巻の十一 白玉の何ぞと人の問ひし時

 ――この時代、既に心霊スポット、廃墟でカップルがイチャイチャするのはホラーの導入だった! どっちか怪物に襲われて死ぬフラグ! 両方襲われると語り手がいなくなるので、大体女だけ死んで男が泣く!


「もっと綺麗な別荘だと思ってた! 親戚の家とかあるじゃないの!」

「宮さまの別荘とか一発で父君にバレて連れ戻されるじゃないですか。陰陽師でもパッと思い当たらないあばら屋、隠れるのにこれ以上の物件はないですよ」


 預流は嘆いていたが靖晶は平然と地面に立って影の長さから方角と刻限を確かめ、両手の親指と人さし指で四角を作り、目をすがめて邸を眺めていた。


「――築四、五十年ってとこかなあ。柱に傾きもないようだし、直せば全然住めますよ。震度四とか来なければ普通に。震度四来たらこの邸に限らず、平安京の半分は倒れるので。基本、木造桧皮葺きだから倒壊しても意外と住民は圧死しないんですよ。ぼくこれよりひどいあばら屋で心理的瑕疵物件でソロキャンプ経験あります。ていうか陰陽寮は全員そんなんです」


 対抗するように沙羅も両の拳を握る。


「おれ、シンリテキカシはわかんねえけど伊勢の山ん中で野宿したことなら。狼がいなくて屋根と床があるのって上等ですよ、預流さま! 畳持ってくりゃいいじゃないですか。床ないと地面からダイレクトに冷気と湿気が来て身体バキバキになるんだよな! 畳とか敷物とかあった方が断然いいです!」

「二人とも強い! 強すぎてわたしの気持ちをわかってくれない!」


 預流はといえば未だに牛車から降りるのもためらっていた。


「夕顔の死んだ邸だわ! 〝露と答へて〟だわ!」

「平安圧縮言語、勘弁してくださいよ」

「平安人なんだから伊勢物語第六段『芥川あくたがわ』くらい知っといてよ!?」


 源氏物語第四帖『夕顔』は光源氏の恋人が心霊スポットデート中にまんまと心霊現象で謎の死を遂げる話。

 伊勢物語第六段『芥川』はこんな話だ。

 昔、在原業平ありわらのなりひらが叶わぬ恋に苦しんでいた。相手は後に清和天皇せいわてんのうの中宮となり陽成天皇ようぜいてんのうを生む藤原高子ふじわらのたかいこ。摂関家の后がねの姫君。許されるはずもなかったが、ある日、ついに盗み出して背におぶって大阪府高槻市芥川まで来た。

 上品で世間知らずの姫君は草が夜露でキラキラ光るのすら不思議がり、かわいらしい。その後、雨が降り出したので業平は高子姫をあばら屋に入れて自分は入口で弓矢を持って番をしていたが。

 鬼の棲む場所だと知らなかった。

 鬼は一口であばら屋の中の高子を喰らい、その悲鳴は雨と雷の音にかき消され……朝になって愛しい姫が消えているのに気づいた業平は嘆いた。


〝白玉の何ぞと人の問ひし時 露と答へて消えなましものを〟


〝あの輝くのはなあに? 真珠?〟とあなたが尋ねたときに〝露ですよ〟と答えてわたしも消え失せてしまいたかった――


「え、意味がよくわかんねえ。何で鬼が出てくるんですか? 何で姫を中で見張らないんですか? 鬼をやっつけられなかった、悔しい! とかじゃないんすか?」


 沙羅は心が綺麗だった。


「平安文学ってそういう前向きな話じゃないの。これ、実は高子姫は追いかけてきた兄弟に連れ戻されてしまったのを業平は鬼にたとえて我が身の無力を嘆いているの。やっつければハッピーってわけじゃないの」

「ああ、うん、ええと。預流さまは后がねの姫君で一応ぼくが盗んで逃げた男でここはあばら屋で、フラグが立ったと」

「わっかんねえなあ。兄宮さまは味方なんだから、後はこの沙羅が鬼とか出てもやっつければいいだけじゃないですか。鬼は殴ったり蹴ったりが効かねえってならお前が退治しろよ陰陽師」

