(2)

「……あ」

 思わず口に出てしまった。

 昌貴は、怒っていた、なんてものではない。殺意すら感じるほどの形相で男を見下ろしている。顔の血管まで浮かび上がっているようにすら見えた。

「なんだ、お前?」だ、のトーンが少し高くなった。

 男は口元を再び歪ませ、威嚇の顔を作ってにらみ返すも、昌貴の眼力に圧倒されて、すぐにうつむいた。怒りと屈辱を抱えた表情を浮かべながらプルプルと震え始めた。もはや大人と子どもの対決の様で、恐怖すら感じているように見える。

「ま、昌貴!」

 最初は男が昌貴になにかするのではと心配したが、今は昌貴が男を殴らないか心配だった。身長180以上の昌貴に殴られたらこの小男は死んでしまいそうである。

 焦燥して駆け寄ろうとした次の瞬間、空中平面モニターが壁側に出現した。

「これは……」

 そこに映ったのは、目の前にいる男である。この男が石を投げた瞬間が克明に記録されていた。


「やあ、驚いたかい」

 声がした方向を見ると斎が歩いてきた、のだが声がいつもと違う。

「ここは事故が起こった際の検証のために二十四時間録画されているんだ」

 斎は笑っていた。しかし、口だけ笑っているのであり、目はまったく笑っていない。

 冷笑、というやつなのであろうが、穂高にはひどく怖く見える。


 こ、こんな冷たい顔ができたのか……?


 昌貴のマグマのような怒りよりもさらに戦慄を感じた。氷のような瞳、目だけで相手の命を奪えそうな圧迫感。

「ああ、失礼。盗撮はお宅の得意技だっけ?」鼻で笑うように言った。

 そして、その言葉でわかった。この男の正体が、


 テニス部へのいやがらせ……! あれは……! こいつか! 三崎さん、杉岡、香月さん、あの三人を、大勢の女子部員たちを苦しめ続けた!


「お前!」

 殴ろうとした。本気だった。殺してしまってもいいとさえ思えた。

「山家っ!」

 地面が揺らいだと思えるほどの大声が響いた。真人がやってくる。苗字で呼ばれたのには気づかなかった。しっかりした足取りでこちらに歩いてきた。

 表情は落ち着いていたが、彼も目力はすさまじい。その力強い瞳で穂高をじっと見た。こんな男相手に手を汚すな、そういう意思を感じる視線であった。

 だが今はこの男を殴りたくて仕方がない、震える拳をやむを得ず下ろした。

 真人が男の方を向いた。

「君、停学処分中だろ、こんなところに来ていいのか?」

「ついでに在宅観護中だよね、また檻の中に戻りたいのかい?」

 斎がせせら笑う。いつか穂高が言った、あいつでもっと遊びたかったという言葉を地でやっているように見えた。

 男が真っ赤なジャガイモのような顔になって斎をにらむ。檻という表現が相当勘に触ったようだ。


「おい、こっち向け……」昌貴も口を開いた。声はさっき以上にドスが効いている。

 これで四対一。普段の穂高なら卑怯と思うシチュエーションだが、今はまったくそうは思わない。荒らされた部室を想像する。悲しみをたたえてそれを片付ける少女たちの姿が脳裏に浮かぶ。バラバラに引き裂かれたモモンガのぬいぐるみの無念を晴らしてやりたい。

 怒りを抑えきれず再び距離を詰め、男を殴ろうとしたその時、男はなにかを見ると一目散に逃げだした。走りながら帽子を被り、部室棟から慌てて飛び出していった。

 追撃をかけようと走ろうとしたその瞬間、割って入った真人の手に制された。昌貴も穂高の横につく。体中を突き抜ける怒りを静めて、逃げて行く男の後ろ姿をにらみつけた。

「……ッ! あの野郎……! 今度目に入ったら……!」

 殺す、心の中でそう叫ぶ。

 使いたくない言葉、使ってはならない言葉、なのだが、かつて感じたことがないほどの憤怒がそれを言わせた。

 肩の力を抜いて大きく息を吐くと、いつのまにか斎が自分の腕を支えるようにしていたことに気づいた。その表情はいつもの穏やかな斎に戻っていた。

 複数の足音が近づいてきたので、振り返ると芳子がセキュリティガードを連れて走ってくるのが見えた。あれを見て男は逃げだしたのだろう。


「穂高、ちょっとこっちに来てくれ」

「え……ええ……」

 その時思った。テニス部へのいやがらせの件は、キド研のみんなには話したことはなかったのにこの三人は事情を飲み込んでいるようだった。


 なんで……?


「ガードへの説明は僕がやっておくよ」斎はそう言って彼らの元に向かった。

 真人に連れられて、部室棟一階の一室に入りテーブル席に着いた。職員たちの休憩室のようだが、事情を説明して借りたのだろう。昌貴もあとからやって来た。表情はいつものあっけらかん、である。真人が自販機から緑茶のカップを持ってきて、テーブルに置いた。

「穂高、なぜ俺たちが、あの男を知っていたのか疑問に思っているのだろう?」

「ええ……」

「実はな、数日前、部室近くであの男がちょろちょろしているのを見かけて不審に思ったんだ。穂高はまだ試験が終わってなかったから知らなかっただろうけど」

 真人も腰を椅子に下ろした。

「それで他の三人とそのことについて話していた時、ある先生……お前ももう会ったことがあるだろうが、文科の藤林という先生がやって来たんだ」

 ハッとすると同時に一瞬思考が止まった。自分が散々ふてくされた態度をとったあの上品そうな女性講師の顔を穂高は思い出した。彼女に謝りたかったが、試験期間中でそのことをすっかり忘れていたのである。

