(3)
どれくらい経ったかは、もうわからなくなっていた。ただ、ぼんやりとした光の中にいる、そんな感覚だけしかない。もう呼吸の乱れはなくなった。ただ、か細い奏の体を抱きしめているだけ。
賭けに勝ったなんて思っていない。うまくいったとも思っていない。ただ満たされている。
これを……至福というのだろうか……。
頭がもうろうとしてくる。脱皮あるいは、生まれ変わっていくような心の、感情の横溢。
「あ……」奏が微かに声を上げた。
「……!」
強く抱きしめすぎたのだと思い、彼女の背に回した手をそっと緩めた。
「ごめん……」
「ううん……」
二人見つめあう。彼女の目に吸い込まれそうな気分になる。
好きなんだ……本当に……。
もう一度、口づけを交わした。日は傾き始め、二人の影を延ばしていく。恍惚とした感覚の中で、デッキの地面に映った二人の影を見た。
夕時……か……。……うん……?
影が増えた気がした。いや気がしたのではなく、はっきり増えているのが見える。静かに唇を離し、増えた影の先に視線を移した。
あ……。
「……」
みんないた。誰も口を開く気配がない。全員真顔。彼らに、向き直った。
「……あの」どっか行って……。
「いや……」そうじゃないだろ……。
「いや……そんなこと」思ってはいけない。
「その……ごめん……」なぜ謝る?
焦点の定まらない視線のまま、奏を見た。口元は固まっており、目だけが笑っている。
ようやく誰かが沈黙を破った。
「……その……、悪い、穂高……」
昌貴だった。
「いや、でもさ……全然気づかねえんだもん……」
だもん……って。
「俺たち、その……」
「覗き見てたわけじゃないよ……!」
斎も口を開いた。
「なかなか戻ってこないから、つい心配になって……」
「話しかけようにも……これじゃあね……」芳子も喋った。
真人を見た。うつむきながら、肩を揺らしている。
「……部長?」
泣いてる……?
「……あ、あはっ! ハハハ!」
笑っていた。大笑いでも、苦笑いでもない。ただ笑ったほうがいい気がするから笑う。そんな笑い。
「穂高、すまん! でも、よかった……んじゃないか? その……うまくいったみたいでなによりだ、うん!」
穂高も無表情のまま、うん、と頷く。
「そうですよ! 僕はお祝いするよ!」
「ああっ! そうだな!」
と言いつつなにかぎこちない斎と昌貴。
「あっ……これあげる!」
芳子からなにかのドリンクを受け取る。たぶん飲みかけだろう。呆けたように受け取ると、今度は結実を見た。いつものニッコリ顔だったが、かなり頬が紅潮している。
続いて千緒。
こちらは口元だけでも笑おうと、がんばっているように見えた。
ドリンクを手に持ちながら踏み出し、夕日を背に全員を睥睨する。なにかの大物がそっと出てくるような感じになった。すると、奏が穂高の前に出た。
「私たち、付き合うことにしました」
笑顔でそう言った。自分が言うべきことを言ってくれた。
全員拍手。無言で拍手。辺りの人たちが、なにごとかと一斉に注目する。
やめてよ……。
恥ずかしさなど微塵もなかったが、なぜかそんな言葉を思った。ようやく穂高も声が出た。
「……いつから?」
「……なにが?」昌貴が代表した。
「だから……聞いてたの……?」
そんなことはどうでもいいのだが、なにか喋らなくてはならない。
「ええっと……そうそう、確かほら、下でなにか演奏が始まった時にちょっと気になって、近づいた気がする」
「そう……」
「奏ちゃん、山家さん、おめでとう」
結実が出てきた。
「ありがとう結実」
奏が答えた。穂高もなんとなく会釈する。
「ずっと……ずっと好きだったんだよね?」
結実が穂高を見る。
「たぶんだけど、出会った時からずっと……」
うなずいた。
「すぐわかったよ、最初に山家くんを見た時から。それに……もう言っちゃっていいよね?」
奏に聞いた。再び穂高に向き直る。
「奏ちゃんのお家にお泊りだってしたんでしょ?」
八名中五名凍結。ブリザードでも吹いたかの如く。
「そこまでやって好きじゃないなんて逆におかしいよ」そう言って微笑んでくれた。
「……アリガトウ」なぜかそんな言葉が出た。
「クァハハハ……!」真人の変な笑い。
「で、でもさ! この中で気づいてなかったやつなんて、たぶん一人もいないぜ」
「……なにを?」真顔で聞いてみる。
「だからさ、君の……愛を、かな……?」
愛を、奏に、あげた。そんな解釈が出た。なにか詩心がついた気がした。
「あ、あんたさ……言いづらいんだけど、思ってることが顔に出やすいっていうか……」
そうなのかな? え? 奏?
「ともかく……穂高は……すごいよ! うん!」
「ああ、すごい!」
「すごいです!」
なにがすごいの?
「じゃあ、俺たちあっちにいるから……」
あっちってどっち?
「落ち着いてからで、いいからさ……」
落ち着いてますよ?
ここにいるのがいけないのだとようやく理解した。ドリンクを近くのテーブルに置き、奏の方に勢いよく振り向いた。
「あっ……えへ……」
かわいい……じゃなくて!
