第三十七話 マルゥクとノフト

「昔は、ああじゃなかったんです」。帰路の途中、マルゥクは目を伏せてぽつりと独り言のように言った。街は日中とはまた違ったにぎやかさを見せていた。スラムから抜けてフォズが最初にしたことは深呼吸だった。


「はは、母が病気で死んで、父が居なくなって、路頭に迷っていた僕に声を掛けてくれたのがノフトだったんです。ノフトも僕と同じような境遇で、そ、それでも一人でスラムで生きてて……泣きじゃくっていた僕に見かねて、い、い、一緒に暮らそうと言ってくれたんです」


「その頃はまだ普通の見た目だったんですか?」


「はい。普通の、ほとんどヒューマンと変わらない容姿でした。でで、でも一緒に暮らして何年か経って……ある日、の、ノフトの顔にいぼができたんです。最初は流行り病か何かかと思ったんですが……」


「岩だった、と……」


 マルゥクは唇を噛んで、静かに頷いた。


「……それからです。ノフトが体中が痛いと苦しみだして……う、呻いたり、泣き叫ぶようになりました。ひ、ひ、酷い時は一日中……。お、おそらく、成長期に差し掛かって、いろんな種族の血が暴れ出したんだと思います」


 そして収まったことには、顔が歪んでいた、と続けた。


「……今でもそれは起こるんですか?」


「その頃程ではありませんが、たまに……。そ、そ、そのたびに、またどこかが変わるんです。……歩く事はできますが、う、腕は、ほとんど使えないんです。おそらく、もう何年ももたないでしょう…………」



*



 ほどなくして、ずっと向こうから小さな人影が手を振っているのが目に入った。その顔が見えるより先に、何故だかあの変わり者のゴブリンだと分かった。


「お疲れ様です。編纂はひと段落ついたんですか?」


 メレ・メレスの顔色はもうすっかり元に戻っていた。


「そうですね。まあ、これからも出版の関係でちょっと用があるんですが」


 図鑑の編纂や校閲などの件で、とメレ・メレスは疲労を隠せない顔で苦笑した。


「初めは個人的にやってるものだったので、文脈に不備があっても、誤字脱字があっても、別にそれで良かったんですがね。大々的に出版されるようになってからは、校閲やら専門家の指摘やらでもううんざりですよ」


「……本を出すのって大変なんですねえ」


「ですねえ。図鑑だから、というのもありますがね」


「あんたも、間違っても紀行文とかを出そうと思わない方がいいわよ。書くのはともかく、出版はやめときなさい」


 ローニャンは大きな欠伸を一つ、にじみ出た涙を親指で拭った。


「それでフォズさん、マルゥク、何か得るものはありましたか?」


「はい。どうやら姉は、この近くの墓所に滞在していたそうです」


「墓所……?」


 メレ・メレスは顎に手を当て首を傾げた。やがて怪訝な面持ちになり、「もしかしてエルフの地下墓所ですか?」とマルゥクに訊ねる。マルゥクは首を縦に振った。


「それはそれは……」


「……何かまずいんでしょうか?」


「あそこにはレイスが出ると言われています」


「レイス! ……ですか」


「ええ。ですからまず誰も近寄りません。まあ、だから実際のところはよく分からないんですがね」


「……姉は大丈夫だったんでしょうか」


「それを知りつつ向かったのなら問題ないでしょう。対処法があるならば、レイスはさほど問題のある相手ではありませんからね。しかし――」


 メレ・メレスは一旦そこで言葉を切り、フォズとローニャンの顔を交互に見た。フォズは疑問に、ローニャンは何かを否定するように、それぞれ首を横に振った。


「わたくしたちではそうはいきません。わたくしはもちろん、ローニャンは魔法を使えません。……フォズさんも使えませんよね?」


「……そうですね」


 肉体を持たないレイスには、剣や弓などの物質的な攻撃は効果が薄い。全く無意味、という訳ではないが、しないよりまし程度。まともに戦おうと思えば魔法が必須なのだ。


 しかし魔法が扱えるのなら話は別である。レイスは非常に脆い存在だ。かなり低級な魔法でも消滅させることができる。……フォズはレイスと対峙する以前に見たこともないので、あくまで聞いた話だが。


