第16回

 久遠、久遠、久遠――。胸のうちで連呼しながら周囲を伺った。上方からはあれほど明白だった薄衣の蒼が、今となってはどこにも見当たらない。霧のように掻き消えてしまったかに思えた。

 視界の隅を、ひらりとなにかが舞い落ちる。降りしきる灰をさんざんに見てきたにも関わらず意識が吸い寄せられたのは、それが弱々しくも清浄な光を纏って見えたからだ。目をしばたたかせ、探し回る。またしても、光。

「もう一度、案内して。どうか、久遠のところへ」

 声にならない祈りは、相手に通じたろうか。幽かな明滅を辿る。辿っていると自分では感じたが、もしかすると直感任せで放浪していただけかもしれない。かろうじてまだ火の手の回っていない一帯へと至ると、視界は急激に暗くなった。夜の世界に迷い込んでしまったようだった。

 息を詰めた。一本の大樹に凭れて、久遠が立っていた。

 衣のあちこちが避け、肌が覗いているが、目立った怪我は見られない。名を呼ぼうとして咳き込んだ。そっと近づいていくと、久遠は不思議な色合いの入り交じった虹彩で私を見返した。

「傷だらけだよ、蟲笛吹き」

 久遠の手が伸びてきて、そっと私の頬に触れた。途端に痛みの感覚が麻痺していたことを悟った。煤と血にまみれた私は、獣のような有様に成り果てているに違いなかった。

「許してほしいなんて言えない。でも久遠が生きててくれて、私――」

「謝罪はいらない。水琴、取り返してくれたんだね」

 私は頷き、楽器を下ろして差し出した。彼女は受け取らず、背負わせて、と私に背中を向けた。後方からそっと、水琴につけた輪を頭にくぐらせる。前に腕を回して、紐の長さを調整した。

「久遠、一緒に逃げよう。すぐに追手が来る」

 手を引こうとしたが、彼女はきっぱりとかぶりを振った。私は慌てて、

「まだ無事でいる蟲たちも連れていこうよ。久遠の言うことなら聞いてくれるでしょう?」

「そうじゃない。私たちは、この森から出られないの」

「出られないって――」

「私たちは森を離れられない。森が死ぬなら、私たちも死ぬ」

 凄絶な覚悟をもって語っているのだと悟ったが、むろん置き去りにするわけにはいかない。説得が不可能なら腕尽くで引っ張っていくほかないのか。あとどれくらいで追いつかれる? ぼやぼやしている暇がないのは確かだ。

「逃げる気がないって意味じゃない。私たちの命は、森と連動してる。出ようとすれば消えてしまう。分かるの」

 唇を開きかけた刹那、頬のすぐ横を熱いものが走りすぎた。久遠の背後にある大樹に、回転しながら飛翔してきた三日月型の刃物が突き刺さった。振り返る。

「――累」

 すぐさま姿勢を立て直した青年はすでに、新たな武器を抜き放っていた。爛々たる瞳。酷薄な微笑。優雅ともいえる仕種で距離を詰めてきて、やがて立ち止まった。

「次は首を落とす。迷い子をこちらへ寄越せ」

「やってみなさい。あなたに、久遠は渡さない」

 脅しでないことは分かっていた。頬を、血の筋が伝い落ちていくのを感じる。ほんの僅かにでも軌道が違えば、私は死んでいたのだ。

「千歳? なぜ千歳がここにいる?」

 累の後方から武彦叔父が姿を現した。私を目の当たりにして困惑している様子だ。こちらが口を開くより早く、累が澱みない口調で、

「ご命令どおり、争いに巻き込まぬよう鍵付きの部屋に入っていただいていました。文乃を見張りにつけていたのですが、あの小娘も蟲の手先だったようです。おそらくは迷い子を手引きして、千歳さまを逃がしたのでしょう」

「そうか、文乃もか。可哀相だが――あの子も始末するしかないな」

「無論です。しかし、ともかく今は、迷い子から千歳さまを解放しなければ」

 叔父さま、とようやく私は声を張った。

「累の言うことに耳を貸しては駄目です。その男が私に薬を盛って――」

 千歳、千歳、と叔父が太い咽声で私を遮る。

「蟲に支配されて……哀れな子だ。やはり蟲になど近づけるべきじゃなかった。蟲笛吹きも、ばあさまを最後にすべきだった。あんなもの、燃やしてしまうべきだったんだ。最初から累の言うとおりにしていれば、こんなことには」

 叔父の言葉を受け、累は余裕たっぷりに笑んだ。

「反省は、あとでごゆるりと。親玉を消せば、蟲どもも統制を失うでしょう。ほかの者たちでも充分、処理できます。迷い子だけは、逃がしてはなりません」

 叔父が頷き、短剣をこちらに向ける。その表情。背筋が凍り付いた。

「千歳。そこを退け」

「――いいえ、退きません」

「命令だ。退け」

「退きません!」

 周囲の草叢が揺れたかと思うと、男たちが湧き出るように立ち上がった。さすがに用意周到、ふたりきりで追ってきたわけではなかったのだ。全員が弓を構え、私たちに照準を合わせている。

 万事休した。どうあっても逃げ切れない。

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