第三十三話 理想と現実
「……ふん」顎髭のエルフはフォズを見下すように鼻を鳴らした。「まあいい。じゃあそっちのゴブリンはどうだ? 茂みの中にいるんだろう?」
「……わたくしですか?」
のっそりと、メレ・メレスが茂みの陰から姿を現した。その隣にはローニャンが、彼を守るようにして立っている。
「おまえ、さっきこいつに畜生以下のような扱いを受けていただろう。そっちのドワーフもそれに対して激高していたな。……このエルフは随分と薄情だったな。友人が蔑まれても声一つ上げなかった――しかしお前らは違うだろう? このヒューマンを殺したいほど憎いのだろう?」
「……」
メレ・メレスもローニャンも、何も言い返さなかった。ただ神妙な面持ちで――メレ・メレスは足元を、ローニャンは彼らを睨みつけるようにして見ている。
そんな彼らに向けて、彼は腰の短剣を投げた。放るようにして投げられたそれは、二人のやや先で腐葉土に受け止められた。
「一本、貸してやろう。どう使うかは分かるな?」
「――おい、やめっ、やめろよ!」
「うるせえ」
騒ぎ出すヒューマンの頭を、ドワーフが斧の柄で殴りつけた。彼は平衡感覚を失ってその場に倒れ込み、口をぱくぱくと動かしていた。
メレ・メレスは、うなだれるようにしてその場に俯いていた。
そしてぽつりぽつりと、独白するように喋り出した。
「わたくしはゴブリンです。ずっと、気を遣わせてしまいましたね。あの程度のこと何ともないのですよ。わたくしはゴブリンですから、もっとひどい目に何度もあっておりますから」
「……メレ・メレスさん?」
フォズは何か不穏なものを感じて、彼の名前を呼んだ。
メレ・メレスはそれに応じることもなく、俯いたまま言葉を続けた。
「ええ、慣れました。慣れましたとも。……しかし、言われるのは慣れても、この――悔しさとやるせなさは、決して変わらないものです。こればっかりは消えてくれない」
メレ・メレスは一歩前に出て、足元の短剣を見下ろした。虚ろな目だった。
「正直ね、正直……ありますよ、殺したいと思ったこと。もちろんありますよ」
「そうだろう。結局、何も変わっていないのだ。種族間の差別が戦争に発展し、その後連合によって種族自決の理念に領地が定められた――だが何も変わらないのだ。差別の意識は消えず、種族の対立はそのまま、あの戦争が起こる前と何も変わらないのだ」
「でも、それは違うのですよ」メレ・メレスは短剣を拾い上げると、目を瞑って首を振った。「殺したい、だから殺す。それは、違うのです」
「……なんだって?」
「そんなの、理性の無い怪物となんら変わりません。現状に不満があるからといって、暴力で自分の理想に無理矢理変えるなんてのは、あまりにも幼稚過ぎるとはおもいませんか。うふふふふ……」
いつの間にか、彼の口元にはいつもの不敵な笑みが浮かんでいた。
「申し訳ありませんが……わたくしも誇りはあるのです。矜持があります。ですからわたくしはそれを貫きますよ」
「……所詮は劣等種族か。奴隷にされて抗う牙をも失った」
「うふふ」メレ・メレスは苦笑を浮かべた。「結局、あなた達も変わってないじゃないですか。優れているのはヒューマンかエルフか、それをいつまでも続けているだけだ。わたくし達からしても、うん、やはり何も変わっていないのですよ」
「もういいよ」と今度はドワーフ。「もういいだろう。つまりこいつらは、おれたちの邪魔になる」
「……」
メレ・メレスはやれやれといったように肩をすくめて、フォズに苦笑いを見せた。
「まったく、そんなことないとは分かってたけど、でもひやひやするようなことしないでよ」
ローニャンがメレ・メレスの隣に並んで、彼の手から短剣をひったくった。
「あんたらは差別されてる自分が可哀そうって思ってるみたいだけど、」ローニャンは剣の切先をエルフたちに突きつけた。「あたしたちは世界を旅してるの、そんなことはいやという程知ってるわ。ただ見てきたわけじゃない、耳で、肌で、教えられたわ。だから、復讐とか今の体制への反抗とか、そんなこと散々考えたわよ。考えたうえで、そんな所、とっくに通り過ぎてるの」
「うふふ。思えば散々な目に合ってきましたねえ」
