(4)

 はやく……なんとか言ってくれ……。


 もうこの部屋にいるのは耐えられそうになかった。黙って出ていこうと思ったその時、

「……山家さん、なにか迷っていることがありますか?」

 くたびれた顔で彼女を見る。

「べつになにも……」

 再び顔をそらした。

「そうですか、話は変わりますが……」


 今度はなんだよ……。


 藤林講師が姿勢を正し、テーブルに両手を置いた。

「私……今回の件、恥じているのです」

 彼女の眼の憂いが一気に増した。

「あの子たちからは五月の上旬にはもう相談を受けていました。でも、当初聞いたとき、私は、その男子生徒は入りたかったクラブに入れなかったから、それで入りたがっているのでは、と考えました。だから言ってしまったんです。彼と話し合ってほしい、と」

 目を閉じ、手を重ねたように見えた。

「そうすれば今のトライアウト……選抜制度についてもあの子たち自身が考えをもって学校側に提言してくれるのでは、と期待しました。そうすることでみんなに自主性というものを持ってほしいと考えていたのです」


 自主性……?


「ですがそれはあまりにも悠長で見当違いな考えでした。彼がいやがらせそのものを楽しんでいるなどつゆほども予期していませんでした。あの子たちは私のことを頼らなくなりました。頼ってもなにもしてくれないと思ったんでしょう……」

 顔だけではなく、口調にも陰りが生じてきたのが下を向いている穂高にも感知できた。

「皆、実力行使でその生徒を排除することはしませんでした。クラブで暴力沙汰となれば大会への出場もできなくなる、とひたすら耐える他なく……、具体的な対応策が思いつけないまま時間ばかりが過ぎ、被害はますます酷いものになっていきました。私は……知りませんでした。あの子たちは私には何も言いませんでした。言ってもなにもしてくれないと思われてれば当然ですよね、最低です……」

 震えすら帯びてきたのがわかる、声音は悔恨と自分自身への悲憤に満ちている。


「部室荒らし、器物の損壊、すべて自分たちだけで処理していたのです。後から知ったことですが……、決して教員としてそのようなことは口に出すべきでないとわかってはいますが……、その男子生徒を殺すことさえ考えている子もいました」

 息が止まった。そして、思い知った。異常者相手に2ヶ月近くなにもできず、大人も守ってくれない。傷だらけになった、彼女たちの苦しみ、悔しさ、悲壮……。

 脳裏によぎる。奏、千緒、結実の顔。三人の憂いが胸に突き刺さる。

「ですが、そんなあの子たちを助けてくれた人がいました」

 目元が固まる。口は半開きのまま閉じてくれない。

「山家さん……、あなたの心根、というのは私にはわかりません」

 こちらを直視しているのがわかる。目をあわせるのが怖くてしかたない。自分が今どんな顔になっているのかも、わからない。


「ですが、それでもあなたは、あの子たちを助けてくれたのです」

 奏が夜の車駅で大笑いしたことを思い出す。夕焼けに染まる高速道路でのこと、彼女の部屋で談笑したこと、眠り込んで大慌てになった翌日の朝、彼女との記憶、思い出が頭に流れては心を捕えて離さない。

「だから私はあなたに感謝します。本当にありがとうございました」

 立ち上がった藤林講師に丁寧にお辞儀をしてくれた。穂高は呆けたように座り込んで、彼女の顔を見ようともしない。心はここになかった。

「それでは私は失礼します。レポート、がんばってください」

 そういうと去っていった。部屋に一人、取り残される。


 いつのまにか……、雨でも降ったのかと思えるほど、テーブルは濡れていた。妙に目が痛い。

 体を動かすことがなかなか難しい。くぐもって揺らぐ視界。茫漠とした意識の先に見える、楔のように打ち込まれた一人の少女の顔と声。喉を振りしぼってようやく言葉を発した。

