第三十六話 戦争が残したもの

「やあ、会いたかったよマルゥク!」


 その部屋には、扉の隙間から差し込んだ僅かな光しか灯りと呼べるものが存在しなかった。

 スラムの建物に日取り窓という概念は存在しないのとほとんど同義らしかった。建物同士がひしめき合うこの街では、たとえ窓があったとしても換気も日光を取り込むこともできないからだ。


 そんな闇の中では、椅子に見立てた小さな木樽のようなもの腰を下ろした人影が、陽気な声でマルゥクを呼んだ。高い――というより、幼い声だ。漠然と見えるその輪郭は、マルゥクよりも一回りは小さかった。


「や、やあ、ノフト。相変わらずみたいで」


「うん、ぼくは相変わらずだよ! でも、今日は急にどうしたの? いつもの日でもないし、ついこの間来たばっかりだよね……あれ?」


 ノフトという少年はフォズの姿に気が付いたらしく、「この人、誰?」と顔をこちらに向けた。


「こ、この人が、この間話した――」


「あ、ああ、分かった! あのブラッドエルフの妹さんだね!」


「――アーフェンのフォズオランといいます。その事について詳しく話を聞かせてもらえればと……」


 フォズは丁寧に腰を折ると、ノフトと呼ばれた彼は「あはは!」と可笑しそうに笑い声をあげた。


「いいよいいよ、そんなに気を遣わなくて! マルゥク、椅子を持ってきて! お茶もお茶請けもないけど、できる限りのおもてなしをしなくちゃね」


 マルゥクは「分かったよ」と苦笑しながら頷いた――互いの表情もはっきりと見えない程に暗いので、おそらくだけれど。そしてそんな暗闇なのに、マルゥクは手こずった様子もなく木樽を抱えて持って来た。


「ここ、座ってください。き、き、汚くは、ないはずです」


「もし汚くても気にしませんよ。……失礼します」


「それで、フォズオランさん? だよね? ぼくはノフト、よろしくね」


「はい、よろしくおねがいします」


 ノフトは上機嫌そうに身体を左右に揺らした。


「じゃあ早速だけどお姉さんの話……って言っても、そんなに話せることがある訳じゃないんだよね。フォズオランさんのお姉さんが来たのって結構前だから。昔って程じゃないけど、結構前」


「具体的にいつなのかは覚えてないってこと……ですよね」


「そ、そもそも、このスラムにはそういう人たちが頻繁に来るんです」


 そう言ったのはマルゥクだ。彼はもう一つ新たな樽を持ってきて、フォズの隣に腰を下ろした。


「そう、そうなんだよ。革命家とかブラッドエルフとかそういう大層な人たちが度々やって来ては、スラムの人たちを先導して連れて行くんだ。ここの住民は戦争の被害者だから、今の世界に対して相当な不満を抱えてるからね。でも、若い女の人が凱旋をしてるのは珍しかったなあ。初めてだったかもしれない。だから覚えていたんだよ」


「それがカフェトランだったんですね」


「カフェトラン? ……ああ、君のお姉さんの名前ね。いや、それは分からないよ?」


「えっ?」


「ほら、だって、ぼくは君のお姉さんの特徴を知らないからね」


「あ、ああ、そういえば……」


「……でも、本当に申し訳ないんだけど、その人がどんな見た目だったのかを覚えてないんだよね」


「くすんだ橙色の髪をした、背の低いエルフなんですけど……」


「うーん……そんな風だった気もするし、違うような気もする……。や、本当ごめんね、女の子だったことは覚えてるんだけど、そこしか覚えてなくてさ……」


 まあ、しょうがない。ずっと前に見かけただけの人物の特徴を覚えている方がおかしいだろう。


「でも」


 ノフトは勢いを付けて樽から飛び降りて、一歩、フォズの方へと近寄った。


「顔は覚えて無くても、何となくの雰囲気の覚えてるものだよね。例えば、凛々しい人だったとか、気難しそうだったとか。で、ぼくがフォズさんとカフェトランさんで抱いた感想は大分違うんだよね」


