1-2



 ――急がなきゃ。


 湖のほとりにやってきたサラは、周囲を見回した。なるべく人目につかないようにしなければならない。

 深呼吸をして、息を整える。湖面こめんには白い夕靄が《ゆうもや》立ち込め、あわい光を宿している。対岸たいがんは見渡せないが、その上を行きう船も今はなさそうだ。


 ――よし。


 サラはもう一度周囲を見回すと、しばらく目を閉じて、足元に意識を集中した。

 心の奥で、病気の子どもと、さっきの父親を思い浮かべる。むねの奥が熱くなり、き上がった力が徐々に足へと流れ込んでくる。

 目を開くと、サラは湖へと足をみ出した。

 ブーツの底が水面にれ、やわらかな波紋はもんえがく。サラは思いきって体重をかけ、水面の上に乗り上がった。


 ――できた。


 この不思議ふしぎな力は、《マナ》と呼ばれている。自然エネルギーが集まり、結晶化したものだ。ただ、普通の人間は《マナ》を使えない。修行を積んだ神官が、《聖具せいぐ》という道具を使って初めてあつかえるとされている。

 だが、なぜかサラはおさない頃から、《聖具》なしにこの力を使うことができた。

 慎重しんちょうに、確実に、一歩ずつ足を進めていく。湖はおだやかにいでいて、水ははがねのような頑丈がんじょうさでサラを支えてくれる。

 湖の中央付近まで進んだ頃、さわやかな風が吹き抜けた。こずえが鳴り、靄が吹き散らされて視界が晴れてゆく。白銀のかみがなびき、きらきらと氷のように清冽せいれつな光を放つ。そこでサラは、ようやく帽子ぼうしを落としたことに気づいた。


 そのときだった。


「うわあ……すごいね、君」


 サラはびくりとした。

 湖の上に、だれかがいる。

 その少年は白いボートに乗っていた。右手にかいを持ち、大きく見開いたオリーブ色の瞳でこちらを見つめている。黄金色の髪は太陽のようだった。

 湖には靄が立ち込めていた。そのせいで、視界のはしにいたボートを見落としていたのだ。

 立ちすくんでいるサラを見つめ、少年は明るく呼びかけた。


「その髪、とっても綺麗きれいだね。名前、何ていうの?」

「……」


 サラは石のように硬いつばを飲み込む。


「今そこに立ってるのって《マナ》の力だよね? よかったら、こっちに来て教えてよ」


 少年は無邪気むじゃきな笑顔でボートを指し示す。

 ようやく硬直こうちょくけると、猛烈もうれつなパニックがおそってきた。


 ――見られた!!


 サラはものすごい速さで、その場をげ出した。


「あっ、ちょっと待って!」


 少年は櫂を手にしてボートをぐ。なかなかの腕前だったが、サラの足のほうが速かった。


「おーい、君! 逃げないで! 頼むよ、話だけでも聞かせてー!!」


 見えなくなるほど遠ざかっても、少年のさけび声はまだ湖にこだましていた。

 ようやく岸まで辿たどりつくと、サラは肩で息をしながら地面へ足を降ろした。


 ――気味悪いって思われただろうな……。


 神官でもないサラが《マナ》を使うと、よく周りから変な顔をされたものだ。


 ――とにかく今は、これを届けないと。


 薬の入った小瓶こびんを確かめると、サラは湖へ流れ込んでいる川に沿って歩き始めた。男性は意識を失う間際まぎわ、「赤い水車」と言った。水車は当然、水が流れるところにあるはずだ。

