(3)
金曜日の放課後、穂高の姿は第二図書館にあった。主に工科生の使う館で、三次元ディスプレイや高度な計算機が並び置かれている。文科生が使う中央図書館にくらべて、やや手狭ではあるが、これは蔵書の問題である。
Eノートをはじめとする電子記録媒体が広く普及しても、旧来からの紙の本は保存されるべき、とする風潮が文系では強い。そのため星緑港でも政治、法律、文学といった社会科学、人文科学の蔵書は豊富に置かれていた。もっともそれらの大半は、めったのことでは生徒たちの手に取られることはなく本棚の肥やしとしてほこりをかぶっている。
一方で理系、とりわけここの工科ではそのあたりの思い切りはよい。引用件数の多さなどをデータベース化して評価基準を定め、優先度の高い本だけを残し、残りは電子化したのち、廃棄処分か地下倉庫送りである。
きりがないものな。
電気機械の学術書を手にそんなことを考えていた。レポート作成に使うものである。提出系の課題はこれが最後だった。一年の一学期ということで多少評価は甘いという話だが油断はできない。
最後の仕上げに取り掛かる。Eノートを右に、学術書を左に広げて開始した。引用箇所は高次検索で簡単に判別されるので、引用符も怠らない。
レポートもあと半ばというところでトイレに立った。
手を洗いながら、鏡を見て自分の顔を確認する。
少し、変わったか?
顔の変貌などめったに意識しないのだが、ここ数週間での鮮烈な出来事を思い、なんとなく気になった。幼さが薄くなり、精悍さが増したように見える。
少しづつ大人になっていくんだろう、記憶だけを引きずったまま……。
六月を思い返す。数年分の経験を積んだ気さえする。そう思いつつトイレを出た。
机に戻り、作業を再開する。しばらくすると、職員たちが大量の本を台車で運んでいるのが見えた。新しい空中投射型の立体シミュレーターを作るという学校の計画を思い出した。このフロアの一部を使うのだろう。あれらの本は処分されるか倉庫へ送られることになるのかもしれない。そうなればよほどのことでもない限り、二度と人目には触れないだろう。
運ばれていく本に視線を送る。
穂高は本を処分するという行為がどうもなじめなかった。このあたりの感覚は文系的なのかもしれない。
もしデータがすべてなくなったらどうするんだろう。何千何万ものバックアップと復元技術で決して失われることはないと、専門家たちは豪語するけど……。
生徒たちが使っているEノートは、前時代のコンピュータータブレットとは違い、見た目も質感も限りなく本物の紙に近い。それでいて、紙ならば何万冊にもなる量の情報をたった一冊に集合させることができるのだから重用される。
ほんの四十年くらい前まではまだ紙が主流だった。学生たちは何冊もの本を鞄やバッグにいれて通学したという。今の時代にそれをやるのは不合理だし、馬鹿じゃないかとも思える。
だが、
本を捨てるというのは記憶を、思い出を捨てるのと同じことなんじゃないのか? 卒業アルバムはいまだに紙だし、子供の頃に見た絵本は懐かしいと感じる。人間は、紙の本になにか郷愁を感じるようにできているのかもしれない。
ノスタルジア、理屈では説明できない心の在りかを探す心。
それはきっと、愛や恋というものと同じ……なのか?