「え、ぼくは、えーと」

「まじない師の仕事だろ」

「沙羅は〝従者枠〟だからわたしの不安がわからないのよ!」


 預流は首を傾げる沙羅の肩を掴んで揺さぶる。


「そう、姫が鬼がと平安風に言うからわかりにくいんだわ。ここは明らかに『残穢ざんえ』の家!」

「いや、ちょっと待ってくださいよ。見た目から不気味なのは残穢の家と真逆です」


 と靖晶が手を上げた。


「築四、五十年で式部卿宮さまにゆかりの邸……堀川ほりかわ御息所みやすどころさまのお母君が確か皇女さまで、七十代半ばでご存命で……預流さまのお祖母さまのお邸です! 当てはまるのが一軒あります! 心理的瑕疵物件じゃないです!」

「何でわかるの気持ち悪い! 人力大島てる気持ち悪い!」

「そもそも平安京は長岡京ながおかきょう早良親王さわらしんのうの祟り、つまり大残穢祭りを避けて遷都したのでそんな恐ろしい穢れはないし、あったら遷都しないし、平安京ができて以降の疫病での大量死は都のどこにいても大差ないです。普段お住まいの山背宮さまのお邸だって何があるか。むしろまだ合戦とかあんまり起きてないので後世の京都より大分綺麗なんじゃないでしょうか。理論上、後の時代になるほど都市部に穢れが増えていくはず。エントロピーの増大、宇宙の熱的死という視点から見れば千年分、有利! 邸ができる前に死んだ人のこととか考えるだけ無駄です。早良親王や菅公は恐ろしくても、フグを食べて死んだ縄文人の祟りを恐れてる人なんかいません!」


 うっかり、建築とオカルトのプロフェッショナルがいた。宇宙の熱的死って。彼には平安人の自覚が足りない。


「お祖母さまの前も多分預流さまのご先祖ですよ。ご先祖なら預流さまには親切なのでは? ぼくはこんなんなのに晴明公に祟られたことはないですよ? 仏道に励んでらっしゃるんだからご先祖もきっと応援してますよ。先祖が祟るって近現代の発想ですよ? 祖霊は祀るものですが祟るから祀るわけではなくイエを守護してもらうために」

「り、り、理屈じゃないのよ。仏道の教えではご先祖はとっくに極楽浄土にいるはずだけどそういうことじゃないの。あなたは職業がそれだから勉強して特訓して廃墟が怖くなくなっただけで、特訓の前は生理的に怖い建物くらいあったでしょう?」

「安倍晴明が建てた都で一番の怪奇スポットに生まれてこの方ずっと住んでます。何だかよくわからない古文書や古代魔術アーティファクトが山ほどあって、式神が隠されてると人に指さされます。うちより怖い建物はそうそうないです。生理的に無理とか言ってたら家に帰れません。職場も似たようなもんです。ていうか現代人から見たら平安時代の貴族の邸宅とか全部生理的に怖くて無理ですよ。この話、演出的にツッコミ入らないだけで夜中とかメッチャ暗いですよ。菜種油の灯り、LED蛍光灯とは比べものにならない暗さだからここも賢木中将のお邸も暗くて怖いとか言い出したら大差ないですよ。現代人から見たらどこもかしこも暗いし風通しがよすぎて、新しい豪邸も古いあばら屋も誤差です」

「わたし現代人じゃなくて平安人だし暗いから怖いんじゃなくて今明るくてももう怖いんだけど!」


 ――理屈が勝つだけで何も安心させてくれない男! 駄目だ、こいつと結婚しては駄目だ! 恋愛以前の問題だ! 得意ジャンルならいいところが見えるかと思いきや普段より悪い! 「オバケが怖いとか、ハハッ、かわいいねキミ」みたいな平安イケメンもぞっとするがこれはこれで論外! やはり身を清くして仏道に励まなければ!


「まあ片づけて畳を置けばそれなりに何とかなりますよ、あんまり騒がしくやると人に見つかるから使う部屋だけ。いやー預流さまの夫になったらこのお邸が手に入るなら、本気で逆玉狙っちゃおうかな! リフォームしたら全然いけるし親戚と一緒に住んでるの、息苦しいし!」


 しかも明るく言ったその冗談がものすごくかんにさわった。「邸が目当てでわたしの夫になろうだと、受領如きが」と徳のない言葉を吐き捨てそうになった。いけない。清い尼僧の心を取り戻さなければ。こちらは彼にお願いしてつき合ってもらっているのだ。

