(3)

今日はマンションの地下駐車場で降車した。エントランスを通らず、奏の部屋まで来た。

「入って」

「う、うん」

 逆らえる雰囲気ではない。靴を脱いで上がり、振り返ると奏が上目遣いでじっと見ていた。怒っているようにも、からかっているようにも見えない。表情は真剣そのもの。ただ、固執的な意志が熱を帯びて、視線に表れている、ような感じがする。

「あ、あの……」 

 奏がバッグを置いた。背中を押されて、リビングまで歩かされるような形になった。

 冷蔵庫からピッチャーを取り出すと、コップを二つとともに持ってきた。

「俺がやるよ」

「うん、私は先にシャワー浴びちゃうから、ちょっと休んでて」

「わかった、……え?」

 そのままバスルームに行ってしまった。


 俺も……後から入るの……?


 つまり、その後、

「ま、まさか……ねえ……」

 ぎこちない笑みで誰ともなしにつぶやいた。誰も見ていないというのに動揺を隠そうとしてしまう。

 空中投射モニターでテレビを見る。ニュース番組なのだが、内容はまったく頭に入ってこない。ソワソワしながら、呼吸を落ち着ける。

バスルームのドアが開かれる音に思わず震えが走る。間もなく更衣室から奏が出てきた。

「お待たせ」

 奏がタオルで頭を拭きながら出てくる。思わずむせそうになった。ラフなキャミソールにやたら裾の短いルームウェア用のショートパンツ。穂高の前でもここまで開放的な姿になったことはない。

「どうぞ、タオルは更衣室にあるから、お湯は少しぬるめにしてるけど、調節は……」

「だ、大丈夫!」

 意地でも穂高を風呂に入れる気らしい。頼りない足取りで更衣室に向かった。


 今の奏……ちょっと、怖い……。


 ここまで強引に自分を振り回すのは初めてであるような気がした。

 中に入るとタオルに新品の垢すりまで置いてある。

 最初からそのつもりだったんだ……。でも、どうして急に……。

 使わないわけにはいかないので手に取ってバスルームに入った。

 シャワーを浴びながら、肩の力を抜いて、いつかこの部屋で同じことをした日を思い出す。


 二度目、だな……。


 あの大混乱は一生忘れられないだろう。

 でも、今はもうあの時とは違う。俺は奏の……、奏の……なんだ? ともかく彼氏だ。

 シャンプーを取ろうとした、その時、

「……!」

 背後のドアが開かれた。

「あ……!」振り返ろうにも、振り返れない。

「背中……流すね」

「え、あ……」

 返事も待たないうちに奏がタオルを手に取った。

 バスチェアに腰を落としながら、動揺を鎮めようと躍起になるがうまくいかない。こすられている背中の感覚がやたら遠く、遅延して感じられる。


 ほ、ほんとにどうしたんだろ……? 負けたのが悔しいってわけじゃないようだけど……。

「痛くない?」

「だ、大丈夫! です……」

「そう……」


 こ、困ったな……あ……。


 後ろから耳の辺りも洗われてしまう。手つきの気持ちよさに、おかしな気分になってくる。

「ふぁ……あ……」声に出てしまった。

 さらに髪もクシャクシャにされながら泡まみれにされる。

「も、もう自分でやれるから!」

 さすがに耐え切れなくなり、顔だけ振り返ると、奏はバスタオルは巻いていた。

「うん……先に出てる……」

 そう言うと出ていった。

 あやうく理性を失いそうだったが、なんとか自分を保てた、と同時に、


 情けない男だと思われたかも……。


 そんな後悔の念も浮かんでしまった。

 結局湯舟にはろくにつからず、上がることにした。

「これは……」

 更衣室に戻ると、ラックの中には新品の着替えが用意してあった。下着とシンプルなTシャツにハーフパンツ。


 着ろってことだよな……。


 体を拭くと、開封して身に着けていく。奥では洗濯機が回っており、自分が脱いだ服が洗われているのだとわかった。


 か、帰す気ないってこと……?


 怖いやらうれしいやらで足元がおぼつかなくなる。

 おそるおそるリビングに戻ると、奏がソファの上で体育座りをしながら、なにかのテレビ番組を見ていた。だが、その目はモニターではなく、どこか遠く、宙に視線を漂わせているように見える。

 話しかけていい様子ではないように思えて、無言で横に座った。

 しばらくの間を置いて、奏が口を開いた。

「……泊ってって」

「……うん」

 そう応える他なかった。


 奏の部屋の前で待たされる穂高。

 落ち着かずにあちこちに視線を走らせると、嫌な考えが頭に浮かんでくる。


 あの超常現象みたいなのと、なにか関係が……いや、そんなことあるわけない……!


