思い出した想いと煙管(キセル)の香り

龍央

思い出した想いと煙管(キセル)の香り



「らっしゃい」


 馴染みの店のドアを開け、中へと入る。

 カランカランと、ドアに付けられた来客を報せるための鈴が耳に心地良い。

 奥からは、しゃがれ始めたような声が聞こえ、私が来客した事を歓迎している。


「琴栄さん、また来たよ」

「なんだ、アンタか敬次」


 私の名前は敬次郎だが、琴栄さんはいつも私の事を敬次と略して呼ぶ。

 敬や、次郎なんてのはよく呼ばれていたが、敬次と中途半端に略すのは琴栄さんくらいかな。


「なんだとはなんだ。せっかく来た客なのに」

「アンタは大して買い物をしないじゃないか。ただの邪魔者だよ」


 そう言いながら、着物の袖から煙管を取り出して火を付ける。

 煙管の香り、いつもの香り。

 琴栄さんは、今時珍しく着物を常に着ている変わり者だ。

 着物と煙管が妙に合っていて、この店の雰囲気を彩っているようだ。

 まぁ、この店に足しげく通っている私も、変わり者か……。


「それで、今日は何の用?」

「特に用はないんだけどねぇ」


 煙管を吹かせてる琴栄さんを見ながら苦笑する。

 いつも会社帰りにこの店に寄るのだが、ほとんど用がある事は無い。

 強いて言うならば、単純に話をしに来た……というだけだろう。

 この店……琴栄さんの営む店は、輸入物も扱う雑貨屋だ。

 昔懐かしい駄菓子や、独楽なんかもあって、何を主に扱っているのかわかりづらい。

 だが、そんな中で琴栄さんの人徳か、ここにいると何故か落ち着く。


「またか……はぁ……早く帰りな。家には妻も子供も待ってるんだろう?」

「そうなんだけどねぇ。なんだか、いつもここに足が向くんだよ」


 追い返すような事を言いながらも、琴栄さんが座っているレジの横、そこに置いてある電気ケトルからお湯を急須に注ぎ、お茶を淹れてくれる。

 琴栄さんの周辺には、陳列されている雑貨以上に色々な物が置いてあり、立つ事無く用を済ませられるようになっている。

 これも、面倒臭がり屋な琴栄さんの性格を反映していると言えるだろう。

 