 邸がボロいから気に入らないというのもわがままな話だ。いつまでもぐだぐだ言ってないで、何か一つくらい妥協しなければ。預流は牛車を降りようとして――

 崩れかけた築地塀土塀の陰から彼女をじっと見ている目に気づいた。近所の子供か何かが覗いているのかとも思ったが。

 その目を見たときに息が詰まった。


 ――初瀬だった。

 幼いながらに鼻筋の通った聡明そうな顔立ち。どんな風雅な公達になるかと皆に期待を寄せられていた。見間違いようもない。

 あのセピア色の幻覚とは違う。死んだはずの夫が幼いあの日のままの顔で、冷たく彼女を見ていた。

 まるで預流の不貞をなじるように。



 ――気づいたら真っ暗だった。ぼんやりと灯台の灯りが見えて。


「預流さま、大丈夫ですか」


 沙羅の細い手が肩を揺すった。


「え、あ、うん」


 何が何だか。畳に寝かされて、布団をかけられているようだ。そばに角盥がある。沙羅は布を搾って預流の顔を拭いてくれていたらしい。

 起き上がると靖晶も近くに背を丸めて座っていた。灯りが少なくて部屋の外も見えない。空気がひんやりしている。


「あのう、わかりますか」


 靖晶の声が頼りない。困惑しているような安堵しているような。


「わからないわ、何かあった?」

「悲鳴を上げて気絶してらしたんですよ。ええと、三刻六時間くらい。……ぼくには全然わからないけどそんなにここ、駄目ですか」

「き、気絶」


 自分で聞いて驚いた。気絶? この預流の前が、そんな平安の姫君みたいなことに?


「本当に物の怪、いたんですね。無神経なことを言ってしまって」

「物の怪っていうか……」


 沙羅が白湯を持ってきてくれた。それを飲んでいたら、少し思い出してきた。


「……塀の外に初瀬さまがいたのよ」

「初瀬……初瀬少将さま?」

「元服前のお姿だったわ。恨めしそうにわたしを見ていた……」


 自分でも信じられなかったが、そういうものが見えたのだ。ほおににきびがあったのすら見えたような。


「入内逃れの偽装であっても再婚なんて許さないって初瀬さまがおっしゃってるのかしら」

「そ、そう、なん、ですか」


 靖晶は露骨に戸惑った。「そんなまさか。……でも倒れたのは本当だし論破して解決するわけでもないしなあ」と言うのをやめた結果の「そうなんですか」。彼なりに気遣っているようだが。


「……ならまじないはするべきじゃなかったんでしょうか。道具なしでできるのを一通りしてしまったんですが。いや、でも、ぼくのは効かないから多分大丈夫ですよ!」


 フォローが大分意味不明になってきた。


「前夫の祟りかどうかはともかくこの状況がよほど預流さまにとってストレスフルなのか、偽装結婚に精神的な抵抗があるのか、古い建材や気候が身体に悪いのか、あるいは本当に夕顔が死んだ邸なのか――あらゆる可能性を検討して宮さまに計画中止を訴えた方がよくはありませんか。預流さまが病になってしまっては元も子もないです」


 彼は結構本気で心配しているようだった。医学が未発達すぎて「無理をしない」以外の提案ができないのだった。


「そうね……わたしも悲鳴を上げて倒れてしまうなんて生まれて初めてだし。しょっちゅうそんなんならともかく、痘瘡でも死ななかった健康体だけが取り柄だと思っていたから薬師に診てもらった方がいいのかも」

「そうしましょう。ぼくが走って宮さまにご連絡してきます。話を通してから牛車の仕度をしましょう」


 と、張り切って靖晶が立ち上がった。


「……あなたが行くの?」

「もう暗くて人目もないですから、灯りを点けずにささっと走っていきます。ぼく、走るのは速いんで」

「従者とか下人とかいないの?」

「いますけど、下人に手紙持たせるよりぼくが行った方が早いし無礼もないし。下人って結構手紙落とすし、こんな夜中に宮さまを叩き起こすならぼく本人であった方が」

「いや、あの、ここにわたしと沙羅を置いていくの? 下人に任せてここにいてよ。兄さまへの礼儀とかいいから。あなたが夜道怖くなくてもわたしはここ、怖いんだから」


 預流は彼の狩衣の袖を引っ張ったが。


「……何か、そんなこと言われるとかえってよからぬこと考えちゃうからやっぱ走って頭冷やしてきます。ついでに何か薬になるものいただいてきますから」


 靖晶は気まずそうに、さっさと振り払って出ていってしまった。蔀戸しとみどや格子もろくに閉まらないらしい。――よからぬことって何だよ! それより自分から出ていくなよ、お前、結局〝露と答へて〟フラグを何も理解してないんだな!? なぜエントロピーがわかって伊勢物語がわからない!


