第五十話 硝子のまなこ

「なんで死なないのっ!?」


「固いのよ!」怒鳴るようにして言った。「眼も皮も骨も――硬くて致命傷にならない!」


 姉に手を引かれて走りながら、フォズは後ろを振り返った。眼球を赤黒く染め上げた巨人が木々をなぎ倒しながら走って来ていた。

 目を潰したのに、そして血で視界が塞がれているはずなのに、迷いなく二人を追いかけて来ていた。血の膜の向こうで、濁った黒目が睨みつけているのが分かった。


「眼にいっぱい撃つのは? さっきのは効いてたよ!」


「さっきは不意打ちだから動きを止められたけど、きっともう無理! その隙に距離を詰められるだけ!」


 カフェトランが言わんとすることは、意識外からの一撃ではなく予測することができる攻撃なら痛みを覚悟して耐えることができる、ということだった。「それは……」。フォズは口ごもって、その続きを発することはなかった。


 そもそも眼球を射抜いた際も、このサイクロプスはすぐに復帰した。それも怒りに暴れる訳ではなく、自らに刺さった矢を使って不意打ちするという冷静さを持って、だ。それはサイクロプスにその程度の知性があり、なおかつ矢の一撃が命を脅かすものではないことの証左である。


 でも――サイクロプスとの距離はどんどん縮まっている。こちらの武器は、弓矢と小ぶりのナイフのみ。そして弓は通用せず、ナイフはどう考えても致命傷にならない――ならどうすればいい?


「……大丈夫よ、フォズ」突然、カフェトランが声のトーンを落として、言った。「お姉ちゃんを信じて」


「……え、何が……――」


 カフェトランがフォズの手を離すと、脚を止めてサイクロプスの方へと振り返った。「お、お姉ちゃん!?」。カフェトランは自由になった手で矢を取り出し、おもむろに矢を引き絞った。遅れて、フォズも足を止める。


「お姉ちゃん、弓は効かないって今言ってたじゃない!」


 まさか自暴自棄になってしまったのか?

 そう考えて、カフェトランの手を引いて再び駆け出そうとして――いや、違った。彼女の顔は、自暴自棄の開き直り、一か八かに掛けるしかないといった恐れと緊張、そのどちらの色も帯びてはいなかった。


 ただ、睨んでいる――サイクロプスの憤怒や憎悪に塗りつぶされたそれとは対照的に、何の感情もない、何の意思も窺えない、まるで硝子のような鋭い目で、サイクロプスを睨んでいた。


 それは狩人の目だ。一流の狩人が獲物を射殺す時のまなこである。

 感情は視界を曇らせる。意思は存在しない物を見付けてしまう。目は、目。世界を認識して、その情報を脳へと届ける、それ以上でもそれ以下でもない、ただの器官でしかない。


 あるまがまま、自然の営みのままの世界を観測し、敵を見つけ、弱点を見抜き、そこを射抜く。カフェトランの意識は、今、世界に溶けている。


「ふう…………」


 カフェトランが息を吐いた。矢を引く腕に込める力をわずかに強め――なんてことないように矢を射った。

 当然、それはサイクロプスの眼中に突き刺さる。この程度狩を生業にするエルフならば、熱に苦しんでいてもたやすいことだ。だけれど――。


「お姉ちゃん、やっぱり効いてないよ!」


 サイクロプスは動きを止める様子はない、どころか苦痛を怒りに変えて二人との距離を瞬く間に縮める。それでも、カフェトランは気にした様子もなく、冷静にもう一本の矢を引き抜く。


「固くて貫けないのなら、押し込めばいい。致命傷になるまで、押し込むの」


「押し込む……? ……あっ!」


 そこでフォズはようやっと姉の狙いが分かった。継矢だ。もうすでに突き刺さった矢を、後から放った矢で射ぬく、継矢。


 継ぎ矢自体は、そう珍しいものではない。決して簡単なことではないが、極論同じ場所に二回矢を放てばいいのである。フォズでも意図的に継矢をしたことはある。


 しかしそれは――あくまで練習中に、冷静な状況で、たっぷりと狙いを定めて、である。そして何より、的は動いている。外せば死に直結する状況で、迫ってくるサイクロプスにそれをするのは――離れ業、でも言葉が足りないだろう。


「……お姉ちゃん」。フォズが呟いた。

 カフェトランは二本目を引き絞りながら、フォズの名前を呼び、怒鳴った。


「フォズ、祈るのよ!」


「な、何にっ!」


「英霊に! あたしたちの無事を!」


 きりきりきり、きり……きり…………。慎重に、慎重に、カフェトランは矢を引き絞り、サイクロプスに狙いを付ける。


 一つ目の怪物はもうすぐ目の前にまで迫って来ていた。それでもカフェトランは、引き絞った矢を離さない。


 サイクロプスが腕を振り上げた。それでも彼女は焦らない。


 サイクロプスが更に迫り覆いかぶさるようになる。それでも彼女は、じっと巨人を見据えたまま――――「お姉ちゃん!」とフォズが叫ぶ、サイクロプスから流れた血が雨のようにカフェトランに降り注ぐ、カフェトランはそれを気にせず「すぅっ」と息を一気に吸い込む――しゅう、風を切る音がフォズには聞こえた。

 そして、固い何かが砕ける音。即死、だと思った。サイクロプスは、大きく後ろに仰け反って倒れた。


「ちゃんと祈ってた?」


 降り注ぐ血で顔も髪も身体も汚したカフェトランが、フォズの方を振り返って目を細めた。「うん」。フォズは溢れそうになる涙を必死に堪えて頷いてから、最愛の姉の血を拭ってやった。

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