第九章 心の底

(1)


 残暑がどうこうというほど夏は過ぎ去っていない九月の初週、穂高は久方ぶりに学校の制服に袖を通して、ロードバイクを走らせていた。目的地は、むろん奏との待ち合わせの橋、今日が星緑港高校二学期の始業式なのである。

 思考力を鈍らせる生暖かい大気は依然として滞空しており、流れた手汗をグローブが吸い込んだ。


 朝は結構寒いのに、もうこれか。難しい季節だな。


 関東との気候の違いにまだ体が慣れていないように感じた。

 橋が見えてくると、奏の姿も認めた。こちらに気づいたようで手振りを送ってくれる。すぐ手前で停車した。久しく見ていなかった奏の制服姿に見とれる。

「おはよー」

「おはよう」

「大丈夫だった? しばらく乗ってなかったみたいだけど」

「うん、一応メンテに出したから。元々持っていくものもあまりないしね」

 持ち物は少ない、教材はほとんどEノートにまとまる。

「その、事故とか……十分注意して……」

 どこか苦し気な彼女の表情の意味するものを理解した。母の命を奪った事故のことを想起して、言いよどんだのだろう。

「……大丈夫、行こう」

 並んで学校へと歩き出す。これから離れ離れの時間が多くなることを思うと、憂鬱な気分になってくる。


 奏を他の男に見られるだけで嫌だな……。科が違う以上、仕方ないけど。それにただいつも一緒にいるだけが……。


 愛ではないと思う。

 やっぱりあのこと、少し話しておくか。

「奏、ちょっといいかな?」ためらいつつも口を開いた。

「なーに?」やわらかな声音にはやくも決意が揺らぎそうになる。

「俺、奏のこと大好きだ」

「う、うん」彼女に頬に紅が差す。

「あ、いや……」

 ストレートに言い過ぎた。息を吸ってから顔を整える。

「でも、そのことで奏の勉強やクラブ、友達付き合いの妨げにはならないようにしたい」

「……ありがとう」

「そのあたり、お互いけじめをつけてやっていこう」

「そうだね……」少し伏し目がちになる奏。

 う……。

 罪悪感が一気に押し寄せてくる。

「で、でも! なにかあったらすぐ連絡して! 俺ならいつでも」

「ふふ、わかってる」鼻先を指でタッチされた。

 学校が近づき、生徒たちが再会を喜び合っている様が目に入る。

「穂高も成績、落とさないようにね」

「うん、がんばる」

「今日は午前までだけど、お昼一緒にできるかな?」

「平気、今日は演習講義しかないし、たぶんすぐ終わるから。その後、またあのお店にしようか」

「そうしよ、終わったら連絡するね」

「こっちもそうする」

 話している間に正門ゲートが見えてきた。そこからしばらく歩いた先に道は文科棟の一号館と工科棟の二号館に分かれている。横合いの駐輪場でロードバイクを施錠した。

「それじゃ、終わったら中庭で……」

「うん……」

 異なる道を行く。当たり前のことなのだが、このわずかな別離すらも胸に寂寥とした風を吹き込んできた。


 例によって、シンプルな工科学長の挨拶があっさり終わると自分のクラスが集まる教室にまで行く。大学の要素を持つこの高校では、クラスメイトたちが一堂に会するのは学期はじめと終わりだけである。これから向かう演習講義、ゼミが実質的なクラスとして機能する。

 ドアが開かれると、見知った顔を二つ発見した。

「おはよう」

「おはようさん」

「うーっす」

 芳子と昌貴もこの演習を選んだようだ。

「夏ボケしてないかぁ、二人とも」日焼けした肌で、にやりと微笑む昌貴。バイト先でも合間を見つけて近くの海で遊んでいたらしい。

「あんたに言われちゃ、お終いよ」芳子は相変わらずだったが、髪を前より念入りに手入れしているのがなんとなくわかった。奏との付き合いでそういうことを感じ取れるようになったのだろう。芳子も、女性らしさを意識するようになったのかもしれない。

「二人とも久しぶり……でもないか、先週会ったばっかだし」

 レックスの件で少し話し合ったが、結局、原因は判明しなかった。

 教室を見渡す。

「斎は……いないか。どの演習にしたんだろ」

「あいつは頭がいいからな、たぶん上級生向けのじゃないか?」

「そうか……」なんとなく四人そろってほしかった気がする。

「あんたも奏ちゃんと遊んでばっかで、頭鈍ってないでしょうね? 彼女の足まで引っ張っちゃだめだよ」

「さっき、それについて合意したばかりだよ。注意する」

 少しづつルールを決めていこう。奏だって自分一人の時間が欲しいはずだ。

 話しているうちに担当講師が入ってきた。さっき会ったばかりの角谷講師、今期の演習は彼のものを選択した。

 初日、ということで今後の活動予定を説明されただけですぐ終わった。

「穂高、今日は部活来るか?」

「行くに決まってるよ。あの件も改めて話しておきたいしね」

「そうね……」

 レックスの寮までの不可解な移動、謎は未だに解けていない。

 時計を見る。まだ十一時にもなっていなかった。


 まだ時間があるけど……うん……?