「わたしがここにいてって言ってるのにどうして聞かないの! あの人わたしのこと本当に何とも思ってないの!? わたしは必死の思いであの人を助けたのに!?」


 仕方ないのでひしと沙羅を抱き締めた。


「やっぱりあのまじない師は信用できないですよ。男なんかに頼っちゃ駄目です、沙羅が預流さまを守ります!」


 沙羅は頼もしいことを言っていたが。

 いくらも経たないうちに、彼女も。


「……預流さま! あそこに光が!」


 と、あさっての方向を指さした。


「ひっ!」

「人魂とかじゃねえ、松明ですよ。人です」


 と言うが、預流にはよく見えない。


「でもうちの下人はあっちにいるはずです。ここ、ボロで塀が崩れてるからその辺のヤカラが入ってくんのかな。――見てきます!」


 預流を押しのけて立ち上がろうとする。


「人なんて余計怖いじゃないの!」

「沙羅は大丈夫です! 今日はおれたちで使ってるから遠慮しろって言ってやるだけですよ」

「わたしが大丈夫じゃないから行かないで!」


 抱きついて引き留めたのに、それでも容赦なく沙羅は振り払って灯火の届かない暗闇へと出ていってしまった。彼女は結局、自由人だった。


「誰もわたしのこと大事じゃないの!? フラグが怖いっていうの、わたし別に心霊現象が怖いんじゃないのよ!?」


 預流は大いに嘆いた。いや、初瀬の姿を見て失神してしまったので心霊現象も確かに怖い。

 確かに怖いが、それより遥かに恐ろしいものがこの世にはあるだろうと。

 一人になった途端、夜中なのに鳥の声がするのが気になった。風の音が妙に大きく聞こえる。虫の声もさほど珍しいものではないと思うのにいつもより不吉な感じだ。暗くてろくにものが見えず、やたらと隙間風が吹き込むのは普段と大差ないので靖晶の言う通りなのだが。むしろ普段と違う古い木材や土の匂いなどがやけに気になる。

 そして。

 どこかでみしみしと足音がした。

 ――名家の女は姫君であれ女房であれ、屈んだまま膝で歩くので足音は独特だ。沙羅は立って歩くが身体が小さくて体重が軽い。

 さっき遠ざかった彼女の足音と重みが全然違う。

 男君は普通、先触れがあるものだ。家族でも、いや家族ならばこそ「兄宮さまがいらっしゃいます、みっともないところがないようにお仕度を」と家人が先に知らせに来る。

 先触れを伴わない男の足音。

 平安の女にとってそんなものを聞くのはサバンナで野生のライオンを目視するのに等しい。

 甘くて重たい香りが漂った。嗅いだことのある薫香だ。


「――二条の后とお見受けする。在五中将ざいごちゅうじょうが見当たらんが、ならば今業平とあだ名されるこの中将為正が盗んで進ぜよう」


 駄目押しで低く甘い男君の声が響いて、灯台のほのかな光に白皙の公達の顔が浮かび上がった。

 ――すかさずフラグを回収しに来るこの男! ホラー映画の怪物みたいなタイミングで出てきやがって! 生きている人間が一番怖いに決まっている!


「ど、どうしてここがわかったの!? 何で!?」

「何って平安貴族らしく?」


 賢木中将は何気なく言ったが、預流はそれを聞いただけで血の気が引いた。


「式部卿宮が初草の君を父親から隠すならどこか、宮のゆかりで人の知らんようなところはないかと。は播磨守より型落ちで機能が少ないが、こたびのはデータが古い方が有効だったようだぞ。使いようだ」


 断りもなく預流の真横に座り、肩を抱き寄せる。その感触でぞわっと肌が総毛立ち、押しのけようとしたが賢木中将はびくともしない。


「見当をつけて、来てみたらいた。捜すつもりもなく見つからなくてもよかったが、見つけてしまったからなあ。うん。寂しくて風情のあるいい邸だ。いい邸にいい女がいたらこれはもう、据え膳を食わないわけには。そろそろちゃんと大人の女にしてやらんと。男の義務だ」