 川沿いに歩いていくと、果たして、木を組んで造った小屋が見えてきた。そばには、くるくる回る立派な水車が見える。オレンジ色のあかりが窓辺かられている。


「《伝令ヘルメス》です。薬を届けに参りました」


 サラが玄関口で告げると、とびらを突き破るようにして人が飛び出してきた。ふくよかな体つきに、髪を後ろでたばねた女性だった。


「《伝令ヘルメス》? あの、夫は。ジュードは」


 彼女は驚いたように言い、サラの制服を見つめた。


「体調をくずされて、教会で休んでおられます。これを」


 ガラスの小瓶に白い粉が入っている。それを見て、女性は手で口をおおった。


「ああ……間に合った……!」


 赤ん坊の泣き声がひびき渡る。女性はあわてて室内に戻ると、ベッドに近づいた。ゆりかごの中に生後間もない赤ん坊と、奥のベッドに男の子が横たわっていた。


「レオン」


 母親は息子むすこに呼びかけた。レオンは顔をにして、苦しそうにあえいでいる。


心臓しんぞうがもともと悪くて、熱を出すと発作ほっさが起きるんです」

「早く薬を飲ませましょう。水をんできます」


 サラは言い置き、素早すばやく立ち上がった。水車から汲み上げた水を、手近なおけに入れて運ぶ。


「ありがとうございます」


 母親はこぼさないよう慎重に薬を紙に包むと、レオンの口元に持っていった。サラは息を詰めて母親の手元を見つめる。

 やがて、レオンは薬を口に含むと、コップの水をしっかりと飲み干した。苦しそうだった呼吸が少しずつ治まっていく。


 ――よかった。


 サラは胸をなでおろした。

 汗びっしょりのレオンを着替えさせると、やがて安らかな寝息を立て始めた。


「本当にありがとうございます」


 母親は泣きながら何度も同じ言葉をり返した。


「あなたは私たちの命の恩人おんじんです。レオンが死んでしまったら、私もジュードも生きてはいけなかった。どうお礼を言えばいいのか……感謝してもしきれません」


 泣いている母親を見て、サラも目がうるんできた。だが、ぐっとくちびるを引き結んでこらえる。

 サラがだまっていると、母親は涙をぬぐって言った。


「あなたが……《伝令ヘルメス》がいてくれてよかった」


 その言葉に、じわりと胸が温まる。

《文書送達士》は教会に所属する神官だ。身分が高く、さまざまな特権を持ち、《伝令ヘルメス》より速く情報を運ぶことができる。

 けれど、今ここで眠っているレオンの命は、《伝令》にしか助けることができなかった。

 サラが頭を下げて立ち去ろうとすると、「待って」と母親は呼びとめた。


「《伝令ヘルメス》さん。せめて何か、お礼ができないかしら」


 サラは母親に近寄ると、その手を取った。

 ごつごつとした厚い皮膚ひふに覆われた、れた手のひら。子どもを育て、料理を作り、洗濯せんたくをし、畑仕事やい物をする働き者の手だ。

 母親は目を丸くして、サラを見つめている。


「お子さんたちを大事にしてあげてください。今までも、これからもずっと」


 つつましいけれど、愛とぬくもりに満ちた、幸せな家庭。ほんの少し見ただけでも、サラにはよく分かった。

 それが欲しくてたまらず、求めても与えられなかったものだから。


「ご家族に、宝物だって伝えてあげてください。私は……そうはなれなかったから」


 母親は目を見開いた。


「あなた……」

「くれぐれもお大事に」


 サラは言い残すと、温かな光の中から、外の世界のくらがりへと足を踏み出した。



 どうして世の中には、親に愛される子どもと、愛されない子どもがいるのだろう。分かれ道はどこだったのだろう。

 王都《アルマース》の、さまざまな職人が店をつらねる職人街にサラは住んでいた。サラの父親は靴職人で、靴工房でつとめるかたわら、道で靴磨くつみがきや修理を行っていた。腕がいいと評判で、いつか自分の店を開くのが夢だと言っていた。

 ところが、ある日、父は酒場の喧嘩けんかに巻き込まれ、なぐられた。倒れた拍子ひょうし椅子いすの角に目をぶつけ、それ以来、目が見えにくくなってしまった。勤めていた工房ではミスを繰り返し、手元がおぼつかずに怪我けがをする。そしてとうとう、主人からクビを言い渡されてしまった。

 それ以来、父は変わってしまった。ふさぎ込んで部屋から出てこない日が続き、ようやく出てきたと思ったら、酒場や賭場とばに入りびたる生活を送るようになる。生活は苦しくなり、家族から明るい笑顔はなくなっていった。

 ある日、母は何も言わず家を出ていき、そのまま戻らなかった。父に告げても、部屋に閉じこもったまま出てこない。サラは裸足はだしであらゆる場所をさがし回った。


「お母さーん! お母さーん!!」


 のどが破れ、声が枯れるほど叫んだ。お願い、帰ってきて。私を捨てないで。

 けれど、母が呼びかけにこたえてくれることはなかった。


「ひどいよ……」


 お母さんはずるい。苦しい生活から、変わってしまった父から、自分だけ逃げ出した。


 ――私は、どうすればいいの?


 答えの出ない問いかけが、胸に重くのしかかる。

 これ以上、最悪なことなんて起こりっこない。そう思っていた。

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