第四十九話 子供

 まるで狩りだ。弓で獲物を追いつめて、もう一人が潜む方へ誘導する、単純ながら最も効果的なフォズとフォズの姉の十八番。サイクロプスは弓の代わりに樹木を投てきして、それと全く同じことをしていたのだ。


 不思議と冷静な気持ちだった。全身に浴びるサイクロプスの殺意に恐怖は感じるが、取り乱しはしない。どんなに惨めに逃げていても決して手放さなかった弓を取り出した。


 矢の方は――ほとんど落としてしまったらしかったが、それでも数本は残っていた。矢筒から一本引き抜き、サイクロプスのその眼に向けて構える。サイクロプスは警戒する様子も怯える様子もなく、ただフォズを見下ろしていた。


 どうやら自分が優位に立って油断しているらしい。絶好の機会だ。矢を引き、力を込め、その剥き出しの急所を貫く、その動作は立った数秒で終わる。この怪物を射殺し、背後のサイクロプスは全力で逃げればフォズは助かる。簡単だ。鴨を狩るよりもずっと簡単――。


「……あれ」


 しかし、あまりにも大きな的にもかかわらずフォズの狙いはなかなか定まらない。というよりも、手に力が入らない。矢を引けないどころか矢を取り落としそうになる――取り落としてしまう。そこでようやく自分の手が震えていることに気が付いた。


 なんで? わたしは怖くなんてないのに? 冷静なはずなのに?


 サイクロプスが、フォズを見下ろしている。その目がぐしゃと細まった。フォズのことを嘲っているのだ。


 フォズはいよいよ立てなくなって、その場に跪いてしまう。それでも弓は手放さなかったが――手放さなかっただけだ。


 泣いていた。隠れていた時と同じ、フォズは気が付いたら泣いていた。鼻水を垂らしながら、よだれを溢しながら、みっともない表情で泣いていた。

 詰まる所これがフォズの本来の姿だった。狩人の経験が有ろうと、狩人の判断が出来ようと、フォズは幼い少女だった。狩りの時は狩人になる、しかしその本質は甘えたい盛りの少女だった。


「怖い」。フォズが呟いた。


「怖い」。フォズが言った。


「怖いよ!」


 その言葉に応じる者は、いない。サイクロプスが目の皺を深くするだけだ。

 お姉ちゃん。お姉ちゃん。嫌だ、嫌だよ。怖い。怖い。お姉ちゃん。お姉ちゃん。お姉ちゃん。


「お姉ちゃん! 助けて!」


 いくら叫んでも、幾ら姉を呼んでも、駆けつけてくる訳ではない――フォズが泣き叫ぶ前から、彼女はそこにいたのだから。


 うおおおおおおおおお――アーフェンの森全域に響くような絶叫が聞こえたかと思うと、続いて重い何かが落下するような音。そして、背後からフォズの背中を焼きつけていた殺意が、すっかり消えた。


「……――っ!」


 サイクロプスがそちらに気を取られている隙に、フォズは慌てて立ち上がり駆けだした。向かう先は音の方。何故そこへ向けて走ったのか、危険の否定できないそちらに進路を取ったのか、理論的な説明は出来なかった。ただそこへ逃げなければいけないと思ったのだ。直感、あるいは本能。


 まだ足は震えていて、何度も縺れそうになる。それでも、フォズに気が付いたサイクロプスが迫ってくる気配を感じて、必死で走った。


 やがてフォズの視界のずっと奥の方に、倒れた巨木のような輪郭が見えた。すぐにそれが倒れているサイクロプスだということに気が付き、ほどなくして白目をむいているそれが死んでいるということも分かった。


 耳から矢の羽根が飛び出て、血と透明な液体がこぼれている。的確な一矢だ。フォズがサイクロプスの死体の下にたどり着いた時、きりきりきりと、弓を引く音が聞こえた。


 すぐ傍の樹上から矢が放たれる。その矢は、腕を伸ばせばフォズを捕まえられるという距離まで迫っていたサイクロプスの顔に吸い込まれるようにして軌道を描き、そして黒目の中心に突き立った。単眼の巨人は、があ――とわずかな悲鳴を漏らして、その場に後ろ向きに倒れた。


「お姉ちゃん――!」


 気付けばフォズは叫んでいた。その矢を射ったのが姉だという確証はなかったけれど、フォズは確信していた。


「フォズ、怪我は!?」


 樹から飛び降りてカフェトランが姿を現した。フォズは何かを考えるよりも先に、大好きなお姉ちゃんに抱き着いていた。「怖かった、怖かったよ――!」


「もう、大丈夫よ」子守唄を聞かせるような、優しい慈愛に満ちた声だ。「ごめんね、直ぐに来てあげられなくて」


「ううん、信じてたから……。頑張ってれば、きっと助けに来るって、信じてたから……」


「よし、よし……。よく頑張ったわね……」


 カフェトランが、フォズの頭を優しく撫でた。ゆっくりと、何度も。フォズは瞑る。くすぐったいけれど、気持ちがいい。普段のお姉ちゃんはこんなことをしてくれないから、たっぷりと撫でてもらおう。


「――――危ないッ!」


 突然カフェトランが叫んだかと思うと、フォズの身体を痛いくらいに抱きしめて横に飛んだ。フォズの動体視力が、何故だかこちらに向かって放たれた矢を捕える。


 矢? 何故? 一体どこから?


 地面に打ち付けられる衝撃を感じながら、そしてのっそりと立ち上がるサイクロプスを見ながら、ああ、目に刺さったのを引き抜いたんだな、という事実に気が付いた。


 サイクロプスは眼球からとめどなく溢れる血に苦悶する様子を見せながらも、穴の開いた目でフォズ達を睨みつけた。彼らが戦うのは自分が生きる為ではなく、人間を殺す為である。伝え聞いていたその言葉の意味を、フォズはようやく理解した。


「フォズ、離れて!」


 カフェトランは狼狽えた様子もなくすぐさま立ち上がり弓を構え、射る。矢は難なくサイクロプスの頭に突き刺さるが――「くそっ!」、カフェトランは再びフォズを抱きかかえ横に飛んだ。鉄の塊のような拳が、フォズの銀髪をかすめた。

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