「沙羅! どこまで行ったの!」

「あの女稚児なら灯りでこちらの従者どもが招き寄せて袋叩きだ。灯りが気になるとは虫けらだな」


 中将は軽く人でなしの笑みを浮かべた。


「待って、あなた何しに来たの? わたしは、ええとあの、いろいろあって今上の女御にはならないわ!」

「そんなことはどうでもいい」


 指先であごを掴む。

 端整な目に不釣り合いな凶暴な光が宿っていて、こちらの目が灼かれて魂が取られるようだった。


「お前らの逃げ足の遅いのが悪い。一口に喰ってしまうぞ」


 ――どうして鬼なんかが出るって、出るのだから仕方ないではないか。

 理由などない。


「下人など呼んでも無駄だ。尼は漢語を読むのではないのか。経文は? どうせなら何か面白いことをしてみせろ。前戯だ。変わったことをしておれを興奮させろ。霊験でおれを退けられないのか。御仏はお前を守護しないのか。死んだ後と言わず今すぐおれを大焦熱地獄に落としてみせろ」


 ――今度こそフリーズなんかしている場合ではない。思い上がったこの男を罰することこそ功徳である。

 袈裟の中の独鈷杵を握り、削って丸めた片側に親指を当てる。

 右腕を目一杯伸ばし、引き寄せて渾身の力で左の肩甲骨の辺りに突き刺した。――わたし、強姦慣れしたわけじゃない! 男なら誰でもいいわけじゃなかった! よかった、マジで! と半ば安堵しながら。

 しかし確かに突き刺さったのに、賢木中将はちょっと身体が揺れただけだった。笑う余裕すらあった。


「これが地獄か? 甘いなあ、甘い。地獄も極楽も変わらんではないか。この程度でおれが諦めると思ったか」


 ――しまった。装束をたくさん着込んでいるから貫通していない。絹は重ねると硬い。頭を狙わなければならなかったのだ! それともこいつ、痛覚が鈍いのか!?

 呆然としている間に畳に押し倒された。大きな身体で的確に押さえつけてくるので身動きが取れない。


「かわいいなあ。坊主やら陰陽師やらの顔を思い浮かべるとなおかわいい。おれが思うに女の味とは、塩気だ」


 くすくす笑いながらうなじに顔を埋めてきた。


「他の男の涙で美味になる。おれがお前の腹を大きくしてやったらあいつら、どんな顔をするのかな。〝白玉の何ぞと人の〟と嘆くのかな」


 ――そうか、こんなにくっつかれていたら殴ったり蹴ったり噛みついたり目に指を突っ込んだりできない。雰囲気で口を吸って隙を見せたりしない、何て周到な男。

 反撃する女がいるのを知っている。窮鼠が猫を噛むのすら許さない。

 人を傷つけるのに慣れている。それで女がどれだけ傷つき心を死なせるか知りながら楽しむことができる。

 愉しんで、忘れることができる。

 本物の悪魔だ。預流の脳内妄想ではない、肉体を持った悪魔。


「三途の川と言わずともに畜生道を歩もうぞ。鴛鴦おしどりも比翼の鳥も所詮は禽獣きんじゅう、畜生だ」













「ごめんなさい!」


 若い声と、何か、ぶつかる音がした。

 急に賢木中将の身体から力が抜けてくにゃっとした。押さえつけられなくなったので預流は身体を起こせるようになった。そのまま、反応がない。失神した?

 ――助かった? と思っていいのか?

 灯火のそばに。十歳を少し過ぎたくらいの少年が、角盥を持って屈んでいた。少年だ。立ち上がると、沙羅より背が大きい。


「……え。ええと」

「大丈夫ですか」


 この子が角盥で中将をぶん殴って預流を助けてくれたのか。


「あ、あなた」


 ――記憶と少し違う。目の前の少年はほおに赤い痛そうなにきびがあって、髪を後ろにまとめて一つに結っていた。着ているのも水干だ。秋でそろそろ肌寒いのに麻の粗末なもので、丸出しの膝小僧が冷たそうで。

 彼は最後に三日だけ髻を結って冠をかぶって大人になったが、思い出すのはいつもみずらを結った子供の姿。もっと上等の紋入りで分厚い絹の半尻上着を着ていた。

 それでもその顔立ちは間違いなく――


「――初瀬さま」


 角盥を持っていたのは、十二で死んだはずの預流の夫だった。


―続く―

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