「むかつくとか憎いとか、それはもちろんとして、そんな事は心が壊れるほど考えて、でもあんたらのやり方が正しいとは思えないのよ」
「ならそれに耐えてさもしく生きるのが正しいと言いたいのか?」
「力で解決しようってのが気に入らないって言ってるのよ」
「事態はもうそんな段階にはないんだよ!」ドワーフは顎髭を揺らしながら、激しく声を荒げた。「世界はヒューマンの思う通りに回っているんだ! 世界を動かす権利があるのはあいつらだけだ! 結合だって結局大した力は持っていないじゃねえか!」
そしてドワーフは衝動のままに斧を掲げローニャンに突進、「うおおおおお!!」――怒りや鬱憤といった様々な負の感情の混ざった叫びが大気を震わせた。
ローニャンはそれに一切動じなかった。普段通りの冷たい目で――つい先ほどメレ・メレスを冒涜された際に見せた感情的な姿など嘘のように、冷淡に、無感情に見えるほど冷淡に、短剣を投てきした。
短剣は真直ぐ吸い寄せられるようにドワーフの顔に迫っていき――ドワーフが驚きに目を見開くが、すぐにその目から意思が消え、血に塗りつぶされた。
ローニャンの腕力で放たれた短剣に直撃したドワーフは、頭だけが後ろに押し出され、しかし足は前に進もうとし――まるですっ転んだかのように身体が宙に浮いて仰向けに落ちた。
「――っ!」
息を飲んだのは、フォズだけだった。フォズは――人を殺す瞬間を、人が殺される瞬間を、その命が絶える瞬間を、見たことがない訳ではない。
ただ、やはりフォズはまだ田舎の村の年頃の少女だった。平和とは言えないが、戦争が終わった時代に生まれた少女だった。
殺された死体と、殺される人間は、全く違う。きっとそれは、まだフォズが人を殺したことがないから。卓越した殺す為の技術を持ちながらも、暴力の世界には生きていなかったことの表れだった。
ローニャンの次の行動は早かった。自分が殺したドワーフには目もくれず駆け出していた。そしていつの間にか手に持っていた小石を、顎髭ではない方のエルフに投げつけた。
石は命中し肉を抉る。「ぐうっ!」。その隙に血の飛散した斧を拾い上げ、膝をついたエルフの顔を勢いそのままに切り上げた。
「……お前も同じじゃないか」
あっという間に二人の仲間を殺したローニャンを睨みつけながら、顎髭のエルフが長剣を構えた。しかしローニャンはその言葉が――まさか聞こえていない訳ではないだろうが、一切気に留めず斧を構えて飛び掛かった。
互いの怒声、金属同士がぶつかる音。しかし長剣と斧では、ぶつかった時点で勝敗は決していた。一際大きな金属の音が響き、そして次には不気味な音。くぐもった、湿った、固いものが折れる音。
エルフは首から血を吹き出しながら、糸が切れたようにその場に崩れ落ちた。即死ではなかった。呼吸の旅に赤い泡を吐き出しながら、恐ろしい恨みのこもった目でローニャンを見上げる。
「お前……同じだ…………」
「……」ローニャンは斧を放り捨てると、黙って彼を見下ろした。
「……同族を…………自らと同じドワーフを…躊躇いなく殺した………。理念のためには殺しもいとわない――結局何も変わらない!!」
それが最後の言葉だった。悲痛のこもった声で叫ぶと、首と口から激しく血が吹きこぼれ――それだけだった。
やはり、誰も何も声を発せなかった。動く事も出来なかった。ローニャンは返り血を拭おうともせず、ただ黙ってエルフの死体を見下ろしていたし、メレ・メレスはただただ悲しそうにその様子を見ていた。そしてフォズも――――。
「うっ――ううっ――――」
その鳴き声はノームたちのものだった。アダマは血で汚れることもいとわずに、仲間の死体を抱き上げていた。
「どうして、こんなことに……どうして……」
他のノームたちも動きだし、仲間の死体を抱きしめ、まぶたを下ろしてやり、そして泣き叫んだ。
「どうしてこんなことに――一体誰が、一体どっちが、一体何が、悪いんだ?」
そしてアダマは、縋るようにメレ・メレスを見た。
「横暴なヒューマンか? それに抗うエルフか? 全く違うやつか? なあ――なあ――ぼくたちは、一体何を恨めばいいんだ?」
しかし、その問いに答えられるものは、誰もいなかった。
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