第三十五話 膿の街

 スラム街――それが貧民街を意味するということは知っていたが、しかしそれ以上のことは何も知らない。だから眼前に広がるその光景を見て、フォズは言葉を失っていた。


 フォズの言葉と知識で表すのなら、そこは彼女がこれまでの人生のほとんどを過ごした森だった。立ち並ぶ粗末な建造物の密度は、森に生える木々の密度とほぼ同じように思えるほどだった。計画的に生えているのではない、空間の余っているところに敷き詰めましたという感じ。


 しかしフォズの愛した森とは致命的に違う部分が一つ――森と違うことなんて誰にでも分かるし一つでは済まないのだが――それは色だった。それは視覚的なものでもあり、感覚的なものでもある。


「……こ、こ、こういうところは初めてですか?」


 心配そうに顔を覗き込みながらマルゥクが訪ねた。そこで、自分の足が止まってしまっていることに気が付いた。


「はい。でも、大丈夫ですよ」


なるべく明るい調子で答えたつもりだったが、声が震えているのが分かる。マルゥクは心配にひそめた眉を、更に歪な形にした。


「早く、す、済ませましょう」


「……すみません、気を遣わせてしまって」


「も、森エルフなら、こういうところが苦手なのも、しょうがないですよ」


 あまりにも息苦しい空間だった。濃密な、重苦しい、どろどろとした、肌にねっとりと絡みつく鬱屈とした空気。この街に満ち満ちているその空気を、フォズは経験したことがなかった。……抽象的に例えるのならばそれは、絶望が腐ったような空気だった。


 スラム街の住民たちは、(彼らに比べれば)小奇麗な格好のフォズとマルゥクが通りかかると、意識は向けるもののすぐに興味なさそうに自らの営みに戻っていく。スラムの外の人間がやって来ることは珍しくないのか。それとも、珍しいからこそ関わらない方がいいと判断されたのか。


「あれ……?」


 路地を歩いてほどなくして、フォズはその違和感に気が付いた。


「随分と……ゴブリン以外の人が多いですね?」


 ここまででフォズは一度もゴブリンの姿を見ていなかった。スラムの異様な雰囲気ばかりに気を取られていたが、本来ならば真っ先に気が付いても良かったことだった。

 スラムではない場所ならば、それも納得できる。ゴブリン領は多くの種族が商売のために世界中から集まる場所なのだから。

 だけれどここは違う。ここは人々が住み、生活するための場所だ。ゴブリン領にもかかわらず、こんなにも大人数の他種族が生活をしているのか……?


 そして彼らが“どの種族なのか”、というのも問題だった。今フォズの視界に映っている十数人の人たち、端的に言えばフォズには彼らがどの種族なのか分からなかった。

 体格はハーフリングなのに身体にトロルの特徴を持つもの、エルフの尖った耳を持ちながらオーガのような屈強な肉体を持つもの、背中に中途半端な羽根のような器官を持ったヒューマンなど――この街にばかり意識が行ってしまっていたが、本当にどうして直ぐに気付けなかったのだろうというほど、ここの住民たちは――なんというか――おかしかった。


「マルゥクさん、ここの人たちって……?」


 フォズはもう、気分の悪さを隠すことも出来なかった。それでも彼らに聞こえたらまずいだろうと思って、マルゥクにそっと耳打ちをするようにして訊ねた。


「……?」マルゥクは不思議そうに首を傾けたが、すぐにはっとして「もしかして、フォズさん、ここのこと、知らなかったですか?」と聞き返してきた。この異様なスラムのことは、ポポロアマの人間にとって当たり前のことらしい。


「このスラムは、ハーフばかりなんですか……?」


「は、はい、そうです、ほとんどがハーフです。そういうところなんです」


「ハーフの……スラム…………」


 ハーフの数は少ない、と聞く。恋愛関係に陥ることができるほど種族間で仲が良かった時代がない、というのはもちろんだが、その最大の理由は容姿である。

 差別意識や敵対意識がなかったとしても、例えばゴブリンとトロルと恋愛関係に落ちるというのは、難しいだろう。容姿が近しいヒューマン、エルフ、ハーフリング間ではままあると聞くが、しかしそれでもフォズがハーフを見たのは片手で数えられるほどだった。それがこんなに、しかも先の三種族以外が数えきれないほど……。


 ゴブリン領にハーフが多いその理由は、分からなくはない。多くの種族が集まるここは、他と比べれば生まれやすい環境にあるだろう。

 しかし、だとしても……彼らだけでこんな規模の区域ができるというのは明らかにおかしい。それにここが”ハーフの街”ではなく”スラム”と呼ばれていることも。

 ポポロアマの中心街では彼らは全く見かけなかった。一体全体、何故ハーフばかりが生活に困窮することになっているのだろうか?


 フォズがその事を尋ねると、マルゥクは「はっきりした由来は分かりませんが」と前置きをしてから、言い辛そうに口を動かした。


「り、理由は一つじゃありません。でも、み、み、耳戦争、ほとんどそこに原因があります」


「……耳戦争……ですか」


「は、はい、戦争の途中に何人も異種混血児が望まずして生まれたんです。……その、生まれた理由を考えれば分かると思いますが…………、はは、ハーフは、ほとんどが敵同士だった種族間で生まれてるんです」


「……そう、でしょうね」


「……自分の故郷を追われたハーフの人たちが辿りついたのがこのゴブリン領で、彼らが集まって生まれたのがスラム……って、いう話です。ご、ゴブリンたちは、容姿や血筋程度じゃあなんとも思いませんから」


 結局、今の時代というのは耳戦争で刻まれた傷跡だ。フォズはそう改めて思った。そしてその傷跡は、癒えるどころかどんどん化膿し、広がっている。


「……あの、失礼ですが、マルゥクさんも…………」


「あ、は、はい、そうです、僕はここで生まれました。スラム二世ってやつです。ぼ、僕はかなり運が良かった方ですけどね」


「と言いますと……」


「ぼ、僕、こ、こういうとあれですけど……普通な見た目でしょう? だからスラムの外で働くことがで、できたんです。ちち、父も母もヒューマンとエルフのハーフだったので、あまり多くの血が混ざらなかったんです。あと、しょ、障害が少ないのも助かりました。混血障害って、わわ分かります?」


 混血障害――異種族間で生まれた子供に起きる、精神や肉体の障害のことだ。フォズはこれに頷いた。


「ぼ、ぼ、僕は、ちょっとした吃音だけですから。コミュニケーションがとり辛い程度で済んでいます。けど……」


 マルゥクはそこで言葉を切って、首を動かさないまま視線を左右めいいっぱいに動かした。


「……本当に、ぼ、僕は恵まれている方です」


 目を伏せて、まるでこの貧民街の人々に謝罪するようにして呟いた。

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