(3)

 走る奏を必死に追いかける。かなり速く、角を曲がるたびに見失いそうになり、呼吸が乱れ始めた。


 くっ、こうなってくると……。


 機械に頼り過ぎて運動不足、という千緒の言葉が身に染みてきた。

「ハァハァ……! あ……」

 三階の廊下の突き当りでようやく止まり、背を向けて立ち尽くしている奏。

 穂高も立ち止まった。彼女の背中を見ているだけで、身を切るような痛みに襲われるが、今、立ち去れば永遠に彼女を失うことになるとさえ思えた。頭の中を吹き荒れる焦燥を静め、確かな足取りで、一歩踏み出した。


「三崎さん……」

「……どうして……」消え入りそうな声。

「え……?」

「……どうして教えてくれなかったの?」

 背を向けたまま奏が口を開いた。

「全部……全部、山家くんがやってくれたんでしょ……あの人を捕まえたのも……」

「いや……、俺は……」

 あんな男を人とすら呼んでほしくない。

「どうして……?」

「俺は……大したことはしていない……偶然だったんだ」

 すべて話すしかないと覚悟を決めた。

「あの日……君たちが第四実習館に来た日のことだが、最初、杉岡が俺がやつを追い払ったみたいなこと言ってただろ、あれは本当のことじゃない、あの……」

 クズ野郎と言いかけて口をつぐむ。

「あの男と勘違いされたんだ」

 今思えば、あんな男と間違われそうになったという事実に悪寒すら感じる。

「誤解はすぐ解けたが、杉岡はそれに責任を感じて、そういうことにしたんだと思う。でも、あいつのことは責めないで」

「そんなこと言ってない……!」

 奏に話を遮られる、今までそんなことは一度もなかった。激しい動揺が全身を突き抜けるがそれでも穂高は続けた。

「……その後、部長に言われて、俺が三崎さんたち三人を車駅まで送っただろ。その途中だった。なにか視線のようなものを感じて、それで……少し先に行って。調べてみたんだ。それには上北から借りた探知機、のようなものを使った」

 あの時の記憶を必死に探り、思い出す。

「そしたら、誰かがカメラを向けているのがわかって、俺は、威嚇のようなことをやった。三崎さんたちは後ろの方にいたし、すぐに終わったことだったから気づかなかったみたいだったけど……」

 奏は背を向けたまま黙って聞いている。


「それやったら……やつは窓を蹴って逃げた。ここから先は俺も見てないけど、その音を聞いたセキュリティガードがやつを捕えた。それでこれまでのいやがらせの写真やらの……犯罪の証拠もすべて出てきた……そう聞いた」

 息を大きく吸って、呼吸を整える。

「後は……三崎さんも知っての通りだ……」

 たまたま一人の犯罪者を破滅させることになった、ただそれだけのことと思っていた。

「……どうして言ってくれなかったの?」

「それは……三崎さんもずいぶんあのクズには嫌な思いをさせられただろ。杉岡もすごく苦しんでいるように見えた。だから、そんな話を振って、君たちをこれ以上傷つけるようなことにはしたくないと思って……」


 ただ君を想っていた……。


「大きなお世話よ!」

 彼女がついに振り返った。目からはとめどなく涙があふれ、頬を伝って流れている。

「み、三崎さん……! 俺は、ただ……!」

 つらい。自分の今までの人生で感じたことがないほどの激痛。

 こうなってはどんな弁明も彼女の神経を逆なでするだけだろう。だが、ここで押し黙るわけにはいかない。


 俺は……ただ……。


 あの日から、君だけを想っていた。

「……あなた、藤林先生に言ってたよね……。偶然見かけたから、驚かせただけとか、ざまあないとか……」

「あ……」

 血管が止まったのではないかと思えるほどの衝撃が走った。

「……ごめんなさい。私、あれ、聞いていたの……。部屋の外から……。あんなの、すぐ嘘だってわかった。でも、なんであなたがあんな嘘をつくのかは全然わからなかった……」

 焦慮が喉を締め付ける。必死で言葉を組み立てようとするがまとまらない。

「一体なにが、あなたをあそこまで追いつめているのか……それがわからなくてずっと苦しかった……!」

 あの会議室でテーブルにもたれかかって、力尽きたように眠っていたところも見ていたのだろう。

「それは……」

「なんでなの? なんのために、あんな……」

「あ、あの時は、マシン展が近かったから、ついナーバスになって……」

「……嘘」

「え?」

「また嘘ついてる……」

 奏が充血した目を穂高に向ける。


「あなた嘘つく時、目が右によけるのよ。入学式で初めて見た時からそうだった」

 今度こそ……完全に言葉を失った。あの一秒にもならなかったであろう交差を彼女が覚えていたことに、ただ瞠目して立ち尽くすしかなくなった。

「……私ね、ほんとは人の目が嫌いなの。誰かに見られることが……。中学生の頃から見られることが多くなった。ほとんど男の人……その人たちが私の顔やら体やらをちらちら見るの。本人たちはあれでこっちが気づいていないと思ってたみたいだけど……」

