第四十三話 フォズのカード
例えば、絶体絶命の状況を、気の毒に思ったきまぐれな神が助けてくれる。あるいは、土壇場の状況で奇跡的な魔法の才覚に目覚める。こんなことは、絶対に起こりえない。
そんなことは誰でも知っている。知っているのだが、それでも逃避的にそんな希望に縋ってしまう。
狩人としての技術を叩きこまれる際、最初に教えられたのはその事だった。得物に命を任せ、命を屠る者としての心構え。危機を何かに縋ることなく――つまり状況の打破を諦めることなく、武器、知識、環境、発想、直感、その全てを使って生き延びること。
自分の持ってるカードを把握する。これはエンマディカの教えだ。じゃあ自分の持っているカードは何だ?
考える。考える。考えろ。着実に死が迫っているローニャン。何度も彼女の名前を呼んでいるマルゥク。そしてこちらに黒い視線を向けている黒面のレイス。それらがどんどん遠くなる。自分の意識から外れていく。自分の思考に溶け込んでいく。
交渉。エンマディカから習ったカード。レイスに交渉を試みるというのはどうだろうか――駄目だ。私は交渉に仕えるねたを持っていない。狩るというのも、もちろん論外。それができないからこうなっているのだ。
戦うことはできない、しかし交渉もできない。求められるのは注意を引いて逃げるか、交渉の材料を手に入れること。ここまでは分かってる、ただの確認だ。
武器、知識、環境、発想、直感。不思議と恐怖はない。生きることを諦めたからではない。死に怯えるだなんて贅沢は許されてはいないから。考える。考える。考えろ――そして、気付いた。
「……これならば」
確実ではないが、失敗するかもしれないが、この状況を突破できるかもしれない。これが最適ではないだろうことは分かる。でも、フォズの思い浮かんだ選択の中では最良だ。
……ひゅう――ひゅう――ローニャンのか細い呼吸が、はっきりと輪郭をかたどって聞こえた。「フォズさん……もう…………」。マルゥクが縋るようにしてフォズを見る。もう迷うことも許されないらしかった。しかしそれでいい。迷えないのなら、迷わなくて済む。
息を吸い込む。上手にできるかどうかは考えなくていい。失敗したらそれまでだから。
喉を細め、口をすぼめ――自分の声帯がそれのものになったつもりで――「キュウウウウウウ!」。墓所全体に、フォズの奇声が響き渡った。
突然のことにマルゥクが耳を押さえ、まるで狂人を見るかのような視線をフォズに向ける――それは黒面も変わらないようだった。憐れむような感情が伝わってくる。しかしその方が都合が良かった。
少々不恰好な声だったが、おそらく大丈夫だろう。重要なのは伝えようという感情。そしてそれには手ごたえがあった。
そもそも無理があるのだ、人が、構造も体格も異なるネズミの声を真似るだなんて。
そして――彼らはすぐにやって来た。
キュウ、キュウと無数の甲高い声と共に、階段の向こう、墓の裏、壁の穴、石畳の隙間から鼠が湧きだした。数百匹のイシバミたちは、大蛇、あるいは竜のように一つの流れを作り当りのレイスを追い払った。
うお、おお、おおお――……。レイスたちのうめき声は、この小さな鼠たちに怯えているように聞こえた。
イシバミたちはやがてフォズ達を取り囲むようにして動きを止めた。
キュウ、キュウと鳴き声を上げて目を光らせている数百のイシバミたち。フォズはその内の一匹を手に取って、背中を撫でた。イシバミはくすぐったそうに身をよじらせた。
こんな光景、普段なら半狂乱で取り乱してしまうだろうな。
急に気持ちが緩んだからか、掌に頭を擦りつける小さなネズミを見ながら、フォズはくすりと笑ってしまった。
「お前、ネズミどもを呼んだのか……!」
動揺と怒りの混ざった声が聞こえた。
ぽっかりと穴の開いたような黒面は変わらなかったが、その向こうにある表情は予想が付いた。
「えっ、じゃ、じゃあ、さっきのキュウウウって声って……」
「はい。イシバミ達に――あなた達の墓を食い荒らした彼らに、助けてくれるようお願いをしました」
この場所に足を踏み入れた時から、少し引っかかってはいた。
痕跡から、レイスたちの墓石を削ったのはイシバミでほぼ間違いなかった。しかしこの墓所にイシバミが生息しているのなら、墓石の被害はあの程度では済まないだろう。これだけのイシバミがいたのだから、そっくり更地になっていてもおかしくない。
だから誰かが駆除をしていたことになる――それがこのレイスたちだ。
しかしイシバミにとってはあの墓石はこれ以上ないほどのごちそう、そうそう諦めることはできない。だからずっと隠れ住んで、墓石や通路の石を食い、それをレイスが駆除し……そのイタチごこっこを続けていたのだ。
「これだけのイシバミがいれば、墓石なんてあっという間に食らい尽くせます。……私が何を言いたいか分かりますよね?」
「……脅そうというのか? この私を……」
「……」
こんなこと、本意ではなかった。
レイスたちには何の恨みもない。彼らの言う通り、彼らの眠る地に足を踏み入れてしまったのはフォズ達だ。だけれど、だからといって、死ぬ訳にはいかない。
大人しく従ってくれ……!
フォズはただ黙って、しかし力強く、黒面を見返した。
「何か勘違いしているようだが、妹よ。私はこの墓所にとらわれてはいるが、この墓石は私の力や存在に何ら影響を及ぼしていない。食いつくしたところでどうにもならない」
「でも力には関係なくとも、この墓石はあなたにとって大切な場所なんですよね? だからイシバミから守り続けていたのでしょう?」
「……」
「そしてあなたは、ここを綺麗にしたカフェトランに大変を感謝しています。墓を荒らした私が、カフェトランの妹“かもしれない”というだけで見逃すくらいは……」
「フォズさん、ローニャンさんが!」
泣き叫ぶように、マルゥクが言った。
ローニャンの方に視線を移す。彼女の様子は先程と変わりがなかったが、もう死の寸前にいる、ということは不思議と感じ取れた。もう一刻の猶予もない。
フォズはキュ、とわずかに喉を鳴らした。それを合図として鼠たちが毛を逆立て、盛んに鳴き声を上げ始めた。
キュウ、キュウという声が共鳴のして空間のあちこちから聞こえた――地面、壁、天井、その向こう、文字通り四方八方からだった。隠れ潜んでいるイシハミたちだ。
「もし彼女が死んだら、躊躇する理由はありません」
ぐううううう――……レイスが悔しそうな声をあげた。
「気が変わらない内に早く出て行け。直ぐにそいつを連れて消えろ。今すぐにだ!」
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