第六章 いらない人
(1)
「はぁ……」 朝の陽光が差し込む通学バスの中で肩を落としての嘆息。
「ため息一つで幸せが一つ逃げるぜ穂高ちゃん」
今日は昌貴と斎も同じバスであった。三人は同じ第三男子寮だが、部長は知瀬に家があると聞いていた。
「大丈夫、うまくいくさ」
「うん……」
斎はマシン展のことを言っているのだろう。本来穂高が心配しなければならないのはそこでなくてはならなかった。しかし今、穂高は別のことに気を取られてしまっている。
先週の金曜日に、奏の部屋に泊まってしまったことが心のしこりになっているのである。もやもやした気持ちのまま、連絡も取れないまま土日を過ごしてしまった。
彼女の様子が知りたかったが、メールアドレスすら知らない。
これでよく一泊できたものである。彼女との線の細さを改めて実感する。
平成時代の映画でもこんなアホがいただろうか……? マシン展は日曜だ。それが終わるまでは……。
意識しないようにと思ってもできることではない。
操縦はかなりよくなってきている。それほど難しい動作をさせるわけでもないので、マニュアル通りといったところであった。後は天気と自分のメンタルである。
こんなことで悩んでるなんて、他のみんなに悪い、なんてもんじゃない、最低だ……。
なすべきをなさずして女にうつつを抜かしている好色漢。そんな言葉を思い総毛立つ。
「穂高? 大丈夫なの、ちょっと……風邪気味じゃない?」斎が不安げにを見ていた。
「おーい、しっかりしてくれよ。今になっておじけづいたのか?」
昌貴も気になり始めていたようだ。
「だ、だいじょぶ。ちょっと期末試験の心配してただけ……」
「ああ……、まあ普通に講義に出てりゃ、普通に単位くるらしいけどな」
「ちょっとタイミング悪いよね、マシン展の後じゃ」
二人ともそれで納得したようだった。
操作役を任されていながらなんたる醜態……。工科道不覚悟……!
という機械運転の講義を受け持つ本堂広一郎講師の口癖を思い出し、胸裏で復唱した。彼はロボット部の顧問でもある。
キド研の5人は、毎日同じ席に座って昼食を共にする習慣はない。工科は四限、もしくは三、四限の講義終了の時刻がずれるのは日常のことであるし、皆、口には出さないが、お互いを束縛するようなことはいやなのだろう。穂高も誰かと話をしながら食事をするというのがどうにも苦手だった。
あの娘だけは……そうはならない。
月曜の昼、テラスで一人、手すりに腕を乗せていた。昼食のパンを食べ終えて、右手に握っているのは紅茶のパック。先週の奏の部屋でのことを思い出して、なんとなく飲んでみたのだが、あれよりもずっと安っぽい味だった。そんなことを実感として持ったことは今までなかった。奏と夢中になって話し込んだことを思い出す。
わからないな。
誰にでも、ああなのではと思ってしまう。
ワンオブゼム……。
なにかの小説で見たそんなことばを思い出すと同時に、またしても奏のことを考えていた自分に呆れた。
パックゴミ回収のランドドローンが飲み終わったならよこせとばかりに、穂高の横に並んだ。なにかの相棒みたいであった。
紙パックをつぶして、お腹の部分の開閉口にプレゼントしてその場を立ち去ろうとした。手すりから手を外して、うつむくと、下のテラスがなにやら騒がしい。目をやると、見えてしまった。
息をのむ。そこにいたのは奏であった。考えてみれば、このテラス近くの第一食堂は文科生が多い。いつもは工科生が多い二号館近くの第二食堂で済ませてしまうのだが、渡り廊下でつながっているので、散歩がてら来てしまったのだ。
先週のこともあり、様子をうかがいにきたのではと思われてはたまらないので、焦燥してこの場から離れようとした。その振り返り際の刹那、彼女の笑顔が視界に入ってしまった。