「これを飲んだら帰るんだ、いいね?」

「ははは、わかったよ」


 そう言いながらも、琴栄さんは座布団を出して俺を座らせてくれる。

 もしかすると、琴栄さんも話し相手が欲しいのかもしれない。

 50を越えて老人という言葉が頭によぎる頃、話し相手というのは大事な仲間のようなものなのかもしれない。


「相変わらず、色んなものが置いてあるねぇ」

「私の趣味だよ、文句あるの?」

「いや、これはこれで見てて面白からね」


 出された座布団に座りながら、お茶を一口頂き、店の中を見渡す。

 海外からの輸入品に混じって、昔ながらの玩具やお菓子があるのが懐かしさと共に寂しさも感じる。

 最近の子供は、こういった玩具で遊ぶことは無くなった。

 駄菓子屋の前で、子供達が玩具に夢中になって遊んでた頃が懐かしいな。

 そう思いながら琴栄さんの方へ視線を向けた時、気付いた。


「琴栄さん、痩せた?」

「何だい、私を口説こうってのか? こんなしゃがれたババァなんて口説いて、何になるんだ。奥さんが泣くよ?」

「そういうわけじゃないんだけどね。前に見た時より痩せたなぁって……単なる感想、かな?」

「なんだいそれは……」


 さすがにこの年になって、女性を口説くなんて事はしない。

 私には、愛する妻と子供達がいるのだから。

 そう言えば、長女にもうすぐ子供が生まれる……待望の初孫だ。

 ……待ち遠しくて、落ち着かない気分なのかもしれない……だから最近は特にこの店へ来る事が多いのかもしれないな……ここは落ち着くから。


「でも、本当に痩せてるように見えるな。ダイエットでも始めた?」

「この年になってそんな事気にしちゃいないね。ダイエットなんてするくらいなら、のんびり寝て腹いっぱい美味しい物を食べてやるさ」

「ははは、確かにその方が琴栄さんらしい」


 「細かい事は気にするな」が口癖で、姉御肌なところがあり、年上年下問わず様々な人たちに慕われていた琴栄さん。

 だが、その顔は以前にも増して細くなっているように見える。

 以前がふくよかだったとは言わないが、見比べるまでもなくはっきりとわかるくらいだ。

 琴栄さん、数十年前はミスなんたら……とかのように色んな男からモテていた。

 今も品のある雰囲気を醸し出しており、それが店の雰囲気と相俟って、少し怪しくも見える。

 もしかしたら、この店にあまりお客さんがいないのは、そんな怪しい雰囲気を若い子達が忌避しているからかもしれない。


 琴栄さんと出会ったのは高校の……10代の頃、クラスのリーダー格としてだった。

 ……その頃から風格のようなものは変わってないな。


「そろそろ、孫が生まれるんだろ?」

「そうなんだ。……確か、再来週あたりが予定日だったはず……」

「初孫なんだ、しっかり構ってやらないとね」

「そうだねぇ。娘も息子も可愛かったけど、やっぱり孫は可愛いものなんだろうねぇ」


 実際にはまだ孫が生まれたわけではないから、孫というのが私にとってどういうものかはわからない。

 他の人から聞いた限りでは、初孫というのは特に可愛く、目に入れても痛くないという事を力説されたりもした。

 琴栄さんと二人、ゆっくりお茶を飲み、店の雰囲気を楽しみながら、少しの時間を過ごした。

 帰る間際、ここは喫茶店じゃないと言われたが、私にとっては同じようなものかもしれない……琴栄さんには迷惑かもしれないが。




「おぉー!」


 しばらく後、私に待望の初孫が生まれた。

 頑張った娘、娘婿を差し置いて、一人病室で興奮していたのを、妻に窘められる場面もあった。

 初孫……話には聞いていたが、ここまで可愛いと感じるものだとは思わなかった。

 目に入れても痛くないと言っていた人がいたが、あれが事実だと実感する日がこようとは……。

 比喩表現ではあるのだが、それが比喩では無く本当の事だと思わされるくらいの可愛さだった。



 さらにしばらく、孫と娘が病院を退院して来た。

 少しの間、実家である我が家に泊まって、安静にするようだ。

 私としては、可愛い孫が近くにいる事が凄く喜ばしい。

 おかげで、長年勤めた会社での仕事も、周囲に驚かれるくらい頑張れる。

 ……そう言えば最近、琴栄さんの店に行ってないなと考えたけど、今の私は孫の事で頭がいっぱいだ。

 落ち着いたら、琴栄さんの所に行って、しっかりと自慢してやろう。



「濱端啓次郎さん、ですか?」 

「はい、そうですが……」


 孫にかまけていたある日、一本の電話が会社に掛かって来た。

 その電話は、事務の子が受け、私に代わって一度、しっかりと私の名を確認した。

 ……その後の事は、あまり覚えていない。

 あの電話でした会話は、確かこうだったはずだ……。


「鞍本琴栄さんをご存じですか?」

「はい。知っていますが、どうかされましたか?」

「その鞍本さんが、昨夜、亡くなられました」

「は……」


 その後、どういう事を話されて、どうやって電話を切ったのかを覚えていない。

 さらに言うなら、会社を退勤するのも家にどうやって帰ったのかも覚えていない。

 多分だが、いつもしている行動の反復だったおかげで、何とか家に帰り着いたんだろう。

 家では、孫が元気に過ごしていたが、私はそれに構う事が出来ず部屋へ向かった。

 私の異変を感じた妻が、何か聞いて来たような気がするが、今の私にはそれに答える事は出来なかった。



「鞍本琴栄……享年52歳……」


 粛々と琴栄さんのお通夜が行われる。

 呆然自失となっていた私だが、電話でお通夜とお葬式が行われる事を思い出せた。

 言葉少なに妻へ頼み、仕舞ってあった喪服を用意してもらい、会場に駆け付けた。

 琴栄さんは親族がいないらしく、近隣の方が喪主となってお通夜、お葬式が行われた。

 あれだけ通っていた店、あれだけ話していた琴栄さん……なのに私は自分の家族の話ばかりで、琴栄さんの家族が今どうなっているのか……という事を聞く事が無かった事を後悔する。



