(4)
部室を出ると汗だくになっていた顔を入念に拭いた。この後、学期末のワックスがけを業者がやるようで鍵をかける必要はなかった。
「大丈夫?」
「う、うん、ちょっと暑くなってきたね……」
「夏ですからねー」
そういうことにしておく。
なんだったんだあの人……。
変な気分だったが、先ほどラウンジで感じたおかしな感覚とは無関係であるように思えた。
渡り廊下に出ると、既に夕暮れとなっており、おしゃべりをしながら三人で歩いた。
「奈都美先輩はね、英語が得意で藤林先生のゼミ生でもあるの」
「ふーん……」
ひょっとして帰国子女だった? あれはどこかの国の作法だったのかも……そんなわけあるか……!
途中で自転車も回収して、車駅までの道を行く。照明も次々に点灯を開始し、校舎からは生徒たちの喧噪はもう聞こえない。当分ここは静寂のまま二学期を待つことになる、と思えばなんとなく穂高も惜別の情を感じてしまう。
もうここが、いるべき場所になってしまったのかもな……。中学の時なんて……。
最後に学校に行った日、一応卒業式には出たが、極力誰とも話すことはせず、逃げるように家に帰った。自分の存在でクラブやクラスのみんなを嫌な気分にさせたくなかったからである。そこであった三年間の全てを忘れたかった。
今は……違う、友人もできた。なにより今は……うん……?
道沿いの木に誰か寄り掛かっている。小さなその姿は見覚えがあった。なにか考え込むようにうつむいている。
杉岡? なにやってんだあいつ。
「おーい」
「あっ……」
驚いたような顔でこちらを見る。あまり見たことのない彼女の様子を怪訝に思う。
「千緒、どうしたの? 先に帰るって言ってたのに」
「う、うん、ちょっと……ね」
意外にも、穂高を煽ってこない。朝の意地悪笑顔はどうしたのかという、沈んだような表情。
体調でも悪いのか?
「おい、大丈夫か?」
「……なにが?」
「いや……なんか、元気ないように見えるから」
「平気……です」
です?
「やっぱなんか変だぞ、お前」
「う、うるさい!」
「はいはい、そこまでにしましょう」結実が割って入った。
なにか不自然なものを感じたが、すぐにどうでもよくなった。今の穂高の頭にあるのはこの後、奏と睦合うことだけであり、それ以外は吹いて去っていくだけの風に過ぎない。二人の手前もあるので平静を装いつつ自転車を押しているが、早く彼女と触れ合いたくて足元がどうにもおぼつかない。
千緒のことは奏と結実も特に追及はせず四人で車駅まで向かう。多くの生徒がゆっくりとした足並みで徒党を組んで駄弁りながら歩いている。学期終わりで
「あ、あのさ」千緒が上目遣いで奏に視線を向ける。
「なに?」
「この後……奏の家に行っても……」
「千緒ちゃん」結実の咎めるような声。
「あっ……ごめん……」
なにか相談したいことでもあるのか?
「俺に気をつかうことなんかないぞ?」
余裕をみせるが、内心はわずかに動揺している。今日という日は奏といたい。
「い、いいの!」
「千緒、なにかあったの?」
奏の目に陰りが生じる。あの事件の裁判に関わることだったら穂高には聞かせられないだろう。あの男への訴訟は三年生が中心になっているはずだが、千緒もなにか被害を受けていたのかと思ったのかもしれない。
「大丈夫、もう平気」歩みを速める千緒。
「……ならいいけど」
「……」一瞬、彼女の視線を感じた気がした。
車駅周辺では、多くの生徒が名残惜しそうに別れの挨拶をしていた。
当分会えないんだろう。ここは全国から人が集まるから。
穂高も少々感傷にふけった。奏たちも同様のようだ。
「そういえば、二人の地元は……聞いていいかな?」
「神戸です」
「……山梨」
「へえ、意外と近かったんだ」
「え? あんたは?」
「あ……神奈川……」
自分で聞いておきながら自分のことは詳細にはいいたくないような気がした。
「ふーん……」
千緒もそれ以上詮索する気はないようである。
まだ弱いままだ、俺は……。
「あ……」
奏がそっと手を握ってくれた。大丈夫、瞳でやさしくそう呼びかけてくれる。
ありがとう……奏……。
呼出機から二台UVを手配した。が、さすがに今日は使用する人が多いためかしばらく待つことになった。
「なかなか来ませんねぇ」
「もう来るよ、赤いのが」
え?
わずかな間を置いて、一台のUVがロータリーに進入してきた。穂高たちのすぐ手前に止まったその車体の色は……赤かった。
「え? なんであんたわかったの?」
「え……あ、ああ、勘だよ……たぶん」
なぜわかったのかが。わからない。ただ、わかったのである。
「……あんたもなんか変じゃない?」
「う、うるさい!」
奏と結実が笑いだす。
うん……? 勘……だよな……?
なにか引っかかったが、そう思うことにした。先に千緒と結実を見送ることにした。
「それでは、私たちはこれで」
「うん、よい夏休みを。元気で二人とも……」
「また明日、来ますよー」
「あ、ハハ、そうだったね」
「……千緒、なにかあったら連絡してね」
「うん……バイバイ」
ドアが閉じられた。車が発車して行く。
「あいつ……どうしたんだろうね?」
「うん……ちょっと心配……」
言いたくても言えないなにかを押し込めたような表情、それを穂高は知っている気がした。それは……。
「ねえ、ところでどうして赤い車が来るってわかったの?」
「え? ああ……なんだろうね、第六感ってやつ?」
「アハハッ!」
二人、笑い合う。ようやく二人きり、わずかに手汗が滲んできた。
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