「大体の事情は聴いたよ。お前は、あまり事を公にしたくなかったようだが……。だけど藤林先生は心配だったんだな」

 いつか千緒が言っていたことを思い出す。〈あの男、きっとあなたを恨んでる〉事態がようやく見えてきた。


「ここ数日、なにか視線を感じることはなかったか?」

 そう言われればあった気がする。

「やつはなんらかの手段を通じて、自分の犯罪の証拠が明るみに出た原因、つまりお前を特定した。それで、お前になにか物理的な報復を加えるんじゃないかと藤林先生たちは懸念していたんだ」

 うつむいてしまった。顔が熱くなり、汗が出てくる。あんな態度をとった自分のために彼女がそこまで考えてくれていたことに対しての申し訳なさがのしかかってくる。

「学校の方もお前を、言いようは悪いが張っていた。そっちの方の目もあったんだと思うが……、ともかくみんなお前のこと心配していたんだ」


 気づかなかった、気づけなかった……また俺は……。


 千緒が心配してくれた時、もっと真剣に考えておくべきだったのだ。


 自分のこと、自分の都合ばかり考えて……、周りの人たちの善意を、無下に、しかけた……。


 いつか母が言っていた言葉が脳裏によみがえる、その言葉は……。

「山家くん!」

 誰かがドアを蹴破るほどの勢いで入ってきた。

 息を切らしてやってきたのは藤林講師であった。走ってきたようでかなり呼吸が乱れている。

 真人と昌貴が一礼する。穂高は呆けたように会釈しただけだった。それを見て藤林はますます青ざめた。怪我でもさせられたのだと思ったのだろう。

「けっ、怪我は⁉」

「あ……」声がうまく出せない。

「なんともありませんよ、大丈夫です」

 真人かと思ったら、昌貴だった。さっきまでの烈火の如くの怒りは微塵も感じさせない紳士的な声音であった。だが今の穂高には驚いている余裕がない。ようやく声が出た。

「だいじょぶ……です……」振り絞って出せた声はそれだけだった。呼ばれ方が、くん、に変わったことには気づいていない。

「ああ……! やはり部室棟のセキュリティには問題があるようです……」

 藤林は脱力したようにハンカチで額の汗を拭いた。

「まさか構内への侵入を許すなんて……。あの……男子生徒の入構許可は停止されているのですが……」

 学校内への入構はRCで行っている。ゲートをくぐればオートで処理されるだけで、忘れた場合の生体認証用のゲートもある。


 今、藤林先生はなにか言いよどんだように見えた。あの男、と言おうとしたのだろう。斎はあいつが観護中とか言っていたけど、審判とかいうのが終わるまでは一応、まだここの生徒ということか……。


「侵入経路の調査は厳密に行います。セキュリティガードにも巡回を強化するよう要請しておきましょう。それで……ほんとに大丈夫ですか、山家くん……?」

 やたら不安気な顔で穂高の様子を窺う藤林。穂高の沈鬱な様子をみて、怪我を負わないまでもショックを受けたのではないだろうかと、心配しているようだった。

「大丈夫です、問題ありません」

 顔を上げ、力を込めてそう述べた。

「それならいいのですが……」


 心配なんて全く不要だ、あんなカス野郎ちっとも怖くない。それどころか……。


 また自分の前に現れてくれるのを期待した。そうすれば、


 殺せるのに……。


 そんな恐ろしい思考をめぐらしたのは初めてだった。誰かをここまで憎悪したことも。あの男の顔が頭をよぎる。

 あんな男が奏をじろじろ見る、まして盗撮するなど穂高にとっては殺意を抱かせるもの以外のなにものでもない。


 男の自分ですらここまで思えるのだから、テニス部の女子たちの苦しみは相当なものだっただろう……。あんな男に徘徊されて物を盗まれ用具を壊される……反吐が出る!


 怒りと憎しみが顔全体に拡がっていく。真人がそれに気づいた。

「穂高、落ち着け……」

「落ち着いてますよ……」

 そうは言っても目は完全にすわっている。そして立ち上がり、藤林に向き直って口にした。

「あいつの住所、教えてもらえません……?」

 藤林は再び真っ青になった。真人はおろか昌貴も驚いた。

 先手を打ってやる、穂高の目はそう言っている。


 教えては……くれないだろう。あんなゴミでも一応まだここの学籍がある以上は……自分で調べるしかないな。


 立ち上がると椅子をそのままにして出入り口向かって歩き始めた。

「お、おい穂高!」昌貴がここまで動揺するのを見るのは初めてである。真人も絶句している。

「山家くん! あなたは……!」藤林も周章狼狽して、立ち上がった。

 気にも止めず進み、ドアノブに手をかけた。退出際に重要なことを思い出した。

「あいつがここに来たなんて、絶対に三崎さんたちには伝えないでくださいよ」

 これ以上彼女たちを苦しめるようなことがあってはならない、そう思いつつドアを開いた。その次の瞬間、目に入ったのは、

「……⁉」

 奏がいた。真顔になって目を見開いている。

「あ……み……」

 振り返ると同時に彼女は一気に駆け出した。

「三崎さん! 待って!」穂高も即座に追いかけた。



 部屋に取り残された三人。

「……なんてこった」真人がようやく声を取り戻した。

「ああ……!」昌貴は額の側部を強くつかんだ。

「山家くん、あなたは……」

 藤林が呆然と口に出す。先ほどと同じ言葉、だが抑揚が異なる。第二図書館での穂高の偽悪的な態度、先ほど見せた怒り、必死に追いかけていった相手は自分の部の女生徒、藤林はようやく全てを理解した。


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