 自分が無意識のうちに奏を操作しているなど想像することさえ恐ろしい。


 やはり直接、はっきり聞こう……。


「どうぞ」

 部屋の中から、催促する声が響いた。ドアノブに手をかける。


 う……入試面接の時より緊張してる……。


 なるべく音をたてないようにそっとドアを開いた。

 部屋の中は、薄暗く窓にはカーテンがかかっており、天窓からの淡白い月光がわずかに隙間から漏れている。奏の姿を認めてわずかに息をのむ。


 予想はしてたけど……。


 ベッドは一つである。そこに両手をついて腰かけながら、じっと穂高を見ている。感情の読み取れない真顔。奏は時々こういう顔になる時がある。本人も少し気にしているのか、穂高が気づくといつも、表情を切り替えてほほ笑んでくれるのだが、今はそういう気配はない。素になってしまうことなど誰にでもあるので、そんなことはまったく気にしてはいないが、今日の奏はなにかおかしい。



 もし、今、求められたら……、いや、行こう……。やさしくしてあげよう……。

 手を固く握り緊張を握りつぶして、奏の元に踏み出す。暗がりの中、奏はキャミソールの上になにか羽織っている。

 わずか手前まで来ると、奏がまた上目遣いで穂高を見る。口を開きかけたが、わずかに位置を横にずらした。その意図を察して穂高も奏が空けたスペースに腰を落とす。

 沈黙。風が窓を軽く揺らした。気まずい雰囲気ではないが、なにか切り出されるのを待っている感じがする。奏を見ると重い表情で床を見ていた。穂高は意を決した。

「奏……どうしたの? さっきから様子が……その、いつもと違うように見える、けど……」

 奏がわずかに口を開いたが、声は聞こえない。なにか言いよどんでいるように見える。

「べ、別に無理に言わなくたっていいんだ。ただ……君が心配で……」

「……ごめんなさい」消え入るようなか細い声だった。

「え……?」

「私、昨日の夜……お母さんに電話したの。一応やってる定時連絡みたいなもの、ほとんど私が一方的に喋るだけ、だけど……」

「うん……」

「それで明日の……つまり今日の試合のことも、少し話したんだけど……」

「……」わずかに目を細めて、静かに息を吐いた。

 もうそれだけで、だいたいの事情が理解できた。なんの興味もない、といった冷たい物言いをされたのだろう。今日の試合のメンタルにも影響したかもしれない。


 うちの父さんも似たようなもんだ……。


 頭で思っても、口には出さなかった。父は自分にはなんの関心も抱いていない、ように穂高には思える。元々淡白な性格であったのもあるが、母が死んでからは仲介役を失ったかのようにお互い最小限の会話しかなくなった。小学校の頃からずっとそうだったのでそれが当たり前になっていたのだ。中学に入ってからはむしろそのことがありがたかった。話す話題など思いつきもしない。


 子どもが親をやってほしいと思わなければ、親も子どもを放置するのも自然な成り行きだろう。それでも、奏は親子のつながりというのをどこかで信じているのかもしれない。それがこうもあしらわれたとあっては、心穏やかではいられないだろう。

 奏はそのまま黙ってしまった。これ以上話すのはつらいのだろう。

 さすがにこの件は、言葉が詰まる。奏の家の問題であり、おいそれと踏み込んだ言い方はできない、と思える。


 俺にできるのは……。


 奏の肩に、手を回して引き寄せて、もう話はわかったということを伝える。

「ありがとう……」

 目と目で想いを伝えあい、ゆっくり顔を近づけて、唇を重ねた。

 そのまま抱き合いながらベッドに倒れこんだ。奏が羽織っていたものが外れるとキャミソールが出てきた。

「ごめん……」

 まだすべてを見せるのは恥ずかしい、ということだろう。そのまま頭に手を回されて、導かれるように奏の胸に顔を埋めた。頭を抱えている腕に力が入り、強く密着させられる。


 ああ……意識が飛んじゃいそう……。え……?