そこまで考えると再び作業に戻った。レポートもあとわずかというところになった。
「すみません」
女性の声を聞いて顔を上げる。
「山家穂高さんですね、少しお時間よろしいでしょうか?」
内部講師の女性だった。この高校に限った話ではないが、大学と高校の要素が混在する学校では学校運営と授業教授の担当職員がある程度分離している。
ここでは、教育職員はさらに内部講師、いわゆる教師と外部講師そして主に系列の大学から出向してくる教授の三つに分かれている。職員バッジは赤、白、黒であるがつけている人は少ない。この女性はつけていた。
「……なんでしょうか?」
たまたま自分を呼んだわけではないとわかり、少し緊張する。
「ここではなんですから、上の階の会議室に……、よろしいでしょうか?」
女性講師の表情が柔和であったので、なにかやらかした、という話ではないだろう。
「わかりました」
ノートをたたみ、広げていた本もとりあえずカバンにしまった。
「あ、……では私の後に」
なにか言いかけたようだが、そのまま案内された。おそらく、そのままでも、と言おうとしたのだが思いとどまったのだろう。残念ながらこの学校にも置き引きはある。ほぼバレるにも関わらず。
案内に従い会議室に入った。四角い会議テーブルがあったが、女性講師がパネルを操作すると丸みのある形に変形した。
「どうぞ、こちらへ」
示された椅子に、やや迷ったが先に座った。見たことのない人だったが雰囲気でおそらく文科の講師だろうと予想した。
「はじめまして、私は文科の内部講師で英文を担当している藤林薫と申します」
女性講師は丁寧に頭を下げて挨拶をした。穂高も返礼する。
「はじめまして、山家穂高です。あっ、工科一年です」
一応自分にも肩書というものがあることに気づいた。
「はい、山家さんですね。担任の角谷先生からうかがっております」
カドヤと聞いて、一瞬誰かと思ったが入学初日に一度だけ顔をあわせただけの担任のことだと察知した。彼の講義は取っていないので詳しくは知らない。
工科ではクラスなどあってなきもので、共通科目や実験演習講義の同期生たちがクラスメイト的な存在になる。
たった一度会っただけの人が俺の何を知っているというのだろう……。
心底疑問だったが、社交辞令と受け取った。
「それで、今日ここにお連れしたのは、私の受け持つテニス部……男子女子双方の顧問をしておりまして、それに関することです」
稲妻に打たれた気分に襲われた。ここ数日考えないでいた三崎奏のことが一気に頭の中で拡がっていく。
「は、はぁ……」
文科は今日が試験最終日と聞いている。彼女は今、どうしているだろうか。
「聞き及んでいるかもしれませんが、テニス部は、ここ二ヶ月ほどある男子生徒にいやがらせまがい……いえ、いやがらせを受けてきました」
だんだん用件がわかってきた。あの、
ゲス野郎のことか。
特定の誰かを心中であってもここまで軽蔑したことはない。それほど強い嫌悪と怒りが自分の中で渦巻いている。
「いやがらせ、というは……あの、本人たちの許可のない撮影やつきまとい、盗撮に用具の棄損、私物の窃盗などのことです……」
藤林という講師は慎重に言葉を選んでいる印象があり、心苦し気に見えた。この講師もかなりショックだったのであろうことがうかがえる。
そういえば、なんだかナイーブそうな人だな。あんなモンスターに遭遇したことのない人生だったんだろう。
そう考えるとこの講師もなんだか気の毒に思えてきた。
「その男子生徒は先日、無期停学処分となりました。偶然にも……いえ、ある事がきっかけとなり、セキュリティガードが彼を取り調べた際に、これまでのいやがらせを収めたストレージや写真、盗難物を発見したからです」
そんなものを持ち歩くなんて、犯罪者としても相当なアホだったのではないかと思う。
「今は、仮処分中ですが、我々はこの事実を重く受け止め、警察への通報を決定し、それを行いました。生徒を……あのようなことをしたとはいえ、警察に引き渡さねばならない、というのは情けない話だと思います……」
「いえ、別にそんなことはないと思いますが……」
開校以来なかったような事件であったのだろう。星緑港でこのようなことが起こったなど世間に知られれば恥なんてものではないだろうし、事件の異常性を巡ってメディアからバッシングを受ける可能性もある、そんな学校側の意識が対応を遅らせたのかもしれない。
そいつはここに来るべき人間じゃなかったんだ。しかし一体、どういう手違いでそうなったんだ?