 低く、暗い声音。ずっと心の奥に抱えてきた闇を話しているのだろう。

「なんで自分が見られるのかわからなかった……ううん、ほんとはわかってた……。あさましすぎて、とても口にはできないような理由……アハハッ……!」

彼女は今、叫んでいる。今まで決して言葉で発することができなかっただろう心の叫び。

「だから、いやがらせが始まって……あの、クズさんだっけ、アハッ……! ともかく、じろじろ見られたり、カメラに撮られたりするのがいやでいやで仕方なかった、吐いたこともあった。クラブも辞めたくなったし、学校にも行きたくなくなった……! でも、できなかった! つらいのは私一人じゃない、みんなもそう……。だからみんなを見捨てて私一人が逃げるなんて絶対できなかった……!」

 穂高の全身から汗が染み出る。もっと早くに彼女たちを助けたかった、知らなかったがために、どうしようもなかったこととはいえ、無念と不甲斐なさに苛まれる。

「それで……誰かが、退治してくれたって聞いた時、ホッとした……。でも、それが! それがあなただったなんて……!」

「……すまない。三崎さんにはちゃんと話しておくべきだった」

「……ねえ、どうして。そもそも隠すようなことじゃないでしょ……」

「……それはいずれ話す。そう遠くないうちに必ず……」今はそう言うしかない。

「……ほんと?」

「ああ……」

「……わかった」


 奏は目元をぬぐうと伏せていた顔を上げてまっすぐこちらを見た。

「山家くん、助けてくれてありがとう」

 涙で赤く腫れた頬と精一杯に作ってくれたであろう笑顔で、言ってくれた。初めて、彼女と話しをしたあの日の言葉……それを、今、また聞いた。

「それと……色々ひどいこと言っちゃって、ごめんなさい……ごめ……うぁぁ……」

「み、三崎さん!」

 泣きだした彼女に駆け寄る。抱き支えようと手を伸ばしたが寸前で止めた。この娘は自分の彼女などではないのだ。


 今は、まだ、そう思いたい……!


 いくつかの足音がこちらに近づいてくる。振り返った、女子が三人、男子が四人。


 テニス部、だろう……。まずいな、今の彼女には説明ができない。


「なにしてる⁉」

 男たちが駆け寄ってくる。


 自分で話すしかないな。


 前に出た。接触まで後わずかという距離で何かが横合いから飛び出し穂高の前に立った。

「心配無用です」

 結実だった。いつもの彼女とは思えないほどの俊敏さだった。彼女がこちらに振り返る。

「山家さん、後は私たちに任せてください」

 女子部員たちが泣き崩れている奏を支え始める。

「すまない……」

 そう言うと目の前に立つ男子生徒たちの脇を通ろうした。

「おいっ!」

 腕をつかまれた、が誰かがそれを振りほどいてくれた。

「行って……」千緒だった。顔は見えないが男子たちをじっと見ている。

「ありがとう……」 

 まっすぐ歩いて、階段を下りていく。振り返りはしなかった。


 西に傾き始めた日の光が、部室棟を赤く染め、窓からのそれが一人歩く穂高の肩にかかった。

 目を閉じて思いをはせる。自分に見せてくれた彼女の内面、持てる者に生まれたが故の苦悩、穂高にずっと抱いていた疑問。たった今、知ったすべてが頭の中を流れていく。


 彼女は本当の心を、誰にも見せたくなかったであろう真実の顔を俺に打ち明けてくれた……。彼女にはいつも先を越されてしまう。だが一歩出遅れようとも、必ず俺も……!


 先ほど握られた腕がわずかに痛む。しかし、


 みんな彼女が好きなのだから……。


 そう思えば痛みもすぐに霧散していった。


 それにしてもさっきの昌貴たちはすごかったな。なにかをなそうとする意志があればああいう顔ができるんだろうか。俺はまだ、至ってないんだろうな。


 再び一階まで戻ると、穂高の姿を認めた四人が駆け寄ってきた。

「穂高! その、大丈夫だったか? 彼女……?」

「ええ、ちゃんとこちらの話は伝えました。今はテニス部の人たちが見てくれています」

「穂高の方は……?」斎が心配そうに見てくる。事情を聞いたのだろう。

「全然問題なし。さあ、レックスを格納してしまおう」

「う、うん、ずいぶん遅くなっちゃったけど」芳子が真人の方を向いた。

「よし……いったん戻ろう」五人でC2ブロックまで歩き始めた。

「さっきの三人はすごい迫力だったよ、こっちまでちょっと怖くなっちゃったくらい」

「そ、そうね……はは……」

 昌貴が軽口で返さないのが意外に思えた。真人も苦笑しつつ冷や汗をかいているように見える。


 あれ……?


 考える癖はあっても自分のことはあまり考えない人はいるものである。

 ブロック近くまで戻って来ると藤林が心配そうに立っており、おおよその経緯を説明した。

「……わかりました。三崎さんの方は我々に任せてください」

「よろしくお願いします」

「それと、先ほど事務から連絡がありまして、あの生徒については不法侵入と傷害未遂で被害届を出すということになりました」

 あの男の話になり、また胸のムカつきが始まりそうになったが、もうこれ以上、目の前の女性を心配させるわけにはいかない。心を静め、平静になるよう努めた。

「ですので山家さん、あなたも……」

「もう、はやまった真似はしません」

「はい……。今回の件は我々の不手際です。申し訳ありません」

「い、いえ、自分の方こそ、以前の第二図書館でのこと謝ります。すみませんでした……」

「いいえ、私はテニス部の方へ向かいます。それでは失礼します」

全員で礼をして藤林を見送った。

「大変だよな、先生もさ……」

「ああ……」

 心底そう思った。

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