 奏がコンフォーターを引っ張り二人の上に置くと、大胆にも穂高のハーフパンツを脱がし始めた。


 う、うそ……? あ……。


 素肌になった足を絡めてくる。腕の力も一層増した。


 そ、そんなことされたら……。

 奏の背に回している手のひらから変な汗が出てくる。股間の方も……。

漫画みたいに鼻血が出るのではと思えるほど、顔が熱くなってきたが声だけはもらすまいと、必死になる。

「大好き……」

額にキスをされた。

そこで……止まった。それ以上は、まだ踏み込むべきではないと思えた。ぼんやりと顔から彼女の体温を感じ取る。


意気地なしと思われてもいい……。今は、このままでいたい……。


しばらく、お互いの肌の温もりに身を委ねていたが、奏は徐々に寝息を立て始めた。やはり、心身ともに疲れていたのだろう。眠っている彼女の体を玩弄するような無粋な真似はできない。

 奏の胸に顔を埋めながら穂高はなんとなく昔のことを思い出した。小学生の頃のフォークダンスの時のことだった。自分が女子の手を取ろうとしたら、その女子は露骨にいやがり、わずかに指先だけを当てて手を握ったように見せただけだった。自分の手が汚れているのではと、気になったが、そういう仕打ちを受けた男子は他にもいた。楽しげな顔でしっかり手を握ってもらえた男子もいたが、穂高はそちら側ではなかった。穂高の女性への苦手意識を高めたできごとであった。


 だけど今は……。


 目の前で眠っている少女は自分の全身を包むように受け入れてくれている。そのことがひたすらうれしくて、心地よく、安心できた。

 愛して……もらえているからだ……。きっと母さんにも昔は……。


 こうしてもらえたことがあったのかもしれない。


 そういえば最近はほとんど……。

 母の事を思い出さなくなっていたことに気づいた。


 俺……マザコンなんかじゃない……と思い、たいけど……。


 それでもこうして奏の腕にくるまれていると、なにか母性的な温かさに身を委ねているような感じがこみ上げてくる。

 もう、母さんのことは考えてはいけないんだろう……。忘れるってことじゃない。ただ、今自分を抱きしめてくれている奏の事だけを想おう……。


 目を閉じた。

 十五年以上生きて来たけど、今ほど幸せを感じた時なんてなかった……。



 あれほど恋焦がれた少女と肌を重ねて眠る。ここまで来れたのは奇跡的な僥倖、だったのかもしれない。もし受験に落ちていたら、もしあの時奏を助けなければ、もし彼女を諦めていたら、こうすることはできなかったのである。いくつもの試練を超えて自分で選び、自分で勝ち取ってきた道がまばゆい思い出として走馬灯のように駆け巡る。お互い、ずっと求めていたのかもしれない、心の隙間を埋めてくれる誰かを。

徐々に視界がぼやけていく。奏の体温を感じながら意識は途切れていった。


「う……うん……」

 目が徐々に開いていく。

「あ……」

 体を起こすと、奏の姿はなく彼女の残り香だけがベッドに残っていた。着衣はいつのまにか元に戻っていた。

「奏……」

 取り残されたような寂しさ、異様な心細さに襲われる。


 馬鹿か、奏はすぐ下にいるってのに。幼児退行だ、こんなの……。


「ほぉかどうふかくご」

 あくびとともにそんなこと言いながらベッドから降りて、伸びをする。一階からなにか音がする。奏がなにか作っているようだ。

 一階のリビングに降りると、奏がキッチンでサラダを作っていた。こちらに振り返り、穏やかな笑みを向けてくれた。

「おはよー」

「おはよう……」

 寝ぼけ眼のまま、目元をぬぐった。

「今、朝食用意するから、顔洗ってきて」

「うん、ありがとう……」

 再び、あくびをしながら洗面所に向かう。

 洗面所には新品の歯ブラシセットまであった。奏の配慮に申し訳なくなる。

 顔を洗い終わると少しハッとした。初めて、彼女と夜を共にしたというのに驚くほど落ち着いている。


 これが……日常になっていくんだ、きっと……。


 いつまでも、そうであってほしいと思う。そうでなければ自分は、ダメになる。体をきつく引き締めると深呼吸して、リビングに戻った。

 手伝おうと思ったが、もうあらかた準備は終わっていた。ささやかな朝食を共にする。コーヒーを受け取ると、手がわずかに触れて、奏が顔を赤らめた。なにをいまさら、と思ったが彼女も昨日のことはちょっと、放胆過ぎたと思っているのだろう。改めて意識すると穂高も顔が火照ってくる。

 バーベキューは昼からなのでまだ時間は十分ある。朝食の後は、リビングのソファで抱き合いながらぼんやりするだけとなった。

 これからは、昔のことを考えることはあまりなくなっていくだろう……。でも、それでいいんだ。

 過去を悔やんで心の傷をただ眺めるだけの時はもう終わった。今、自分が生きる世界はここにある。奏との未来、それが穂高の生きる理由のすべてとなった。


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