もう少し見ていたい、という衝動に冷や汗をかく。朝の決意もふきとびそうだった。視点が定まらないでいると、結構な人数で談笑しているとわかった。テニス部の部員たちであろうか、男子生徒もいた。彼らともにこやかに言葉を交わしている。そこにいる全員が、とても楽しそうに見えた。
一気に身を翻すと、そのまま走り出す。校舎に入り、屋上を目指して階段を駆け上がる。オートで開くのも待たずに屋上のドアを開けて、突き当りまで走ると、フェンスに額を押し当て、右手で胸を押さえ込んだ。必死に呼吸を落ち着かせ、汗をぬぐい捨てる。
屋上のフェンスの向こうには宇宙から飛来するという電波を観測するための尖塔が輝いている。伏し目で見ていた地面が急に暗くなり、首を上に向けると雲がかなりの速さで流れ行くのがわかった。遅れて強風が吹いた。それを感知した尖塔は安全のために、下の校舎に向かって収納されていく。その動作をぼんやりとながめた。
これじゃ乙女だ……。
奏が他の男と笑い合っていたのを見ただけで、気がおかしくなりそうだった。
「さんがー」
背後から自分を呼ぶ声、振り返ると、誰かがこちらに向かって駆け寄ってくる。
「杉岡……?」
「姿が、見えたから、あんた、けっこう速いのね」
ぜえぜえ呼吸を乱しながら話す。
「そ、それより大ニュース! 大ニュース!」妙に興奮している。
「なんだよ」どうせくだらないことだろう。
「例のいやがらせのやつ、捕まったって!」
「え?」
なんのことかと思ったが先日の不審者のことだと思い返した。
「今、職員会議で処分を決めてるって、うちの男子から聞いた」
「ほんと?」
「ほんと、ほんと!」
「昨日、グラウンドのあっちの……向かいの方の倉庫で盗撮してたみたいで、窓を壊そうとして、セキュリティガードに捕まったんだって!」
あの時のことを瞬時に思い出した。あの男に、なにか威嚇のようなサインを送った気がする。その直後に捕まったのだろう。
「それでそいつのバッグを調べたら、今までのいやがらせの動画のデータとか全部あって、ナイフまで持ってたって聞いた」
そういうものを持っていてもおかしくない雰囲気ではあったが、もしそれで奏になにかあったらと思うと血の気が引けた。
男の処分を考える。数々のいやがらせに加えて、盗撮、窃盗、破壊行為に危険物所持とあれば最低でも無期停学だろう。警察に突き出されるかもしれない、そうなれば退学はほぼ免れない。奏たちを苦しめていたものが消えたことに穂高も安堵した。
「ところで、なんで猛スピードで屋上まで駆け上がってきたの?」
千緒がようやく落ち着きを取り戻した顔で聞いてくる。
「……ああ、来るマシン展に備えて体力づくりを、ね」
とっさに思いついたにしては、まあまあの嘘だと思った。
「ふーん……でも構内を走り回って、階段をダッシュで上るなんてやってたら、変人だと思われるからやめたほうがいいよ」
大きなお世話だ、と返したかったが実際今の自分は少し変なのでやめておいた。
しかし……。
自力でなんとかしようとは思っていたが、期せずして元凶を葬ることができたようでなにか拍子抜けした気分である。
「それとアドレス教えて」
「えっ、なんで?」
「証言してもらうかもしれないでしょ。一応あんたも目撃者なんだから」
正直、それは避けたい。今、奏と顔をあわせるようなことになったら、
「……わかったよ」
迷ったが応じることにした。自分程度の協力で彼女の助力になれるのなら本望と思った。RCを取り出す。千緒も同じようにして、一瞬でデータの交換を終える。
「それとこれ、テニス部と私たちのコミュだから」
「あ、ああ」
クラブはともかく自分たちの私的なコミュニティまで教えていいのだろうか。そう思った時、予鈴の電子音がなった。
「もう行かなきゃ、そんじゃ」
千緒は軽快な足取りで去っていった。