「それで、その一連の行為を撮影していた動画を私どもも見分したところ……」
こちらをまっすぐ見て、ここからが本題という口調になった。
「ある一人の男子生徒が……、彼に立ち向かい、そしてそのことが原因となって、我々の知るところとなった、ということがわかったのです」
「……」
自分のことを言っているのだろう。こそばゆいと同時に、面倒なことになった、とも感じた。
やはり、奏には知られたくない。
「山家穂高さん、あなたですね……。彼を……彼に対峙してくれたのは」
顔を伏せて視線を落とす。ここ数日で穂高の心境はずいぶん変わってしまった。心はまったく冷えていない。今も熱くこの胸を焦がしている。だが頭のほうは冷えてきた。もう自分の役目は終わったとさえ考えている。
月曜日の昼にテラスから見た光景が頭にのしかかってきた。
あの時、クラブの友人たちと話していた彼女はとても、楽しそうだった……。みんなを苦しめていたものがなくなったからだ。
眩しいほどの笑顔で一緒にいた仲間たちと笑い合っていた奏の顔を思い出す。
彼女とはこれまで三回会った。一度目は偶然、二度目、三度目は彼女の方から来てくれた。俺はなにもしていない。いつも……ただ受け身で、状況が色々と重なった結果、交流を持てただけだ……。
「あの……山家、さん?」
藤林講師が心配そうに尋ねるが、聞こえてすらいない。
そもそも、彼女はもう、とっくに気づいているのかもしれない。俺の好意もあの男を追い払ったことも……。それでちょっとしたお礼で家に呼んでくれただけなのかもしれない……。
どんどん思考がネガティブな方向に落ち込んでいく。
なのに俺は、眠りこけて、一晩居座ったりして、彼女をわずらわせた……。ほんとに、バカなんじゃないのか⁉ あんなずうずうしい真似しといて、今さら自分のことを好きになってほしい⁉ 論外だ……! オールリジェクトだ……!
「ど、どうしました⁉」
穂高の尋常ならざる様子を見て藤林もただごとではないと感じ始めているが、穂高には届かない。
あいつはもういない。近々、退学、逮捕だろう。もう俺のやるべきこともない。彼
女には杉岡も香月って子もいる。彼女のことはみんな好きだろう。いくらでも友達を選べる立場だ。すぐに明るい学校生活を取り戻せるはずだ。だが……、そこに俺の居場所など、あるはずが、ない……。このまま恩人面して、付き合いを持とうとしたところでお荷物になるか、新たな悩みの種になるかのどっちかだ。
自分自身が作り出した黒い猜疑が足元から自分を侵食していく。
そんな関係になるくらいなら、もういっそ、このまま……!
役割を終えた部品は死荷重として破棄されるべき、そんな言葉すら思い浮かべた。
「山家さん! しっかりしてください!」
やっと藤林講師がなにか言っているのに気がついた。呼吸はすっかり乱れ切っている。
「あ、あの、お水持って……」
聞き終わらないうちに言葉が出た。
「……ですか……?」
「え?」
「処分ですか? ケンカの」
「な、なにを言っているんです!」
「なら、なんなんです?」
「私は、ただ、あなたにお礼を……」
「礼? なんの礼ですか? 意味がわかりません。俺はただあいつがおかしなことやっているから、逆に盗撮してちょっとビビらせてやろうと思っただけなんですがね……⁉」
藤林講師が呆然とする。
「そうですか、あいつ捕まったんですか。ざまあないですね。でも、もうちょっとあいつで遊びたかったな。ハハッ……!」
もうヤケだった。
「そんで?」
「え?」
「俺はおとがめなしですか?」
「とがめなど……」
「へぇ……、そりゃツイてるな」
考え込むような視線を向けられた。なにかを探られている、そんな感触が肌に付着する。
「そんじゃ、もう行っていいですか? レポートあるんで」
教師にこんな口をきいたことはかつてなかった。だが今は、
もういいだろう……!
さっさと解放されたかった。せっかくほめてやっているのに、ひねくれた返事しかできない性根のねじ曲がったガキと軽蔑してもらいたかった。
ほどなく自分の悪い噂はテニス部にも行くだろう。彼女もこのことを知れば自分に幻滅する。本性がわかった。もう二度と口をきいてもらえないだろう。だが、それでよかった。もうそれで終わりにできれば……。
息を荒げて、テーブルに両手を乗せる。顔から脂汗が流れ落ちた。藤林講師は黙ったままこちらをじっと見ていた。
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