 五名ほどの生徒がこちらに近づいてくる。うち三人は名前を知っている。一人が緊張した面持ちで話しかけてきた。

「やあ、山家くん……」

「や、やあ……」何の用かわからず、困惑する。

「その、君……、文科の三崎奏さんと付き合ってるってほんと……?」

「そうだよ」隠し立てする気などない。

「やっぱりそうなんだ!」

「よーし、よくやった!」

「偉い!」

 快哉を上げる男子工科生たち、他にも何人か寄ってきた。穂高は唖然とするだけである。

「な、なんで……?」

「いやぁ、あの文科のアイドルを工科の生徒がものにしたなんて、すごいじゃん」

 なにが、すごいというのだろう。

「さっきの始業式の時もさ、あいつらじろじろ悔しそうにこっち見ちゃって」

 口を押えて笑う男子生徒を見て冷や汗をかく。文科生のそういう視線には気づかなかった。

「あいつら、女見せびらかすように歩いて、ちょっとすれ違うと不審者から守るような姿勢に入るから、前から気に入らなかったんだよねぇ」ずいぶん楽しげである。

「こっちが男所帯で飯食ってるときも、にやにや見てきてさ! 頭にきてたよ」横を向きながらファイティングポーズ。

「そ、そう……」

「それでいて、こっちをオタク呼ばわりするんだからカスだよね。九九もまともに言えないくせに」


 言い過ぎでしょ……。


 女子の数が少ない男子工科生の怨念が爆発しているように見えた。

「ともかく……君は勇者だ」


 なんでそうなるの……?


 視線をそらすと、昌貴と芳子が苦笑しながら見ていた。

「そ、それじゃ、俺もう行くから……」

 居心地の悪さを感じて退散することにした。

「うん、がんばって」


 なにを……?


 どうも彼らの理系魂に火をつけてしまったらしい。男子生徒たちが、ここぞとばかりに文科生への怒りを熱弁し合っているのを背中で流しつつ教室を後にした。

「ふう……」RCを確認、奏の方はまだ終わっていないようだ。

 どこで時間潰すかな……。

 かまびすしい校舎を出て、中央テラスまで行くことにした。なんとなく空を見上げると、黒雲が立ち込め始めているのを視認した。天気予報では曇りだったが、降るかもしれない。