 この暗さで私の顔が見えるのか? と驚いたけれど、それは本題ではないので口には出さなかった。フォズとカフェトランが似ていないのは、当たり前のことだった。


「私と姉は、血が繋がっていませんから。……おそらく、ですが」


「血が繋がってない? ……おそらく?」


「く、詳しく聞いても、大丈夫ですか……?」


 遠慮がちに、マルゥクが訊ねた。もちろん、とフォズは頷いた。


「私と姉は、捨て子なんです。……いや、それも正しくないかもしれません。戦争が終わってほどなくして、姉と一緒に森の中にいる所を拾われた……らしいんです」


 乳飲み子をまだ卒業していない大きさだった、とフォズは聞いている。その頃の記憶は――ほとんどない。ただ漠然と、ずっと姉に守られていたような感覚があるだけだ。

 カフェトランも同じで、はっきりとした記憶はないらしい。気が付けばフォズと一緒に森に居て、何とか生きながらえていた、と。

 だから、フォズとカフェトランは元々どういう関係なのかは分からないのだ。本当の姉妹なのか、そうでないのかも分からない。


「せ、戦争孤児、ってやつなんですか?」


「おそらくそうだと思います。それすらもハッキリしないんですけどね」


「……それなら、まあ納得かな」とノフトが言った。「ぼくは記憶力にそんなに自信がある訳じゃないけど、それでも断言できるくらい、フォズさんとその人は雰囲気が違ったからさ」


「その人を見て、どんな風に思いましたか?」


「君は、凄い穏やかだ。でもあの人はもっと張りつめた感じが有った。ブラッドエルフなんだから、まあ当たり前と言えば当たり前なんだけど――ああ、いや、思い出した、あの人はすごい背が低かったな。うん、間違いない。最初見た時、子供かと思うくらいだったから。カフェトランさんは背が低いんだったよね?」


「はい、かなり。……私と姉は、誰が見ても血が繋がっていないと感じるくらい、見た目は似ていませんでした。


「っていうか、君の方がお姉さんみたいだよね。背も高いし、大人っぽいし」


「そうかもしれません。正直なところ、それも分からないんですよね」


「……なのにお姉さんって呼んでるの?」


「私の方が年上でも、血が繋がってなくても、ずっと私は守ってもらってましたから……」


 別に、その関係性は“姉と妹”でなくてもいい。“母と娘”でも”友人”でもなんでもいい。ただフォズは、ずっとカフェトランに守ってもらっていた。森を彷徨っていた時も、狩りの時も、何気ない日常の時も。その関係性を表現する一番しっくりくる言葉が”姉と妹”というだけだ。


「ノフト、そ、そのブラッドエルフは、何か言ってなかったの?」


「うーん、それなんだけど……」


「どど、どこに行くつもりだとか」


「……感情的で直情的で、しかし射幸心を煽る先導的な演説」


「……えっ?」


 突然ノフトの口からすらすらと出てきた複雑な言葉の連続に、フォズとマルゥクは揃って首を傾けた。


「決して上手だった訳じゃない、感情的な言葉だった。でも、だからこそなのか、引きつけられる魅力――カリスマって言うのかな。この人に付いて行きたい、付いて行けば何とかなる……、この街の至る所で、そんな演説をしてたよ、フォズさんのお姉さんと思しき人物は。うん、具体的な内容は覚えてない、これも感想だから」


「……そうですか」


「あと僕はあんまりそういうのに興味がないから、途中からはあんまり聞いてなかったんだよ。うるさいの、嫌いだし」


 だんだんと闇に慣れてきた視界の中で、ノフトの小さなシルエットが大げさな動作で肩をすくめたのが見えた。よっぽどうるさかったのだろうか、彼はその時のことを思い出して「はあ」とうんざりしたように溜め息を吐いた。


「でもね、この人はすごかったよ。こういう人って結構来るから、もうみんな見慣れちゃって、大してまともに取り合わないんだよ。でもこの時は演説を聞こうと凄い人だかりが出来てさ。興味の無い僕でもちょっと心動かされたんだから、大勢の人がその人に付いて行ったんだろうね……――あっ」