RCを見る。ようやく奏との間にか細い線が作れたが、今はあまりうれしくなかった。むろん申請もせず、次の教室に向かった。
汗だくになりながら、コックピットキューブから出る。疲労困憊だが涼し気な気分だった。すべてのマニューバパターンを連続して、かつ安定的に行えたのである。
「うん……! これなら、いい……!」
真人も、スコアをみながら静かに快哉を叫んだ。昌貴たちも集まってくる。部室でのVR訓練とはいえ、最後の一押しとしては十分なできといえる。
「全パターン、スコアAからA-だ。これなら問題ないだろう」
真人がEノートを広げて、見せた。単純な動作ながらも、通しでできたことに穂高も心中で喜びの声を上げる。
「ようやく、一つの山を超えたってところですかね」
昌貴がEノートを手にもってつぶやいた。
「ああ、ようやくここまでこれた……」
覗き見る斎、芳子も感慨深げであった。
「後は、あんたのコンディションよ。ちゃんとしといて、変なもん食べないでよ」
「あ、ああ……」
食事よりも重い悩みがあるなど、言えたものではない。
「この分ならこちらで指示は出さないほうがいいかもしれない。穂高、ずいぶん苦労させた、よくやってくれたな」
「いえ……」
「本番が終わってからってやつでしょう、ここは」
横合いから昌貴が口をはさむ。皆で一斉に笑った。
そんな部員たちを見れば、自分が三崎奏への恋情で悩んでいることなど、ちっぽけすぎる悩みだとも感じる。
片づけを終えると念入りに掃除する。もうマシン展が終わるまでここに来ることはない。
「話していた通り、火、水、木、金はそれぞれ期末考査の準備に充ててくれ」
学校からの指示であり、部室棟全体が施錠される。
「少々時期が悪くてみんなには申し訳ないが、自宅でも同様に。うちからは追試組は出さんぞ」
真人が微笑を浮かべてそう言った。
「俺は鍵を返すついでに、本堂先生と少し話しをしてくるから四人はまっすぐ帰るように」
マシン展のことで、だろう。一応彼がロボット部と兼任で付き添うことになっている。
「お疲れさまでした」と、最後の挨拶を済ませるとドアを開き帰路についた。
「穂高、お前数学深度いくつ?」
「五だけど」
深度というのは学校の成績とは別個の公の学習到達度である。飛び級や飛び卒、大学入試や就職試験の判断材料にも用いられることがある。
数学は九段階制で、五段で旧時代の高校数学の範囲をほぼ網羅する。星緑港の工科生ならば入学の時点で四段以上持っているのが大半だった。穂高は中学の頃にはすで四段に達しており、五月に五段に到達したばかりである。
「斎は?」
「六だよ」
「ふむ……芳子さんは?」
「五ですこと」
芳子がうっとおしそうな表情で返す。
「んじゃ俺だけか……まだ四なんだけど、ちょっと教えてもらっていいか?」
「別にいいけど」
「それじゃ夕食後にラウンジで勉強会でもしようか」
斎が提案する。
「うーし、そうすっか」
「いいよ」
やはり追試は嫌なので同意する。
「芳子さんはお一人でだいじょうぶかなぁ?」
かなぁ、の語尾でつい彼女を思い出してしまい、頬が吊り上がりそうになった。
「自分の心配でもしてろや」
振り返ることもなく乱暴に返す。彼女は知瀬に実家があるので寮には縁がない。むろん、男子寮に来たことも一度もない。
「あん? なんだありゃ?」昌貴がなにかを発見した。
「え?」
一人の女生徒が連行されていく、ように見えたが肩を支えられているだけだった。見知った顔ではない。職員と思しき人が大慌てで緊急救護用のローラー付きタンカを持ってくると、それに乗せられ、どこかに運ばれていった。
「急患かな?」
斎が怪訝な視線を向ける。
「……」
なにか引っかかった。
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