「……ですからマルゥク、お願いできますか?」とメレ・メレスが言うと、彼は大きく頷いて「ま、ま、ま、任せてください!」と声を張り上げた。普段の吃音だけでなく、緊張したように声が強張っていた。


「マルゥクさん?」


「僕なら戦えます。僕、魔法が使えます」


「そ、そうなんですか?」


 フォズは驚いてマルゥク、そしてメレ・メレスとローニャンの顔を見た。マルゥクはおどおどした様子で目を伏せ、メレ・メレスは白い歯を見せ、ローニャンは「聞いてなかったの?」とあきれた様子。


「い、いえ、僕が言ってなかっただけです。急にそんなことを言ったら、何だか自慢みたいになっちゃうから」


「いや、十分自慢じゃない」とローニャン。「魔法の才能が有る、それだけでこれ以上ないほどの才能でしょ」


「そ、そ、そう、ですかね……」


 するとローニャンはわざとらしくため息。「その才能を一体どれだけの人が羨んでるか……ちょっとでも世界を見れば分かるわよ」


「そ、そんなにですか?」


「本当はこんなところでくすぶっていないで、大きな街でも行って、何でもいい、魔法使いでも傭兵でもいい、もっと大きなことをするべきなのよ」


「は、はあ……」


「まあメレ・メレスは困るかもしれないけど? でもあたしは、少なくとも小間使いとか雑用係で収まってていいとは思わないけどね」


 ……ローニャンは嫌味を言うか不機嫌そうに黙っている印象ばかりだったので、こうして(若干高圧的ではあるが)人を褒めている姿は、かなり意外なものだった。


 二人のやり取りと物珍しげにじっと見ていると、フォズの様子に気が付いたメレ・メレスがにやっと笑って見せた。そして「ローニャンはマルゥクのことが心配なんですよ」と耳打ちをした。


「彼を連れてきて雇ってやってくれと言ったのは彼女でしてね。……一体どこで出会ってどんなやり取りがあったのかは分かりませんが、ずっと彼のことを気にかけているのですよ。……まあ、彼の境遇とか、ノフト君のことを思えば、それも当たり前ですけれどね」


「……ノフトさんのことを知ってるんですか?」


「もちろん。フォズさんは彼に会って来たんでしょう?」


 フォズは目を伏せて頷いた。「どう感じました?」と彼は訊ねた。


「……それは、上手く言えないです。でも、なんだか……苛々します」


「……そうでしょうね。おそらくそれが正しい反応です。大きすぎて姿の見えない、上手く言葉に表せない――それでも言葉に表すのなら、”理不尽さ”に対する怒りとでも言うのでしょうかね」


 理不尽さ。おそらくそうなのだろう。

 これまでに見た差別や迫害のように、明確に”悪人”のいる問題ではない。ノフトのように理不尽に苦しんでいる人がいることに対する――世界に対する漠然とした怒りだ。


「マルゥクさんは、ノフトさんを養っているんですよね?」


「はい。ただ生活の面倒を見るだけではなく、苦痛を和らげるための薬を工面したりしているそうです。……マルゥクもね、本当は外に出たいんですよ。ローニャンもそれは知ってるんです。ノフト君はわたくしたちの方で何とかする、と提案したこともあるんですがね」


「でも、マルゥクさんの気持ちもわかります……。命の恩人を放ってはおけないでしょう。自分が世界を見ている間に、友人は光の差さない部屋で苦しんでいるなんて……」


「ええ。ええ。それも分かります、分かってはいるんです。……わたくしもどうするべきなのか分からないのです。でも、マルゥクの意思を否定する訳にもいきませんからね。そうなってしまえばただのエゴですから……」


「でもローニャンさんはそうは思わないと」


「……難しい問題です。わたくしにできるのは、ただ、彼の意見を尊重するだけです」

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