第四十八話 サイクロプス

 フォズは怪物に殺されかけたことがある。トロルたちと戦ったハーピィのことではない。もっと昔の、幼い頃の話だ。

 それは、メレ・メレスが図鑑にまとめているような、“危険だったり不思議な特性を持っている生物”の総称としての怪物ではなく、正真正銘、本物の怪物だった。



*



 サイクロプス。誰もが知る一つ目の怪物。ハーフリング三人分の身長に灰褐色の肌。その由来は分かっていない。怪物とまぐわった人間の子孫とも、魔女による実験の成れの果てとも、はたまた異なる世界の住民だともいわれている。


 だが特筆するべきなのはそこではない。それはサイクロプスの特徴の一つであって――この怪物が怪物たる所以は、その異形の姿でも知られざる由来でもない。


 それは、人間に対する異常なまでの憎悪と殺意である。

 他の生物には目もくれない。補食の為にも必要最低限しか殺さない。しかし人間に対しては――溺れた人間が必死に陸地を求めるがごとく、必死に、無我夢中に――自らの腕がちぎられようと、一つしかない目玉が抉れようと――その命を屠り続ける。


 ――怪物図鑑より



*



 フォズは、茂みの中でじっと身を丸めて息をひそめていた。

 僅かにでも身をよじらせてしまうと、肩に刺さった枝が肉に引っかかって、痛い。思わず苦悶の声が漏れてしまいそうになるから、口を押えて、でもそれでも不安だったから、左の手を口に押し込んで、反対の手でそれを抑え込んで、じっと、身をひそめていた。


 ふう――ふう――ふう――荒い息遣いが聞こえる。サイクロプスがわたしを探している。

 お姉ちゃんは無事だろうか。火鼠を追っている最中にサイクロプスに襲われて――サイクロプスは真っ先にわたしを追ってきたはずだから、大丈夫なはず。でも、もし、万が一もう一匹いたら――。


……いや。首をわずかに振って、嫌な考えを追い出す。そんなことはない。お姉ちゃんは無事なはずだ。サイクロプスは複数で目撃されることはほぼ無いと知っていたし、きっと、村に戻って大人を呼んでくれている。だからわたしは、ここでじっと隠れて、耐えて、そうすれば助かって、またお姉ちゃんと会えるんだ。


 フォズが希望的、ともすれば楽観的な思考だったのは、ネガティブに考えてもどうにもならないからだったし、自分の命運を半ば悟っていたからだった。


 つまり――あの泥水のような色の爪の伸びた手で握りつぶされるのか、泥がブーツのように固まっているあの足で踏みつぶされるのか、それともあの巨体を構成する養分となるのか、それともそれとも――。


 口に押し込んだフォズの手が、濡れていた。口腔内の指では無くて、手首や腕。気持ち悪い。目を拭いたいし鼻を啜りたい。もちろんそんなことはできない。嗚咽を漏らさないために、手をもう少し奥に押し込んだ。


 ふう――ふう―――ふう――――サイクロプスの息遣いが遠のいていく。やった、やった――と喜んだのもつかの間、すぐ近くに気配を感じるところまで近づいてくる。かと思いきやまた遠くへ。それを何度か繰り返したところでフォズは気付く。


 もしかして、わたしを探してる――っ!?


 サイクロプスの動きから、フォズがこの近くに潜んでいるとをつけていることは明らかだった。


 足跡があった? 呼吸が聞こえた? それとも、隠れるところを見られていた?

少し考えれば心当たりはいくらでも沸いてくる。しかし、やはりそれを今考えたところでどうにもならないのだ。フォズは祈ることしかできなかった。


 辺りに漂っていた絶望が、その粘度を増して身体にねっとりと絡みつくのを感じながら、理想の上で生み出した希望を待つことしかできなかったのだ。


 ふう――ふう――ふう――興奮した馬のような息遣いがすぐ真上で聞こえた。フォズは息を殺した――呼吸なんてずっと前からしていなかったけれど、それでもフォズは息を止めた。


 ただ、ただ、動きを止めていた。怖いとか、助けてとか、そういうことを考えたら漏れて伝わって感づかれてしまう気がして、思考も止めて、祈ることも辞めて、怪物が去るのを、姉が助けに来るのを、待っていた。


 ふう―――ふう―――どれだけの時間が経ったのか、風で葉っぱがすれる音、鳥のさえずり、遠くで獣の走る音、それらしか聞こえないことを確認して――フォズはたまらず、口から手を引き抜いて息を吸い込んだ。こひゅう、こひゅうと、肺を無理矢理に広げて空気を限界まで取り込んだ。


 手を地面に付いて、そのまま倒れるようにして姿勢を崩した。肩に深く枝が突き刺さる、わき腹、太もも、他にもいくつの場所にも熱を感じる、しかしほとんど窒息しかけているフォズの身体はもはや自分の意思では動かず、それを甘んじて受け入れるしかなかった。


 唇を噛んで苦悶の声を堪えようとして――もう気にしなくて良いのだということに気が付いて、ふふ、フォズは思わず笑ってしまった。ふふふふふ。それは緊張の糸が切れた反動だった。


 フォズは笑って吐き出した酸素を吸い戻してから、ゆっくりと姿勢を戻した。フォズはまだ幼くても優秀な狩人だった。緩んだ気を直ぐに引き締めて顔を拭うと、そこにいたのは死の恐怖に怯えた少女ではなく、冷静にして冷徹な狩人だった。


 いつサイクロプスが戻って来るか分からない。別なサイクロプスがやって来る可能性もあり得ない訳ではない。最大限の注意を払いつつ村の方へ戻らなければ。フォズはゆっくりと枝を引き抜き、慎重に茂みから這い出る。


 立ち上がろうとして、フォズは自分の身体が異様に重い事に気が付いた。いや、ここまで全力で逃げて来た訳だし失神する寸前まで息を止めていたのだから当たり前なのだが――そうではなく、力が入らない訳ではなく、何かの抵抗を受けているかのように身体が持ち上がらない。


 その正体に気が付いたのは、やはりフォズが狩人だったからだ――それは身体に纏わりつく、ねっとりと濃厚な絶望だった――フォズは視界に影が差すと生存本能のままに土を蹴り、すぐ目の前の落ち葉に顔から突っ込んだ――鈍い音、鈍い振動、慌てて起き上がって後ろを見る。つい先ほどまでフォズが潜んでいた茂みを樹の幹が押しつぶしていた。


 フォズは体勢を立て直すことも忘れ、唖然としてしまった。樹の根には明るい色の土がこびりついている。“何者か”が、たった今この樹を引き抜き、フォズに向けて投てきしたのだ。まるで槍のように……。そんなことができるのは何者か、分かり切っていた。


 その突き刺さった樹の向こうで一つしかない目がにやりと笑った。それが見えた訳ではないがフォズにはそれが分かったのだ。フォズはたまらず乱れた姿勢のまま駆け出す。とにかく動かなければ格好の的だ。


 ――と、正面に意識を戻して駆け出そうとして――「……ひっ」。狩人はまたもや哀れな少女に戻ってしまった。そこには殺意の巨人が充血した瞳で少女を見下ろしていたのだ。


 二体いた。それはフォズがずっと危惧していたことだった。まずないだろうと考えつつも、最後まで捨てなかった可能性。でも、幾ら警戒しようとも、“狩られる側”であるフォズには逃れる術はなかったのだ。

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