(3)
「う……ん……?」
気だるさが全身に回っているような感覚の中、重いまぶたを開けた。どうやら、あのまま眠ってしまったらしい。完全な目覚めには至らない意識のまま辺りを見回す。体を起こすと背から何かが落ちた。毛布だった。半開きになっていた口が大きく開いた。
「……な⁉」
一気に立ち上がった。部屋全体が暗い。電灯は落ちており、ややピンクめいた光がカーテンの隙間から差し込んでいる。一瞬、夕方なのかと思ったがそんなはずはないと考え直した。頭は完全に混乱している。
「み、三崎さん!」
叫べども奏の姿は見えない。そこでようやく時間を確認するという行為を思い立った。テーブルの上に置きっぱなしになっていたRCを起動させる。五時四三分。
最後に時計を見たのは、おそらく、昨日の十九時ごろだったから……。
額に汗をかきながらあわてて計算する。
十時間以上寝ていたのか、俺は⁉
ふと二階からドアが開く音がした。誰かが降りてくる。誰かと怖くなったが、パジャマ姿の奏だった。
「んー、さんがくん……? おはよー」
まぶたをこすりながら、奏が手を振った。やたら髪が乱れているのが妙に色っぽく見えたがそんなことを気にしている場合ではない。
「み、三崎さん! 俺、ね、寝ちゃってた……! の……?」
「う……ん……そう」
奏がうつらうつらと答える。
「起こしても起きてくれなかったから……、それで重くて、客間にも運べなくてそのまま……」
あまりの失態に絶句すると同時に、トイレに行きたいことに気づいた。
「あ……あの、トイレ、借りていい……?」
「う……ん……、あっち……曲がって、男の人は右……」
「あ、ありがと……!」
男子トイレなんかあるのかと、驚きつつも直行する。
用を足して、手を洗い鏡を見た。髪は寝ぐせでぼさぼさだった。
「ちゃんと流れた……? そこ……普段、使わないから……」
当たり前だろうと、振り返ると気配も感じさせないまま奏が目の前まで来ていて、また驚かされる。
「ついでに、お風呂も入ってきなよ……」
「え……あ……」
寝ぼけておかしなことを言っているのではないだろうか。
「い、いや……! もう帰るから……」
「入ってったほうがいいよ……、さんがくん、ちょっと汗くさいよ……」
「あ……」
あくびをしながら奏がそう言う。しらふの彼女なら、もう少しやわらかい表現をするだろう。ショックで頭がおかしくなりそうだったが、インナーは確かに少々べとついている。
「はい、これ……」
奏が収納棚からタオル一式を取り出し、渡された。ホテルなどにあるような来客用のものだろう。結局、シャワーだけ借りることにした。
なんてこった……。
実はこういうことは前にもあった。この時代、睡眠不足からくる疲労感を抑制するための技術が様々な分野において普及しており、中には栄養食品として処方箋なしで市販されているものもある。穂高も、連日の操縦練習と期末考査に向けての試験勉強のため、そうしたエナジードリンクを飲んでいた。
だが、それで体が必要とする睡眠時間そのものを短縮できるというわけでもなく、休めるときに休むと十数時間寝込んだりする。巷ではこれを命のローンや、ナポレオンスタイルなどと呼んだりしていた。
しかしまさか、よりによって三崎さんの家で……!
自分のうかつさ、間抜けさに驚き、あきれる。シャワーを浴びながら、ため息をついて横をみやると、奏が使っているであろう大量のトリートメントが目に入った。慎重にボディソープだけを拝借して、全身を強く洗う。
それにしてもここも広いんだな……。
ちょっとした、銭湯の一スペースくらいの大きさはある。右の浴槽をみて彼女がつかっていたのかと想像すると、赤面して視線をそらした。
「さんがくーん」
更衣室からいきなり奏の声が響いて、驚くと同時に壁に足の小指をぶつけてしまった。
「ッ! な、なに?」
「着がえここにおいとくねー」
「う、うん!」
替えの服……。
まさか女性ものではあるまい。体をふいて出てみると、未開封の男性用の白い下着類があった。ドアの向こうから、奏がおそらく洗濯機を起動させたであろう音が聞こえてきた。
「あ、あの、これ……」
「ん~、土谷さんにお願いして用意してもらったのー」
昨日のコンシェルジュのことだろう。改めて体を強くふくと、自分が脱いだ服が下着も含めて丁寧に折りたたまれているのをみて、また顔が熱くなる。意識が遠のきそうになるほどの熱に耐えて、なんとか着がえた。
リビングに戻ると奏が大きな保温庫のようなものをごそごそと探っていた。
「はぁ、たくわえがあってよかったよ。一人じゃあまり食べないから」
依然として寝ぼけているような口調。彼女も朝は弱いのだろうか。いや、自分がこんな時間に起こしたからだとほぞをかんだ。
