(2)

 穂高が九才の時だった。近所の町内会の幼児たちの付き添いで潮干狩りに行くけど、穂高も行かないか、と母に聞かれた。穂高は断った。これくらいの年になれば、いつも母親と一緒だなんていうのは恥ずかしいことであると考え始めていた。

 その日は友達と遊ぶ予定もなかったので、部屋でゲームをしているだけとなったがそれもすぐに飽きた。


 やっぱり行けばよかったかも……。


 そう思いかけた時、電話が鳴った。出た相手は警察だった。なにかためらっているような口調だったが、とりあえず近くの通りまで来るように言われ、そこまで行ってみた。

 そこでひどい惨状を見た。車が横転して、まだ赤みのある血しぶきの跡が路面に張り付いている。幼児たちが保護者の腕に抱かれて泣いていた。自分を見ると彼女たちは青ざめて、動転した。さらに警察に駆け寄り、猛抗議を始めた。

 なぜここに来させた、そんな声を聞いた。重苦しい空気の中、一人の婦警に手を引かれパトカーに乗せられた。怖かったが、その婦警は穂高を怯えさせないよう、必死だったのだろう。

 子供ながら、もうその時点でわかった。あの車にはねられたのは母なのだろう。おそらく病院に運ばれたはずだ。母の所に連れて行ってほしいと彼女に頼んだ。かなり、躊躇していたが、無線でなにか話すとパトカーを発車させた。

 近くの大きな病院の一室まで案内された。部屋に入ると、緑色の服を着た人たちがじっとしていた。もう手当は終わったのだろうか。横たわっている母の姿を認めて、歩み寄った。一瞬、止めようとする気配があったが、止められなかった。顔に置いてあった布のようなものを取って、母の顔に触れた。

 冷たかった……氷のような冷たさだった。そしてわかった、母は死んだのだと……。


 原因は無人車の暴走だった。AIになにがしかの異常が起こったらしい。それが、なんであるかは子供の穂高にはわからなかった。大人たちですら、よくわかっていないように見えた。

 ニュースにもなり、父が勤務する法律事務所の同僚たちや、つきあいのあった弁護士たちは訴訟を戦うことを強く勧めたが、父はそれを望まなかった。


「あの時は、父さんなりになにか考えや思うところあってのことだと思ってた。でも、今、考えてみると……面倒だっただけ、なんだと思う……」どこか遠くを見るように奏に語る。

 父は悲しんでいるようにも、怒っているようにも見えなかった。むろん、喜んでいるようにも……。ただ、仕方がない、そんな雰囲気だった。

 事故を起こした企業は、父があっさり和解に応じてくれたことに感謝して、かなりの額を慰謝料として払ってくれた。口止め料の意味合いもあったのかもしれない。母の個人資産と合わせて、そのすべてを穂高が相続することとなった。小学生の子供が手にするにはあまりにも大きすぎる金額だった。

 民事で訴訟を経なかったこともあり、刑事でも企業は微罪で済んだ。しかし、無人車の管理責任者は自ら辞表を提出した。彼は穂高の家に訪れ、謝罪した。何度も頭を下げる彼に父は言った。もう結構ですから、と。

 母が死んだ、殺されたというのになにが結構だと言うのだろう。しかし、自分にも涙を流して謝り続けるその人を責めることも穂高にはできなかった。なにを憎んだらいいのか、わからなかった。

 ただわかるのは毎日、朝起きた時、学校から帰った時、夜寝るときに当たり前に見ていた母の顔は二度と見られなくなった、ということだけだった。

 学校から帰り、母の部屋の戸を見ただけで毎日、泣き崩れた。だが自分を慰めてくれる人はもうこの家にはいない。ベッドの上で、自分で自分の体を抱いて、悲しみと寂しさに悶え続けるしかなかった。


 当然、この悲惨な事件はすぐに学校にも伝わった。周りからの哀れむような視線もつらかった。いやでも耳に入ってくる。かわいそう、大嫌いな言葉になった。

 自分に残してくれた、母のお金は大きくなるまでは使わないと心に誓った。

 しかし、時が経つにつれて、悲しみも薄れて自分の心も変わってしまった。中学一年の時サッカー部に入り、スパイク等の用具一式を買うお金が必要になった時のことだった。父に頼めば普通に買ってくれただろうが、なぜかできなかった。反抗期だったのかもしれない。

 そこで思い出したのが、あのお金だった。あの時使わないと決めていた預金をこれくらいなら、とついカードで使ってしまった。一度こうなると、子供の決心などもろいもので、あれくらいなら、ここまでなら、と、どこかで言い訳を作り日常的に使うようになってしまった。

