銀彩と血脈

第四十六話 大鬼

 侮っていた訳ではない。容易だと思っていた訳では、決してない。いざという時のために、最悪の事態のために、その備えは十分にしてきたはずだ。覚悟はしてきたはずだった。


 ハーフリングの背丈ほどの刃の斧を、大鬼は片腕で軽々と掲げ――そして振り降ろした。ただそれだけ。なんの変哲もない、無造作で武骨な、最低限の斧の用途を遂げただけの一撃だった


 しかし、ただそれだけにもかかわらず、その一撃は不思議な音を響かせる。例えるのなら革が引き千切れるような、大気に平手打ちを喰らわせたような、そんな耳障りな音――つまり、“ばつん”。


 骨を割り、鎧を砕き、筋線維を断ち。それらが圧倒的な腕力によって一瞬で遂行されることによって音が重なり、そのように聞こえるのだ――エンマディカは同志があまりにも無残にあまりにも哀れに散っていくのを呆然と視界にとらえながら、現実逃避的に、断続的に聞こえるその“音”の正体を分析していた。


「撤退――!」そんなエンマディカを見かねてか、副長のアラムが怒鳴り声をあげた。「武器は捨てろ、仲間は気にかけるな! 自分が助かることだけを考えろ!!」


 突然、乱暴にカフェトランの身体が後ろから引っ張られる。反射的に太もものホルダーから黒曜石のナイフを引き抜こうとして、――無い、戦闘が始まって直ぐに折られてしまったことを思い出した。


「カフェトラン、逃げるぞ!」


 と、フォズの身体を引きずっているのが同胞だということに気が付いた。ドワーフとトロルのハーフの青年ディコ。その奇妙な血統のせいでどちらの元でも生きていけず、ゴブリン領に流れ着いたという青年だった。


「……ディコ……あたし…………」


「もう無理だ!」


「でも、じゃあ――じゃあ、犠牲になった仲間が――」


 唐突にディコが身を翻し剣を振るった。カフェトランの不意を突こうとしていたオークの肩から腰までを切り裂いた。

 オークは血の泡を吐き出しながらも倒れることはなく、ディコを睨みながら斧を頭の上に持ち上げる。ディコはすかさず、返す刀でオークの首を跳ねた。


 ディコの返り血にまみれた長髪がカフェトランの頬を撫で、目の下から鼻、唇を撫で、首筋のところまで赤黒い線を引いた。


「これ以上犠牲を出さないために逃げるんだ。犠牲になった同胞のために、生きるんだよ!」


「……でも、あたしは――あたしは――」


 ディコは苛立たしそうに舌打ちをすると、乱暴にカフェトランの身体を持ち上げ肩に担いだ。「撤退だ! 怒りも憎しみも忘れろ! 泣き叫んで体力を無駄にするな! とにかく走るんだ!」


 しかし、ディコの声はすぐに悲鳴と鬨の声にかき消されてしまった。



*



「いつ来たって満足なおもてなしは出来なかったでしょうが、もう少し、せめてもう少しだけ状況がましだったら、と思わずにはいられませんね」


 ボガードと名乗ったトロルの言葉に、フォズは小さく俯いた。


 カフェトラン一団の野営地を見付けたのはドワーフの王国のひとつ、シルバービアード族を盟主とするシルバービアード国の領内の森の中だった。

 ドワーフの中でも輪をかけて排他的なシルバービアード民に見つかると厄介なので、街や街道を避け、森を超え山を越え、そして何度目かのこの森を抜ければオーク領、というところだった。


 頷いたまま俯いてしまったフォズに気が付いて、「あっ」、ボガードが閉まったというように声をもらした。


「……すみません、口が過ぎました。わざわざ、エルフ領からカフェトランに会いに来たっていうのに……」


「……いえ。私こそ、こんな時に来てしまって…………」


 野営地では焚火を中心として人が何十人もが横たわっていた。もちろん休憩しているのではない。うめき声がフォズの耳を障った。


 ただ傷の痛みや化膿に喘いでいる者はまだましな方だ。腕が欠損している者だって少なくない。野営地の隅の方には、十個ほどの麻袋が積みあがっていた。中身は……考えるまでもない。蝿がごちそうのにおいを嗅ぎつけて、どこからか集まり始めていた。


 わずかに残った五体満足の者たちは、彼らの治療のために走り回っていた。しかし医療の知識の無い彼らには死にゆく者たちの間を往復して包帯を巻くことしかできない。それか……ナイフで楽にするか。


 しかし、もし彼らが医療に通じていたとしても、結局できることは変わらなかっただろう。呻き苦しむ彼らにしてやれることなんて、もうないのだ。


「オークですよ」フォズが何か言うより先に、吐き捨てるようにボガードが言った。「麻袋は……今日の晩には倍になるでしょう。これだけじゃない。多くの同胞を、あの修羅の地へ置いてきた」


「……姉は、どこですか? ……いますか?」


 フォズはやっと、核心を訪ねた。彼の態度からカフェトランが生きているだろうとは思っていたが……万が一あの麻袋の中にいると考えたらと考えてしまって、どうしても尋ねることができなかった。


「安心してください、無事ですよ」


 ボガードは口元だけをわずかに緩めて、フォズを安心させるようにゆっくり頷いた。


「……!」フォズはふっと身体から力が抜けてしまい、ひざまずいてしまいそうになる。「本当に、よかったです……」


 そう言ってから、はっとして口元を押さえた。

 よかった、なんてことは、彼に対して絶対に言ってはいけない。しかし幸いなことに、ボガードは特に気にした風もなく、もう一度頷いて見せた。


「ただ……」ボガードはそう言って申し訳なさそうな表情を作る。「怪我はないのですが、その……」


「……なん、でしょうか?」



「……心の方が」


「……心、ですか……?」


「はい。平気なやつなんていませんがね、俺だって……。でもカフェトランは特にひどい。当たり前と言えばそうなんですが……まあ、会ってもらえれば分かると思います」


「そんなに、ですか……?」


 フォズの問いかけにボガードは何も答えず、曖昧に目を伏せただけだった。


「でも、俺はさっき間が悪いって言いましたが、もしかしたら逆かもしれない。こんな時だから、あなたはカフェトランに会いに来てくれたのかもしれない。……カフェトランは奥に居ます。案内します」


 幾つものうめき声。すすり泣く声。背中を丸めてそれらを横切りながら、フォズはボガードの背中を追った。


「ここです」とボガードが指し示したのは、やや外れの方にある、数個だけあるテントの中でも一際小さいものだった。「さあ入って」と入口の横に立ってフォズを促す。どうやらボガード自身はこの中に入るつもりはないようだった。

 フォズは意を決して、隙間から身をすべり込ませるようにテントの中へと踏み入った。


 中にはぼろ布のような布団が敷かれ、誰かがそこに潜り込むようにして横たわっていた

「……誰?」


 ぼそり、その人物が言った。暗いというより、今の今まで寝ていたという調子だった。


 フォズはどう答えようか悩んで――いや悩むことなんてない、「私」と、ただそれだけ口にした。


「……」若干の間があって、布団の中がばたばたと騒々しく立ち上がった。「フォズ!?」


「そうだよ、お姉ちゃん」


「フォズ……! ああ、夢みたい……!」


 カフェトランは瞳に涙をいっぱいに溜めて、フォズに抱き着いた。背の低い姉の鼻先がフォズの胸にうずまり、彼女の頭が顎に触れる。カフェトランの髪の毛は、汗と血と泥の臭いがした。

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