「……奏」

 初めて、彼女の名前を呼び捨てにした。

 テーブルを拭いて、脱力したようにもたれかかった。顔をうつぶせにして、両目を閉じ、両手も投げっぱなしにした。

 先ほど、神経を張り詰めていたせいだろうか、糸が切れたように体の力が抜けていく。そのまま意識は遠のいていった。


 久しぶりに母の夢を見た。小学生の時の授業参観だった。母が教室に入ってくると、女性の担任が板書の問題を解くように言った。算数は得意で先生からはよく褒めてもらえた。だからであろう。先生は自分に見せ場を作って母を喜ばせてあげたいと思ったのだろう。だが、やめてほしかった。気恥ずかしくてしかたない。家に遊びに来たことがあり、母の顔を知っているクラスメイトたちもにやにやしながらこっちを見ている。断るわけにもいかず、電子板まで近づき、問題を解く。やや発展的な問題であったが難なく終えた。よくできました、先生が拍手。みんなも拍手。顔を伏せながら机に戻った。母の顔は見なかったが、きっと微笑んでくれいただろう。母が来た最後の授業参観だった。


「……みません」

 肩を揺らされ、目を覚ますと誰かいた。おそらく職員の司書だろう。

「すみません、そろそろ閉館時間になりますので……」

「……すみません」

目をこすって、それだけ言うと、鞄を手にして会議室を後にした。

 口元から嫌なにおいが鼻に伝わってくる。よだれとわかり、水道で顔を洗った。鏡を見る。目は普通だった。

 本を棚に戻すと、館内は人気がほとんどなくなっていた。二階フロアを抜けて外に出た。既に薄暗くなっており、夕闇の中、外階段を下りていく。途中で誰かいるのが見えた。


 あれは……。


 そこにいたのは、


 香月結実さん、だったか……?


 こちらに気づいたようで、近づいて挨拶する。

「こんにちは」

「こんにちは」

 なにか変に感じられた。目だけがニコっとしており、口元は固まっている。元々笑っているような顔なので今の状態は真顔、ということだろうか。

「……試験どうだった?」

「まあまあです」即答。

「そう……」

「はい……」これ以上話していてはいけない空気を感じた。

「それじゃ、俺……急いでるから」

「はい……さようなら」

「……さようなら」それだけ言うと立ち去った。むろん、別に急いでなどはいない。


 なんだろう? なにか緊張していたように見えたけど……。


 最終のバスで寮に帰った。部屋でレポートの仕上げを行う。期限は明日までだが、今日のうちにメールで提出してしまい、夕食を食べた後、ベッドにうつぶせになった。

 これまでに起こった様々な出来事に思いを巡らせる。


 別に、時期が悪かったとかそんなことは考えていない……。


 奏のことで懊悩するようになった時期とマシン展への取り組みに本腰を上げ始めた時期のことである。


 二つの課題が同時に持ちあがっても手際よくこなせる人というのはいるのだろう、だが俺にその器量はない……。いつからこの道に踏み入った? 彼女を助けた時か、食事の誘いに応じた時か、それとも、あの入学式の日、彼女を視てしまったから……か?


 考えるとまた深みにはまっていく。


 これもいつかは青春の一ページみたいな思い出に代わっていくんだろう、だが、踏み出せなかった後悔はおそらく一生残る……。がんじがらめのトラウマを背負ったまま生きていくのはきっとつらい……。


 目を開いて身を起こした。ぼんやりとした視線を宙に泳がせる。


 だから、最後にもう一度……、彼女と向き合ってみるべきなんじゃないだろうか……。想いを伝えるのは自分の弱さを認めることかもしれない、だがもうその弱さは超えていきたい……。俺は彼女が……好きなのだから……。


 恋破れてもきっとまた立ち上がれる。そう思い消灯した。


 そういえば、あの藤林という先生にはずいぶん無礼なことを言った。今度会ったら、いや俺の方から会いに行って謝ろう。


 その考えを最後にまどろみへと落ちていった。

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