第15回
夢の残像は、まだくっきりと脳裡に刻まれていた。不思議な種の成分と、洞窟の薄い空気と、体温の低下と、光と闇による視覚の混乱と……幻覚が生じる条件が揃っていたのではある。
しかし疑いはなかった。私は森の命に触れたのだ。
水を掻き分けて進んだ。壁の凹凸を手探りしつつ、背伸びしてゆっくりと歩く。下手に焦って、服が絡まって溺れたのでは堪らない。泳ぎが達者なほうではないのだし、なにより、こんなところで死ぬわけにはいかない。
渡り切るのにずいぶんと時間がかかった。どうにか水路を抜け出し、硬い岩の上に辿り着いたときには、体の芯まで冷え切っていた。
濡れて体に貼りついた服を脱ぎ落し、強く絞った。再び着直して歩みを再開する。道が平坦になり、しばらくすると上りへと転じた。このまま出口へと続くのだろうか。
黙々と進んでいくうちに、ふと嗅覚が反応した。目にも違和感がある。噎せ返りそうになり、反射的に湿った袖で鼻と口を覆った。
視界が再び火の色を捉えた。射し入った光が煙を浮かび上がらせている。洞窟から歩み出てみれば、こちら側の一帯もまた灼熱地獄と化していた。延焼に延焼を重ねて炎はますます勢いを増し、森全体を呑み込まんとしている。
「――酷い」
足許に転がっている奇妙な物体を、初めのうちは木の燃え殻だと思っていた。いや、思い込もうとしていた、がたぶん正しい。収縮し、捻じれ、ほとんど原型を失っているが、積み上がったそれらはすべて、蟲の骸だった。降り積もった灰のように見えるものもまた、そうなのかもしれない。いったん気付いてしまうと、もう直視できなかった。
「ごめんね」
とだけ呟いて、彼らに背を向けた。顔の前で両腕を交差させる。姿勢を低くし、迫りくる炎の隙間を抜けた。つい先ほどまでずぶ濡れだったはずの体は、四方八方からの熱気で早くもからからになっている。
本当はすぐに、鎮魂の曲を奏でてやりたかった。息を荒げて走りながら、これほど乾ききっていてさえ、まだ涙は出るのだと知った。旋律が脳裡を巡り、幻の蟲たちが宙を踊り、私たちは笑って――。
耐えられない。これ以上の悲しみには。
私は平凡な小娘だ。蟲笛吹きとしての力量は、曾祖母にも、千代にも、きっと遠く及ばないだろう。それでも蟲たちが好きだ。ただ彼らと友情を築きたいという愚直な願いを、一度として絶やしたことはない。
だから久遠、あなたも死なせたくない。償って、やり直したい。
いつか森に還る日まで、ともに生きたい。
蟲笛が蟲たちを支配するための道具ではなかったという事実が、私に幾許かの勇気を宿らせていた。水琴もまた、迷い子が人間から力を吸い取る道具ではないのだ。人と蟲の友愛の印――私に証明できるだろうか?
きっとできる。そのために森は、私を生かしたのだ。
登り切った丘の上から、森を駆けていく蒼い光を見た。黒く変色して倒れかけた木々のあいだを、まっしぐらに。
そのしばらく後方に、獣のような執拗さで痕跡を辿っていくふたつの影がある。
追跡は素早く、迷いない。接触は時間の問題だろう。
腰の蟲笛と背中の水琴に、順番に軽く触れた。それから意を決し、一気に斜面を滑り下りた。
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