつん。更にもう一度聞こえた。ばつん。
この音は何? そう疑問符を浮かべたところで――自分の胸の中で、姉が震えていることに気が付いた。「大丈夫だよ、大丈夫……」。フォズはなるべく穏やかな声で、何度も何度も彼女の背中を撫でた。しかし、「ち、違う……」。「え?」。カフェトランの顔を見下ろすと、目を疑う程青ざめた彼女の顎に、真っ赤な血が一筋垂れていた。
カフェトランは、皮を破り、肉に刺さる程、唇を強く噛みしめていた。
「フォズ……」
「お姉ちゃん? どうしたの?」
「これはあいつらよ、間違いない……」
「あいつら?」
ばつん。
「逃げて、フォズ、逃げて……」
「心当たりがあるの? お姉ちゃん?」
ばつん。ばつん。
「オーク、オークよ、あいつらが追って来たの……」
「オーク?」
「オークだ!」誰かが叫んだ。「オークが――」
その続きは、ばつんという音によって遮られた。
「こいつらを追って来たというのか? あり得ない!」と隊長が叫ぶ。「領境ならまだしも、ここはあいつらの領地から大分離れているんだぞ!?」
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