 ある日、カード会社から明細が届いた。それを見て固まった。使用した額は全体の0,1パーセントにもならない。しかし、その使途はどれも享楽的なものばかり。

 裏切ったと思った、自分自身を。九才の時の自分が、背後から軽蔑するような目で自分を見て、去っていった。


 それ以来、〈遊び〉が嫌いになった。その分、運動や勉強に時間を使い、体力はつき成績も向上した。だが、

「人付き合いそのものが面倒になったんだ。あれやこれやと出費するからね。両極端で馬鹿なんだよ俺……」

 中学校ではもうほとんど必要最小限の会話しかしなくなった。友人と言える人間もいなかったが気にしたことはなかった。必要ないのだから。

「いつのまにか嫌っていたはずの人工知能みたいな人間になってたんだろうね……」

 部活動でもその姿勢は変わらなかった。そして、中学最後の公式戦のメンバー選抜トレーニングの時のことだった。

「チームの何人かが、四人、いや五人くらいだったかな……。やたら俺ばかり狙って妨害してきたんだ……」

 なぜ彼らがそんなことをするのかわからなかった。こちらが怒ってにらみつけると、向こうも怒ったような顔でそっぽを向く。

「そんなことをすれば、自分の評価だって悪くなるのに……そこまでして俺一人を排除したいのかって」

「ひどい……」

「まだ続きがあるんだ……」


 結局、穂高はベンチとなった。監督が、あのごたごたをどう評価したのかはわからない。だが、自分ではチームプレーはできないと判断されたのだろう。自分を妨害したチームメイトたちもベンチ。そんな軋轢はあったがよくできるやつらだと認めてはいた。お互いまったく目をあわせないまま観戦、0ー3で敗退。出番は一度も回ってこなかった。

 その日が終わってからは一度も部活には行かなくなり、ただ学業に没頭するだけの中学生活となった。対人不信からこの街の高校に行くことすら嫌になり、以前から意識していた新興都市である知瀬の名門、星緑港高校への受験を目指しがむしゃらに勉強した。

「ここに入って、あいつらに吠え面かかせてやりたいって気持ちもあったのかもしれない。だけど……」

 受験を終えて、無事に合格を勝ち取った中学最後の二月のことであった。彼らがいきなり自分の前に現れて頭を下げたのだ。

「こう言われたよ……。お前の実力は認めていた、だけど、どうしてもお前とグラウンドに立つのは不安だった、それでつい、って……」

 結局試合に出ることすらできずに一回戦負け、自業自得だと。モヤモヤした気持ちのまま卒業したくないから謝りに来た、と。

「俺は、なにも言えずにアホみたいに突っ立ってるだけだった。それで、やっとわかったんだ。問題は俺の方にも……いや、俺の方にあったんだって……」

 頭を手で押さえてうつむいた。


「あいつらと距離を縮めて、信頼関係を築く機会はいくらだってあったんだ。それをすべてふいにしていたのは……俺だったんだ……」

 居ても立ってもいられず駆け出した。家に向かい母の部屋、だった部屋の戸を開けた。いつのまにか、物置みたいになっていた。自分は一度でもこうすることを反対したことがあっただろうか。母の写真はどこにもなかった。どこへやったのか気にしたことすらなかったことにその時、気づいた。

 立ち尽くしたまま、呆然とした。言葉が聞こえた、気がした。母がいつも言っていた言葉。

 友達は大事にしなさい。

 あまりにしつこく言うから、生返事ばかり返すようになっていたのだ。ずっと昔に言われていたその言葉をその時、思い出した。

「あいつらとは……一応和解した……でも……」

 自分を責めるあまり、卒業アルバムの部の集合写真の撮影には出られなかった。そして中学生活は終わった。


「こんな自分語り、聞かされても困るだけかもしれないけど……」

「ううん、教えてくれてありがとう……」

 奏の心の奥を知ってしまったことに対する詫びの意識もあったのだろう。彼女もそのことはそれとなく察したようだ。

 下の方では、準備が終わったようでなにかのオーケストラが始まった。視線を向けてみる。

「カンタータ第140番……」奏が言った。穂高にはよくわからなかった。

「だから、ここに入学した時に決めたんだ。ここではチームワークをやろうと、それを一緒にやる仲間も大切にしようと……」

「……うん、大事、だよね。そういうの……」

「マシン展の時、それが少しできた気がしたんだ」

 両手で手すりを握り、赤焼けの海を見つめる。奏もすぐ後ろまで来てくれた。

「みんな、大事にしなきゃいけない人たちになったよ。部長、昌貴、斎、上北……。それに今は、杉岡や香月さんだって……」

「ふふっ、私は?」

「君は……」


 穂高の中で、なにかが輝いた。光が映像とともに網膜に流れては消えていく。それは……これまでのすべて記憶。入学式の日に初めて奏を見た時からのすべて……。その時から始まっていたのだ。

 その光が穂高の背中を押した。今しかないと思わせた。決意が弱さを踏み越える。


「君は……! 君は違う! もうそんな……そんな次元じゃない……!」

 振り返ると同時に、奏を凝視して、叫んだ。

「俺は……」君が……。

 時が止まった。世界が暗む。いつかのガスマスクの男の言葉が穂高を覆った。

 〈死ねるのだな?〉

 負けたくないと思った。あの男にではない。自分を引きずり倒し、深い闇に引き込もうとするなにかに。一歩踏み出す。彼女の両肩を両手でつかんだ。そして……。

「奏! 君が好きだ! 君のためなら死ねる!」

 そう言った……。

 静寂。奏の目は微動だにしない。なんの感情も読み取れないあの最初に見た目。


 あ……おれ……は……。


 光が弱まっていく。消え入りそうになるとともに、目を閉じかけた次の瞬間。

 唇に、なにかが触れた。それは、彼女の、

「私も好き……」

 唇だった。

「あ……! ……は!」

 奏を両手で抱きしめた。彼女も両手を穂高の背に回す。

「う……! く……」

 嗚咽のような声。雲からこぼれた光が二人を照らす。もうここには二人しかいない、そう思えた。

「大丈夫……」

 奏がやさしく、ささやきかける。いつまでも、ただこうしていたかった。



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