 お通夜の翌日、お葬式も終わり告別式も終わった。

 出棺される琴栄さんを入れた棺が運ばれて行くのを、私はただ黙って見る事しか出来なかった。

 私以外の参列者が色々話しているが、私にはあまりよく聞こえない。

 聞こえたのは、琴栄さんが末期ガンだった事と、病院に頼らなかった事。

 そして、病気が体を蝕む中、1カ月足らずで見る影もなく痩せこけて行ったという事だけだ。


「琴栄さん……だからあの時痩せていたのか……」


 今更気付いても、もう遅い。

 あの時私が病気だと疑っていれば……病院へ無理にでも連れて行ければ……。

 私に初孫が生まれて、その事に喜び、琴栄さんの店に行く事を止めていなければ……。

 そう考えても、もう既に琴栄さんは棺の中……、私には何も出来なかった。


「棺の中の琴栄さん、綺麗だったな……」


 出棺される前、最後のお別れとして、棺に入った琴栄さんと対面する事が出来た。

 その時の琴栄さんは、病気で苦しんだ様子も無く、綺麗な死化粧で今にも起き出して、いつものように「なんだ、アンタか敬次」と言ってくれるような気すらした。

 だが、もうその声を、私の名を略して呼ぶ声を聞く事は出来ない。

 いつも着物を着ていた琴栄さんだから、汚れの無い白く綺麗な死装束もよく似合っていた。



「……ただいま」


 琴栄さんを見送り、一人心ここにあらずとなりながらも、家へと辿り着く。

 家では妻と娘、孫が三人で過ごしており、その光景は素晴らしく暖かい光景に見えた。

 だが私は、その光景を見続ける事は出来ず、服を着替えるだけで自室へと向かった。


「琴栄さん……本当にいなくなったのかな……」



 翌日、会社の帰りにまたいつもの店へと向かった。

 会社を出たあたりから、空模様は暗く、いつ雨が降り始めてもおかしくない。

 まるで私の心模様だと考えて気を紛らわせながら、店へと辿り着いた。 


 あり得ないとはわかっていても、いつものように琴栄さんが面倒そうに迎えてくれる事を期待し、ドアの前に立つ。

……だが、そんなありもしない望みは、当然叶えられる事は無い。

 店のドアには店主が亡くなったため、営業を止める旨が書かれた張り紙がされており、鍵が掛かっていた。

 もう開く事の無いドアをしばらく見つめ、降り出した雨に構う事無く、私はそこに立ち続けていた。



「あ……」


 どこをどうして帰ったのか、気付くと家にいた私は、いつの間にか雨に濡れた服を着替えていた。

 恐らく、心配した妻に世話をさせてしまったんだろう。

 心配を掛けてしまった妻には申し訳ないが、体に力が入らない。

 雨に濡れたから風邪かもしれないし……もしかすると、私の体の大事な物が無くなったからかもしれない。


 自室のベッドに座り、いつまでも終わらない後悔に襲われて潰されそうになる。


「……え?」


 その時、何かが聞こえたような気がした。

 何度も聞いた声。

 よく聞いて馴染みがあり、心休まるような声。

 私は俯いていた顔を上げ、耳を澄ませる。


「敬次……、敬次……」

「……琴栄さん?」


 何度も何度も聞いた声、懐かしさと心休まるその声は、私の名を呼んでいた。

 私の事を、敬次と呼ぶのは琴栄さん唯一人。

 聞こえて来た声に対し、琴栄さんである事を確かめるため、私からも声を掛ける。

 だがその声は私の声に反応してくれない。


「敬次……先に行ってるよ。アンタはもう少し、頑張りな。孫を可愛がってやるんだよ」


 琴栄さんの声で、それは私の事を優しく包み、励ましてくれる。


「待って、琴栄さん。待って!」


 私が声を上げても、もうその声が聞こえて来る事は無かった。

 もしかすると、ただの幻聴なのかもしれない。

 けど確かに、私には琴栄さんの声が聞こえた。


「……あ……風……」


 琴栄さんの声が聞こえなくなってしばらく、私の体を優しく風が撫で、すぐに消え去った……。

 室内で窓を開けていないのに吹いた風……それは琴栄さんが本当にいなくなる、別れの挨拶のようにも思えた。


「う……うぅ……うあぁぁぁぁぁ!」


 その時初めて、私は琴栄さんの事を思って泣いた。

 お通夜でも、お葬式でも、告別式でも、出棺の時ですら、私は涙を流す事は無かった。

 それはもしかしたら、まだ琴栄さんがいなくなってしまった事を、理解していなかったのかもしれない。

 声を聞いて、風に撫でられ、ようやく琴栄さんとの永遠の別れを理解して、涙が溢れて止まらなかった。


「うぁ……うぁ……うあぁぁぁぁぁ!」


 みっともないとか、そんな事は頭に全く浮かばない。

 私は溢れる涙と共に、声を張り上げて泣き続けた。

 涙がいつか枯れ、声も枯れてしまうまで、ずっと……。



 数日後、喪主を務めた方を訪ねて、琴栄さんのお墓の場所を聞いてお参りに来た。

 琴栄さんのお墓は、まだ新しく、綺麗な花が捧げられている。

 生前好きだった煙管も置いてあり、本人がしたわけでもないのに、何だか琴栄さんらしいと感じた。


「琴栄さん、さよならは言わないよ。そっちは楽しいかい? 先にそっちで待ってて。私もそのうち行くからさ。……早く行くと怒られそうだから、孫の成長を見守ってからにするけどね」


 あの日、琴栄さんから別れを告げられたように感じられた日。

 力尽きるまで泣いた事で、ようやく琴栄さんがいなくなった事を受け入れられたのだと思う。

 あれがなければ、まだ私は呆然としながら過ごしていたのかもしれない。

 妻や娘には心配をかけてしまったが……。


「琴栄さん、ありがとう。貴女の事は忘れないよ。……また、月命日の日にでも来るよ」


 蝋燭に火を付け、線香を立てて手を合わせる。

 色々掛けたい言葉はあったけど最小限にする。

 長々といたら、「早く孫の所に帰りな」って怒られてしまうから……。

 最後に一つだけ。


「……私は貴女に恋をしていました。ありがとう、青春を」


 妻や子供達は今でも愛している。

 けれど、琴栄さんには10代の頃に出会ってからずっと、恋をしていたんだ。

 そう、泣き崩れたあの日に気付いた。

 生涯独身だった琴栄さん……独身だった理由はわからないし、この恋心が届く事は無かったけど、それで良かったのかもしれない。

 数十年越しの告白の言葉を掛け、礼をしてその場を去る。



 去り際、一陣の優しい風が私を撫でる。

 頬を撫でるその風は……煙管を吹かす琴栄さんの香りがした気がした――――



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