 ノフトは何かに思い至ったように言葉を漏らした。


「なにか思い出しましたか?」


 フォズが食い気味に訊ねると、ノフトは「うん」と頷いてから、「墓所だ」と言った。


「どこへ行くかは言ってなかったけど……この近くにある墓所を滞在拠点にするって言ってた。“興味のあるやつは訊ねてこい”って……」


「お墓、ですか……?」


「うん。随分罰当たりだよねえ。もうそこにはいないだろうけど、もしかしたら何か手がかりがあるかもしれない。ただ、スラムの外を知らない僕には肝心の場所は分からないんだけど……」


「それなら、ぼ、僕が、案内できます」マルゥクが小さく手を挙げた。「立ち入ったことはありませんけど、場所なら分かります」


「……どう、フォズさん?」ノフトが樽に座り直して、フォズの顔を見た。「多分これでホントに全部だと思うんだけど、何か聞いてくれれば忘れてることを思い出せるかもしれない、もしかしたら」


 ……。フォズは少し考えてから、首を横に振った。


「いえ、それが知れれば十分です」


「そっか。力にはなれた?」


「十分すぎるくらいです。ありがとうございました」


「どういたしまして。……その人がお姉さんだといいね。きっといろんな街でここと同じようなことをしてるだろうから、急げばカフェトランさんに追い付けるかもしれないよ」


 急げば追いつける。

 その言葉はフォズの耳に入って、脳に染み込み、そしてそのまま下に落ちる。どくんと、心臓が大きく揺れる。


 自分が興奮しているのが分かった。そして緊張もしている。今までは姉の足取りを探す旅だった。だけれど、その人物が本当にカフェトランなのなら、これからは足跡を辿る旅になる。

 その意味は大きく変わる。姉の後ろ姿が、見えてくる。


「……はい、本当に。思い出してくれて、ありがとうございました」


「じゃあ、得るべきものを得たのなら、すぐにここから出て行った方がいい。まだ十分に明るいけど、暗くなったら大変だ」


 そしてノフトは、今度はマルゥクの顔を見た。マルゥクはそれに同意するように頷いた。


「こ、ここは、そ、外から来た人が長居するような場所じゃないですから」


「治安が悪いからですか?」


「それももちろん、あるけどね」


「……なんだか含みのある言い方ですが」


「この街は戦争の負の遺産なんだよ。フォズオランさんみたいな戦争孤児もそうだと言えるけど、だからこそ知らない方がいい」


「……どういうことですか?」


「戦争によって生まれた、戦争を知らない人だからだよ。まだ、いい。まだ平気だ。でも暗くなったら、この街は、君の知らない世界だ。物も、人間も、ね……」


 そして、この暗闇に灯りが生まれた。いつの間にか、マルゥクの手には火のともったランプが下げられていた。

 そこで初めて、フォズはノフトの顔を見ることになった――。


 つぎはぎのようだった。褐色の皮膚には、まるでやフジツボのように、点々と岩が張り付き、また一部は腐ったかのような緑色にれている。片方の耳は尖り、もう片方は殆ど形を残していなかった。

 そして何より、その骨格。骨が溶けてしまったかのように、歪み、ねじれ――人としてというより、生物として不自然な形に変形していた。


「――っ!」


 思わず声を上げそうになって、フォズは咄嗟で口元を押さえた。


「異種交配の成れの果てだよ」


 ノフトの唇が、不自然な形にゆがめられた。

 声の調子は、今までと何ら変わらない陽気な声だった。


「……いくつもの種族の血が混ざると、こうなるんです」マルゥクは痛ましく目を伏せていた。「は、ハーフに障害が出るのも、い、生き物としてまぐわるのに無理があるからです。じゃあ、幾つも血が混ざったらどうなるのか?」


「それがこれさ」


「……」


「別にどう思う必要もないよ。このスラムじゃあこれが普通……とまでは言わないけど、別に珍しくもないんだ。……もしもっと知りたいのなら夜まで待つと良いよ。闇夜と共に、僕たちの時間が始まるんだ」


 この顔じゃあ、僕らはお日様の下を歩けないからね。そう言ってノフトはけらけらと笑った。


「……戦争の負の遺産」


「そうさ。……ね、ぼくの言ったことの意味が分かったでしょ?」


 戦争の負の遺産。

 フォズはもう一度、心の中でその言葉を反復した。

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