 どんよりしてきた、今日は外で遊ぶのはやめるか。クラブもすぐ終わるだろうから、その後奏の家にでも……。


「どーん!」

「うわ!」

 いきなり、なにかがぶつかってきた。

「なぁに物思いにふけちゃってんのよ」

「す、杉岡」

 両手を腰に当てて、得意気な表情を浮かべている千緒がいた。

「あらあらぁ、神妙にしちゃってなにか考えごとぉ? 奏にいやらしいこと迫ってビンタでもくらったのかしらぁ?」クスクス笑う千緒。

「なに言ってんだ……」呆れながらもどこかホッとした。すっかり以前の千緒に戻ったようである。花火大会の日に会った時は、まだどこかしおらしくて少々不安だった。

「はいこれ」なにかバッグから取り出した。

「なにこれ?」

「うちの地元土産」

 餅かなにかのようだ。

「あ、ああ、悪いな」この間、旅行のお土産を渡したから、その礼なのかもしれない。

「涙を流して、感謝しなさい」

「あんがと……」千緒の様子をうかがうことにした。取りあえず、悪態は自重する。

 ふむ、いつも通りに見えるが……。

 考えを改めて、穂高を吹っ切ったのかもしれない。

「ところで、おま……君は今期のクラブはなににするんだ? やっぱりテニス部?」

「当然でしょ、シングルでレギュラー目指すって決めてんだから」

「そう……」

「奏が気になるんでしょ?」

 一瞬、動揺した。気になるのはそれだけではない。

「後で聞くよ」

「あたしはもう知ってるけどねぇ。知りたい、知りたい?」

「結構です」

「あらそう、結実もテニス部だよ。前期のトライアウトに受かってれば免除だかんね」


 そうなると、当然奏もテニス部だな。


 千緒のうれしそうな顔を見ればわかるというものである。

 そこで、言っておきたい言葉を口にしていた。表情に真剣味を注ぐ。

「杉岡……」

「な、なに……」

「その、なにか悩んでいるようなことがあったら、俺でも、話くらいは聞くから……」

「……あんがと」

 真似するなとは言わなかった。

「別にあんたに相談したいことなんてないけどー」

 それが一番いいのだろう。おそらく穂高でも助けられないことなのだから。

「それよか、聞いてよ。うちの文科が大変なの、今」

 千緒が会話の流れを変えるように大袈裟な手振りを交えてなにか言いだす。

「なにかあったのか?」

「奏に超イケてる彼氏様ができたって話になって、男どもが目、回してるよ」

「……」皮肉は聞き流す。

「動揺しているとこ見られないようにしながら、キョロキョロしながら聞き耳立てちゃってさ、かっこ悪いよねぇ」

「さっきもそんな話聞いたけど……」

 千緒が背を向けて手すりに手を置いた。

「ほんと、かっこ悪い……。踏み出せなかった弱虫のくせに……」

 どこか自嘲するような声、そういうことだろう。

「それは……」

 その苦悩が理解できない穂高ではない。失恋の恐怖、それを思いわずらい、何度も苦しんできた。もし奏が他の男と付き合っていたらと想像するだけで、死にたい気分になる。

「あんたはかっこよかったよ、奏に告白した時……」

「ありがとう……」


 抜け駆けできたなど思ってはいない。今ですら、自分は奏の彼氏にふさわしいか思い悩む時がある。ただ、あの時、勇気を出せてよかったとは思っている。

 しばらく二人、黙ってしまった。

「……あたし、もう行くね。時間余ったら、そっちにも顔出すから」

 そういうと千緒は駆け去っていった。また、小さな背がいつも以上に小さく見えた。

「ごめん……」

 誰もいなくなったテラスでの独り言が風にかき消されて、宙に霧散した。

 ちょうど奏からのメッセージが届いた。予定通り中庭で合流して、終業式と同じ店に向かう運びとなった。

 テラスを出る際に、顔をぴしゃりと叩いて気持ちを切り替える。奏におかしな様子を見せるわけにはいかない。普段は使わない通用口から降りて行った先にはもう奏が来ているのが見えた。

「お待たせー」

「お、お待たせ」たった今、千緒と会ってきた手前、声になんとなく動揺がにじんでしまう。

「そっちどうだった?」

「ああ、昌貴や上北と同じゼミになったよ」

「そう、楽しくやれそうだね」

「うん、行こうか」

 正門まで歩く。奏と並んで歩いていると、やはりというか視線を感じる。そうしていると、いつか奏に手を引かれて、ここを歩いた日を思い出した。


 あの時は……。


 周りの目が気になっておじけづきそうになった。だが、今は違う。


 おどおどする気など毛頭ない。ここは……。


「穂高さーん」

「な、なに……!」またしても奏に隙を見せたようだ。

「また考え事ですかー」久々の意地悪笑顔。

「うん……。奏と恋人同士になれてよかったなって」

「あ、アハハ……。私も、穂高と一緒になれてよかった……」

 自然と手を取り合っていた。

 学校近くの洋食店に着くと、終業式の日と同じ席に案内された。

「やっぱりテニス部にしたんだ?」

「うん、みんなと一緒に続けたかったし、奈都美先輩たちからも強く勧められて」

 一年生でレギュラー、さらに彼氏持ちというは部内でも奏だけだろう。自分のせいで彼女が白眼視されていないか心配だったので、安堵の息をもらした。

「穂高は……?」

「……一応、続けるよ。みんなが必要としてくれる限りは……」

「当たり前じゃない」

「ありがとう……」

 レックスのことも気になるしな……。

「杉岡や香月さんも一緒でしょ? さっき聞いたけど」

「千緒に?」

「う、うん、お土産だってこれ」もらった紙袋を取り出す。

「ふふ、私も同じのもらった」

「そういやあいつ、少し帰省先から帰ってくるのが早かったな」

「うん、たぶんあの子も……」

「……?」

 彼女の真顔が見える、奏の瞳が暗みを増した。

「どうしたの……?」

「ううん、なんでもない」

 少し気になったが、追及する気にはなれなかった。


 あいつも、もうここが故郷みたいになってるのかもな……。


 ドアが開く音がした。振り返ると、数名の客が入ってくる。ランチタイムの時刻になったのだろう。もう少し、のんびりしたかったが十二時半には集まるらしいので、そろそろ出た方がいいと判断した。

「今日は、いつくらいに終わるかな? こっちは部長が簡単な予定を説明したら、後はもう自由だけど」

「こっちも同じ、練習は明後日からだからすぐに終わると思う」

「……でもさ、久しぶりに会う人たちもいるんでしょ。その人たちやクラブの仲間と遊んだりするんじゃないかな」

新学期始めのレクリエーションをやるらしいことは聞いている。

「うん、そういう申し出はあるけど……」穂高に配慮して断る気でいるのだろう。

「それなら、そっちを優先……してくれても、俺は全然平気だから」

 多少の寂しさはあるが、朝、自分自身がいったことである。自論を曲げて、感情のままに彼女を束縛することは避ける。 

「いいの? ごめんね……」

「こっちも部室でみんなと遊んでるからさ、終わってからにしよ」

「うん、済んだらすぐに行くから」

「焦らなくていいよ、その、友達は……」

「大事にします」

 そう言って微笑んでくれた。

 店を出ると雨雲がさらに拡大しているのが見て取れた。


 いつのまにこんな。今日は自転車置いて帰ることになるかもな。


 なにか不穏な空気を感じつつ、部室棟まで歩くことにした。


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