第二章 赤い影

(1)


 波が引いては寄せる音がする。茫漠とした視界の先になにかが見える。一人の女性、と思しき人間がいた。どこかの砂浜のようなところを歩いている。

『……じゃ、こんな……から……』

 途切れる声。この女性のものではない。今、自分の視線と一体化している誰かが話している。

『……ここに……ない……』

 女性がなにか話す。聞き取れないが、穏やかでやさしげな声、聞いたことのないが、それでもどこかで聞いたことがあるような声だった。

 その時、強風がふいた。景色が一変する。


 閃光が見えた。その次に視界に入ったのは巨大な壁、黒い壁だった。それが押し迫ってくる。そして……。


「……ハァ……!」

 目が開いた。視線の先にあるのは、見慣れた天井。寮の自分の部屋のそれである。

「ああ……」体を起こすと、汗だくになっていることに気づいた。呼吸もかなり乱れている。

 またおかしな夢を見た……。

 記憶にない風景だった。なにかの映画で見た光景が自分の経験と交わり、意味不明ななにかを見せたのだろうか。いずれにせよ、わけのわからない夢だった。


 意識が覚醒してくると同時にそれも薄らいで消えていく。時計を確認してからカーテンを開いた。

「……曇りか」

 どんよりとしたほの暗い空が見えた。


 汗でべとついたシャツを脱いで、シャワールームに向かう。まだ、どこか寝ぼけた感覚のまま熱いシャワーを全身に浴びた。

 最近……変だな……。

 なにが、と考えてもはっきりしない。ただ、なにかおかしい気がする。誰かが自分になにかを見せている、そんな念を感じる時がある。


「馬鹿々々しい……!」

 シャワーを止めた。タオルで乱暴に頭を拭いていく。

 これはあれだ……思春期特有の……なんだろう、ともかくなにかだ。

 漠然とした心の不安が自律神経の乱れにまで及んでいるだけ、と考えることにした。

 部屋を出て、洗濯室というランドリールームに向かう。タオルと汗まみれになったシャツと下着を入れて洗濯開始。十分とかからず終わるので、台座に腰かけてこのまま待つことにした。

 Eノートを広げて、昨日の作業の進展ぶりを確認すると、

「……? あれ……?」

 今週までに完成させようとしている部分は、ほとんど終わっていた。


「ふん……?」首をかしげる。

 一応自分でやった記憶はあるが、ここまで順調に処理できたことに今、驚いている。

 まあ……そんな時もあるか。この分なら今日はもういいかな。奏たちも休みだし、ここは一緒に……。


 その時、何人かランドリーに入ってきた。軽く会釈すると、

「おはよう!」

 威勢よく挨拶された。こちらも慌てて立ち上がると、

「お、おはようございます」と返した。

 体格の大きな男が何人か引き連れている。朝のジョギングから帰ってきたところだろうか。


 あの人……。

 穂高も見知っている第三男子学生寮の寮長、名前の方は憶えていないが、苗字は鈴池と記憶している。工科ではめずらしい体育会系で剣道部の主将を務めている三年生だった。

 わいわい話しながら洗濯を始めた。なんとなく雰囲気に圧されて、洗濯物を回収すると退室することにした。


 部屋に戻って、講義の確認をする。昌貴たちも取っているものは板書やレジメをEノートにまとめて転送するつもりでいる。このシステムを悪用して他人に代理をやらせる生徒もいるが、出欠記録から大抵バレて停学になると警告されたことがある。もちろん今回の斎たちのように正当な理由があれば話は別だが、


 昌貴や上北にとっては友人の親だが、それでも問題ないとのことだったが……。

 斎の父、葛飾北斗は星緑港の設立にもなにか貢献があったらしいことが窺えた。今回の事態を重く見て容認したのだろう。

 食堂に向かうと一階の入り口近くでいくつかのクラブが宣伝ビラを配っていた。九月の月末祭でのイベント告知だろう。その中に見知った顔を発見した。


「おはようございます、芳賀さん」

「やあ、おはよう、山家くん」ロボット部の部長の芳賀康裕である。

「月末祭、ロボット部はなにかやるんですか?」

「ああ、文科祭の予行演習で浮遊マシンを……それより、昨日聞いたが、時田の後輩の葛飾くんだったか?」

「ええ……」

「大変だと思うが、あまり気を落とさないようにね。時田の方のフォローは俺も手伝うから」

「はい、ありがとうございます」


「文科祭ではまたレックスを見せてほしい。実物をみてみたいと妹にせがまれててね」苦笑する芳賀。

「妹さんがいらっしゃるんですか?」

「ああ、実家に帰った時、マシン展での君たちのパフォーマンスを見せたら興奮しっぱなしで、まったくあの年で機械オタクなんて……っと引き留めて悪かったね」

「いえ、ありがとうございます」

 芳賀に礼を述べて朝食とした。


 朝はビュッフェ形式で食べたいものを列に並んで適当に皿に置くだけであり、料金等は寮費に合算されているのでかからない。その寮費も市からの補助が手厚く大した額ではない。

 コーヒーを取ってから、ロールパンに茹でウィンナー、スクランブルエッグ、シーザーサラダを皿に乗せて席に着いた。

 贅沢だよな、高校の寮でこんな生活……。これも部長や奏のおじいさんの会社が多額の税金を市に納めてくれているからであって、俺は、ただ他人の力にフリーライドしてるだけのよそ者で……。

 頭を振った。自分を卑下したところでなにが変わるわけでもない。

 できることをしていこう……。

 コーヒーをブラックで飲み干した。



 部屋を出る際に天気を確認する。降水確率は10%。

 これなら大丈夫だろ、たぶん。

 自転車で行くことにした。

 寮を出て、待ち合わせ場所に向かって自転車を走らせた。思っていた以上に外は暗く、気温も低い。


 まだ九月だっていうのにこれか、今年は早めに衣替えしたほうがいいかもな。

 橋の手前まで来たが、まだ奏はいない。

 ……待ち遠しい。いつもそうだけど、今はなんだか……。

 妙に心細い。弱気になっていることを自覚する。

 なぜ……。

 なにか、奏との間に不協和音が顔をだしかけているような気がするのである。

 どうしたんだ俺は……? 変な夢を見たから……。

 少し、心配になってすぐ近くの路面電車の駅前まで移動した。まもなく車両が近づいてきた。


「え……」

 あれに彼女が乗っている。なぜかそれが、わかった。一人降りてきたのが見えた。こちらを認めて近づいてくる。

「おはよう、……穂高?」

 その声の主は当然、奏だった。

「あ……」返事を返せないでいる。


「どうしたの? ぼーっとしちゃって」キョトンとする奏。

「い、いや、おはよう、奏」

「うん、昨日はごめんね……」

 奏が目を伏せる。ひょっとしたら穂高が今、不機嫌だと勘違いしたのかもしれない。

「い、いや! いいんだ、奏が元気でいてくれれば」

「ありがとう……」

 ったく、なにやってんだ俺は……。

 自分の頬をはたこうとしたがやめた。先週のこともある。ようやく落ち着いてくれた奏を動揺させるわけにはいかない。

「それじゃ、行こう」

 手をつなぎたかったが自転車を押さなくてはならないので、耐えることにした。


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