彼女の手を握った、そして言った。
「い、行こう、三崎さん」
引いてみたが、奏は動かない。なにかニッコリしている。
「あっ……行こう、奏!」
「うん!」
二人で歩きだした。全員無言で見送ってくれた、と思いきや、
「あれ……俺たち、大事にされてなくね?」
今度こそ全員大笑い。いわゆる大爆笑。
オレンジの夕日に照らされてなお、穂高の顔の赤さは映えていた。
「あはは……みんないい人たちだよねぇ……」
「……そうだね」
そのまま奏の手を引いて、とめどなく歩き続けた。
「奏……もう、そろそろ……」
「うん……もうちょっと……」
どこをどう歩いたのかは思い出せないのだが、穂高は奏の部屋に来て、ソファに座りながら二人抱き合っていた。
もうずっとこのままだった気がする……。
すでに時刻は二十時十一分、仲間達からの連絡はなし。
もたれかかってくる奏をやさしく抱きとめる。
「あと、もう少しだけ……」
彼女の吐息すらいとおしく思える。
そこで言わなければならないことを思い出した。
「奏……この間、聞かれた本当の理由だけど……んっ……」
口を口づけで塞がれる。もう、今さら話すことではないのだとわかった。
気が遠くなってきそうな心地よさ、安心感。彼女のすべてをそそいでもらっているような気さえしてくる。数分間のトリップを終えてようやく唇を離した。
「もう……行かなきゃ……」
「うん……ごめん、こんなに引き止めちゃって……」
「いや、うれしかった……また明日来るから……」
さすがに泊っていくわけにはいかない。
「来て……いつでも……」もう一度キス。
お互い同時に離れてから、ようやく立ち上がった。少し足がしびれていたがなんということはない。玄関まで二人で歩く。
「ここでいいから」
「見送らせて……」
手を取って返事に代えた。
「……UVで帰るよ」
「うん……」
以前の有人車は奏が用意してくれたものだったのだろう。もうUVを使うことになんの抵抗もないことを暗に伝えた。
二人でエレベーターに乗り込み、手をつないだままエントランスに向かう。
きれいだ……街の景色まで見違えて見える……。
輝く夜景を奏と二人で見渡す。夢心地になりそうになったところ一階に着いた。
エントランスには誰もいなかった。
土谷さん、気をつかってくれたのかな……?
入ってくるときは挨拶をしたのだが、察しのいい彼はもうすべて気づいたのだろう。
エントランスを出て、手前の通りまで無言で手を握ったまま歩いた。
正門横の呼出機からUVを呼ぼうとしたら、すでに用意してあった。どこまでも行き届いた気づかいに頭が下がる。
「それじゃあ、行くね……」
「うん……」奏が名残惜しそうに手を離した。
ドアが開かれ、乗車しようとしたその時に気づいた。
「あっ……」
「どうしたの……?」
「奏のアドレス、まだ知らなかった……」
「え? あっ、ああ……! そうだったね、すっかり……」
お互い慌ててRCを取り出した。
お互いのアドレスも知らないまま、ここまで来たなんて……。
呆れると同時にロマンティックなものを感じる。
のろけから指先がやたらふらふらして、なかなかてこずった。ようやく交換を終える。一息つくと、目をあわせる。
「……あ、アハハ!」同時に吹きだして笑いあった。
「それじゃあ、帰ったら電話する!」
「うん! 待ってる」
そう言ってようやくUVに乗り込んだ。発車すると、お互いの姿が見えなくなるまで視線を外さなかった。
「はぁ……」一人、車内で奏の唇の柔らかさを思い出して恍惚としてしまう。
はやく帰って……。
彼女と話したい。
寮に着いて、エントランスに入ると、昌貴が腕を組みながら仁王立ちしてニヤニヤしていた。
「お帰り、穂高くん」
「なにか用かな、昌貴くん」余裕の笑み。
「ああ、ずいぶん遅かったね」
近くのソファーに斎もいた。
「帰ってこなかったら、どうしようかと思ってたよ」今日は彼もなんだか意地悪い。
「や、やぁ、穂高……。こっちもあの後、楽しかったぞ」
ここに住んでいない真人もいた。こっちもとはどういう意味だろう。
「パンパカパーン」
奥には芳子もいたようだ。背を向けたまま、座りながら歌い始めた。メンデルスゾーンのあの曲である。千緒と結実はいなかった。
「ここ男子寮なんだけど、芳子くんは男だったのかな?」
「ぶっていい?」
お互い笑顔で挨拶を交わした。
「皆、出迎えご苦労、僕はやらなきゃいけないことがあるのでこれにて失敬」
全員を見渡してから、エスカレーターで上に向かった。四人の視線を背中に感じる。
「あいつ、当分使い物になりませんよ」
「マシン展の後でよかったぁ!」
そんな声が背後から聞こえてきたが気にしない。
部屋に入ると、着がえもしないでRCを接続機でパソコンに繋ぐ。パソコン本体から大きめの平面モニターを空中に投射すると、教えてもらったばかりのアドレスに電話をかけた。
ワンコールめが終わらないうちに奏が出た。
「……」部屋着に着がえ終わっており、なんともかわいらしい。しばらく無言で見つめあう、またしても同時に吹きだした。
二時間はおしゃべりしただろうか。二十二時五十二分になろうかという時刻に、奏の体調を気づかって、通話を終えることにした。
「明日来てね」
「朝一で行くよ」
「それじゃあ……」
「うん……」
同時に映像電話をシャットダウンした。
大きく深呼吸すると、ベッドに向かい横になる。枕を抱いて仰向けになった。
「…………」
夢心地だった。
「う……あは……! アハハハ!」
枕を投げて飛び跳ねた。これほど踊る心で夜を迎えた日があっただろうか。これほど明日が来るのが待ち遠しいと思った日があっただろうか。夢の中でも彼女に会いたくて仕方なかった。
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