「あの……! 三崎さん、シャワーありがと、俺、そろそろ……」
「これ、いつのかな……、まだだいじょうぶだよね……」
聞こえていない。近くまで寄るとこちらに気づいたのか、首だけを回した。
「ちょっと待ってて、今、朝ご飯のしたくするから」
「いや……! その……」
食べていくしかなさそうだった。
「どこやったかな……」
奏が下の戸棚をあさる。なにか手伝おうかと、視線を移すと、ブラをつけていない胸元が見えて慌てて顔をそらした。
朝食はダイニングテーブルを使うことになった。丸型のトレーにいくつかのパンと簡単なサラダが乗った皿まで用意してくれた。
「いただきます……」
「い、いただきます……」
依然として半睡状態のままパンをかじる彼女に続いて、自分も食べてみた。やたら味が濃い。おそらくこのマンションに調理室かなにかで作られたものだろう。
昨晩は飽きることなく話し続けたが、今は状況が状況なだけに口を開きにくい。一方で奏は全く気にすることなく咀嚼している。彼女らしからぬもごもごした口の動きがなんともかわいらしい。
コーヒーを飲み終えてから、すべての食器をトレーに集めた。
「片づけは、俺がやるから」
「うん」
重そうなまぶたで奏が答えた。トレーを持って流し場まで行く。
「そこ、入れればだいじょうぶだから……」
「え、ああ……」
キッチンの横にある入れ口にトレーを入れると、オートで閉じられた。自動食器洗い機なのだろうが、自分の寮にあるものと比べて静穏性があるように感じた。
奏が空中平面モニターを起動させ、ニュースが流れ、寝ぼけ眼でそれを見ていた。
「……あの、それじゃ俺、そろそろ帰るから……」
「うん、気をつけて……」
「色々ごめん……シャワーと朝食ありがとう」
それじゃあ、と手振りで別れを告げて、玄関まで歩いた。靴を履いて、鞄を手に持つ。そして、手をかざして自動ドアを開こうとしたその時、
「……? あっ」
振り返ると奏が立っていた。ようやく目が覚めはじめたのか、キョトンとした顔をしている。
「ど、どうしたの、三崎さん」
「……帰り道、わかる……?」
「うん、こっちは平気だから。それより起こしちゃってごめん。三崎さん、もう少し休んだ方がいいよ」
そう言われて、ようやく自分がパジャマ姿のままだと気づいたのか一気に彼女の頬に赤みがさした。
「そ、それじゃあ、ありがと」
今度こそ別れを告げると、奏も手振りで答えてくれた。
「ハァァ……」
エレベーターに乗り込み大きく息を吐く。
なにやってんだ俺……、彼女、頭が冴えてきたらすごく怒るんじゃないのか……。
エレベーターが一階に着くと、重い足取りでエントランスに向かう。
昨日のコンシェルジュ、土谷氏が電子手帳でなにか作業をしていた。
「ああ、おはようございます、山家さん」
「おはようございます……」
ごく普通に挨拶を返したが、いつのまにか彼が自分の名前を知っていたことに気づいた。
「あ、あの……、あの服、ありがとうございました。昨日くたびれていつのまにか寝ちゃったみたいで……」
彼女のためと思い、言い訳がましく説明する。
「いいえ、お車を用意しておきましたので、ご利用ください」
詮索する気は全くない、という意思を感じる口調であった。
「それで……、あの服どのくらいですか?」
「はい?」
「だから、服の代金払いますので」
「……出世払いでお願いします。ホホッ」
そう言うと笑いながら行ってしまった。改めて一礼してエントランスを抜ける。
道路までの敷地には長い池があり、そのわきで老夫婦がコーギー犬を散歩させていた。コーギーがこちらを見るとまっすぐ走ってきて、甘えてきたので頭をなでてやった。老夫婦とにこやかに挨拶を交わして、道路に出ると車が一台待っていた。
近くまで行くと後部ドアが開き、どうぞ、という声に従い乗車した。座ると、またため息をついてしまった。
「どちらまでお送りいたしましょうか?」
「え……? あっ! 申し訳……ありません……」
無人車(UV)だと思っていたら、運転手がいたので驚き、運転手が苦笑する。寮名を告げると、データを転送するまでもなく、一瞬で位置を特定してもらった。車が発車する。
小さくなっていくマンションを振り返った。
昨日から驚きっぱなしだな、俺……。
奏の部屋に泊まったという感動にひたりながらも、彼女の心境に及ぼす影響がわからなくて不安な気分にもなった。
走り去っていく車を奏は窓から見ていた。彼を見送るのはこれで二度目。両手には穂高が使っていたタオルが握られていた。
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